第31話  18日目 2022年5月31日(火)

 5月の晦日は朝から雨が降っている。もうすぐ梅雨の季節だ。

 昨晩は10時に寝たこともあって目が覚めたのは4時。一度だけ目が覚めてトイレに行ったけど、一時間半ごとに目が覚めた頃よりはだいぶましだ。

 朝早くから一昨日聴いたばかりのラサールSQによるブラームスの四重奏曲を聴きなおしてみる。そしてなぜラサールSQがベートーベンの後期四重奏曲の録音から一年後にブラームスの四重奏曲を録音したのか、考えてみた。

 商業的に考えたらベートーベンの後期四重奏とブラームスの四重奏曲という選択はさほど好ましいものではない。ベートーベンの後期四重奏は前にも書いた通り耳の病気で殆ど聞こえなくなった作曲家が音を聴くこともなく作曲したもので、数々の著名な作曲家や演奏家に否定的な言葉を浴びせられた曲群である。

 どうせならラズモフスキーの曲群の方がビジネスとしては期待できる。もっといいのはモーツアルトやハイドンの有名な曲、選択肢としては薄いがヤナーチェックやドボルザーク、シューベルトの「死と乙女」だってあるでしょ?と専属のレコード会社であるグラモフォンは思ったに違いない。

 新ウィーン学派やらリゲッティやら、賞(シャルプラッテン)は取ったけどツェムリンスキーの全集など全く売れそうにないものも我慢して出しているんだから、せめてもっと売れそうな選択をしてよ、と彼らが考えても驚くには当たらない。なんでもうこういう売りにくい曲ばっかり選ぶかなぁ?

 ふと思ったのは彼らは「弦楽四重奏曲」の「際」の曲を好んで演奏したのではないかという事だ。最初にラベルとドビュッシーがあったので、そんな風に考えたことはなかったのだけど、しかし、彼らの曲にしてもどこか、「どん詰まり感」があることはぬぐえない事実であり、クラシック音楽の中でも弦楽四重奏曲という形態そのものがどこか「どん詰まり」になっている印象さえあるのだ。

 まあ、確かに弦楽四重奏曲のみならず、クラシック音楽全体が「どん詰まり感」に見舞われている事実は拭えない。ストラビンスキーやベルク、シェーンベルクを始めとした作曲家が存在した20世紀初頭までは管弦楽曲やオペラ音楽を中心にまだ「作曲」された新しい音楽が流入されていた。戦後、新しい音楽が次々に生まれたとは言えないけれど、平和への希望のと中産階級がステレオを持ち始めたことで「演奏」は受け入れられた。フルトヴェングラーやワルターの時代からカラヤンやベームへ、スター指揮者が次々と生まれ、その指揮者の元で優秀なソリストが産まれていった。

 だが、いま、作曲の世界も演奏の世界にもそうしたスターは生まれず、形態として消耗品と化した音楽はクラッシック音楽を巻き込んで大量のノイズと変化しつつある。デジタル技術は写真や音楽の担い手をプロからアマチュアに渡してしまい、量産化すると共に質の無限の低下を齎しつつある。今それを救う何かを持っているジャンルはなさそうである。

 彼らはそんな中でクラッシック音楽の最期の矜持を示そうとしたのかも知れない。その後に聴くべき音楽は何であろうか?

 迷っている手が、ふとプロコフィエフのピアノ協奏曲全集に触れた。フランスのピアニストであるミシェル・ベロフがクルト・マズア率いるライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と演奏したもので、録音されたのは1974年。

 当時はまだ東ドイツ(ドイツ民主共和国)という国があって、ライプチヒはその中にある一都市であった。どのような経緯で、こうした録音が可能になったのだろうか。 当時、東ドイツにはドレスデンのオトーマル・スィットナーと共に厳然たるマイスターとしてのマズアがいた。彼ら芸術家は政治的主義主張に関わらず、文化的には互いにリスペクトするものがあり、もし政治が互いに共存の道を選んだなら世界はどれほど豊かになるのだろうという希望があった。もちろん、芸術家の中には互いにスパイのような活動をする存在もあり、とりわけソ連・東欧の諸国の芸術家はおそらく全員が何らかの形でそう言うことに関与することを強制されたであろうけど。でも、それだけではない。

 芸術的なリスペクトや希望に支えられたであろう、この協奏曲集はベロフの素晴らしい技巧や、オーケストラの確実なアンサンブルによって、プロコフィエフのピアノ協奏曲全集として私としては最も推薦したい。もちろん個別の曲にはウィリアム・カペルやアルゲリッチの名演奏はあるが全集としては他のピアニストのものよりこちらの方が断然お勧めである。ベロフというのは日本ではあまり認知されていないが、近代・現代音楽を演奏させたらかなり、ピカ一の存在である。(メシアンの「トゥーランガリラ協奏曲」やら「幼児イエズスに注がれし20の眼差し」みたいな曲ばかり弾いているから日本ではあまり人気が出にくいのはわかるけど、どれも素晴らしい演奏です)こうやって並べて聞いてみると、やはり三番が良く聴かれているのが理解できる。三楽章の構成といい(他の曲は4か5楽章とピアノ協奏曲としては珍しい)メロディといい、プロコフィエフの方が聴衆に寄った曲だ。けれど若い情熱に溢れた1番も、どこか吹っ切れた様子の5番ももう少し聴かれて良い曲だろう。(ピアニストはなかなか大変だろうけど)


*Prokofiev

Concerto pour piano et orchestre : no1 en re majeur Op.10/no2 en sol mineur Op.16/

no3 un ut majeur Op.26/no4 en si bemoi majeur Op.53/ no5 en sol mineur Op.55

Overture sur des themes juifs Op.34 pour piano, clarinette, et quatuor a cordes

Visions fugitives Op.22

Michel Beroff (piano) Gewandhaus-Orchester Leipzig / Kurt Masur

Michel Portal (Clarinette) Quatuor Parrenin



 朝のうちの雨は昼過ぎには殆ど止んで、買い物に出かけた。アサリを買う。北海道産のアサリは見た目でも区別しやすいし、今までもずっと買ってきた。とはいえ今、悪い方の話題で評判になっている熊本産(と言われる)ものも時々買った。熊本産が韓国や中国(場合によっては北朝鮮のものさえあるのではないかと疑ってはいるが)から