第33話  20日目 2022年6月2日(木)

 今日は、退院後初めての外来の日である。先にも書いた通り、いったんこの話は今日で終わりにしようと思っているが、病院の予約サイトを見るといつのまにか三週間先の予約が入れられていた。食道外科の予約はともかく、放射線・化学療法の予約が入っているのを見て少々不安になる。患者というのは、少しのことで勝手にいろいろな想像をし始めるので、診断する側はなるべく説明をしてから物事を進める方が良い。

 昨日は10時にベッドに入った。で、朝の目覚めは3時半。相変わらず睡眠時間が短いのは、寝ているうちに右側の胸部背後に感じる痛みと関係あるのかもしれない。起きているとさほど感じないその痛みが寝ていると累積するように溜まっていくのも少し不気味である。

 朝ごはんは昨日食べ残したチャプチェ。ご飯は予約で炊いておいたのだけど、それは昼に炒飯にでもしよう。病院の予約は午後一時。それまでに腸瘻・シャワー・昼食までを終えて出かける必要があるので、いつもより一時間ほど早く腸瘻を始める。たぶん、十時までには終わる筈。

 それにしてもいつまでこの腸瘻を続けなければならないのだろう。

 栄養という観点からはなるべく経口で取った方がいいに決まっている。ただ不安なのは喉の閊えで、やはり以前よりは食が進まない。無理して食べると後で辛いのでどうしても少食になる。それと、喉の閊えが起きた時に、食後に経口摂取する薬がうまく取れないときがあり、どうしても無理そうなときはお湯に溶かして腸瘻から入れるということをしてきた。実際はそんなに回数をしたわけではないが、痛み止めの薬が摂取できないとしたら不安があるのは事実だ。


 CDは一階に書物と一緒に収めているのだが、今は三階の書斎兼寝室にその中から数枚持ってきては聴いている。新しくベッドを購入したら今度は寝室を一階にせざるを得ない。その時はLPレコードも聞けるオーディオシステムを新調しなければなるまい。以前実家から持っておいて来たCDの中にフリッツ・ライナーがシカゴ交響楽団を指揮したリヒャルトシュトラウスの管弦楽集があり、それを聴いてみた。

 フリッツ・ライナーという指揮者はハンガリー出身なのだが、ハンガリーというのは名指揮者の宝庫だ。ジョージ・セル、アンタル・ドラティ、イシュトバン・ケルテス、フェレンツ・フリッチャイ、あまり好みではないけどオーマンディやショルティ・・・過去に遡ればベルリン・フィルの二代目の首席指揮者であるアルトゥール・ニキシュもその一人である。すごい面子だ。すごい実力者だらけなのに、「誰でも知っている指揮者」というわけではない。どちらかというとアメリカの新興の交響楽団を育てた指揮者だらけである。クリーブランド、シカゴ、ミネアポリス、デトロイト・フィラデルフィア。・・・アメリカの一流交響楽団はハンガリー出身の指揮者なしには語れない。


 フリッツ・ライナーはその中でもとんでもない実力者でホロビッツやバイオリンのヤッシャ・ハイフェッツなどの共演が多いのも単にレコードのレーベルの都合ではなく、ライナーの能力によるものだ。バルトーク(彼もハンガリー人だ)なんかの演奏などは凄い。

 当然、リヒャルトシュトラウスを演奏しても卓越したオーケストラの響き、とりわけ金管の素晴らしい響きに圧倒される。「ドン・ファン」なんか聞いてみたまえ、「ツァラトゥストラはかく語りき」だって。

 「2001年宇宙の旅」で使うべきはカラヤン/ウィーンフィル(これは僕も持っている素晴らしい演奏だけど)ではなくて、このライナー盤だったのだよ、と勝手に思っている。ライナー盤は音が映像に映える。リヒャルトシュトラウスはカラヤン。それが良い組み合わせであるのは事実なんだけど、あの映像にふさわしいのはむしろこの演奏だったのではないか?「地獄の黙示録」がショルティの指揮であるなら、「2001年宇宙の旅」がなぜライナーではいけないのだ?

 と、ここで奇妙なことに気が付いた。映画のサントラになっているのはなぜかどちらもウィーンフィルの演奏でなぜかどちらもDECCAの配給なのだ。その上、「2001年宇宙の旅」の方はもともと音楽のソースは公開されていなかった、と聞く。

 もしかしたら、まだあの時代はクラッシック音楽の世界では「映画」に使われるということがさほど名誉でもなければ意味のある事でもなかったのかもしれない。その中でDECCAは比較的映画界に協力的だったから・・・?

 今ではとても想像がつかないが、クラッシク音楽が敢えて言えば「スノブ」でありえた時代があったのだ。

 曲を聞き終え昼食を取ってから、病院へと向かった。入り口へ体温をチェックし、病院に入る。いつまでこれを続けるんだろうか?疫病による社会コストの増大は一体どれほどになっているのだろう?そんなことを思いながら受付を済ませた。


 血液検査を終え、診察室に呼ばれるのを待っていたが、予約時間を過ぎているのになかなか呼び出しがかからない。後で気がついたのだが、血液検査を行ったのが診察予約時間の30分ほど前だったのがいけなかったのだと思う。おそらく医師は血液検査の結果も踏まえて診察をするのだ。従って血液検査は診察の大分前に行っているのが望ましいのだろう。それを明記してくれればそれに従ったのに・・・。予定より30分ほど遅れて呼び出しがかかった。

 担当の医師は淡々とした口調で、

「検査の数値は問題ありません。ですが・・・」

と言うとめがねの縁に手を掛けた。

「切除した部分のリンパの一カ所から転移が見つかりました。他の部分に転移がある可能性も否定できないのでそれを叩くために化学療法を行う必要があります」

「・・・」

 僕は無言で医師を見た。医師は話を続けた。

「つまり・・・、予防的措置として発症しないように叩くと言うことですね。そのためには入院をしていただく必要があります」

「放射線・化学療法の先生と予約が入っていたのはそれが理由ですか?」

「そうですね」

 医師はめがねの縁にもう一度手を掛けると頷いた。

「・・・そうですか」

 医師は用意してあった紙を基に僕に説明を始めた。

「今回の検査では特に問題はないです。入院は摘出部での転移ですから。ですが、そうした転移がある場合・・・」

 医師は紙をめくると、その中ほどにある数字を指した。

「化学療法を行って五年後に生存している確率は45パーセント、健康でいる確率は39パーセントです」

「・・・」

 最初に見つかったときに言われた生存確率はこの数ヶ月で半分程度に落ちたことになる。それもその化学療法を行ってという条件づきでである。

「行わなかった場合は・・・」

 僕の問いに

「それはどのタイミングはともかくとして、最終的に癌が発症してしまうと言うことになると思います」

 医師は簡潔に答えた。そうした質問になれているのだろう。感情を抑えた口調であった。

「なるほど・・・」

 選択肢というものはなさそうであった。例えば、転移が明らかに数カ所に存在して手術をするかしないかという場合なら却って選択肢があるのかもしれない。しかし、化学療法というものが用意されていた場合に、未だにそれを経験していない患者にとってそれを拒否するのはあまりにあたまでっかちな対応である。

 予想通りの結果ではあったが、少し落胆する。癌が見つかった時点では場合によっては手術で死ぬようなことがあることもあるだろうと達観していたが、助かれば助かったでそれが遠のいた感もある。しかし現実はと言えばそんなこともない訳である。

「分かりました」

 ”分かりました”というのは”受け入れた”という意味ではない。頭の中では理解したという意味である。化学療法の医師は最初に診察を受けたときに外科的処置と同時に代替的措置として提示されたときの女性医師の名と同じであった。当初は外科的処置か放射線・化学的処置のいずれかの選択であったが、結局両方ということになるようだ。


 その日、病院に行ったために時間が余りなくて豚肉の中華炒めと味噌汁、それに納豆だけの簡素な献立で夕食をとりながら、連れ合いに状況を簡単に説明した。感傷的でもなければ絶望的でもなく、淡々とした話である。体温は36.1℃、血圧は123/63

脈拍は67である。


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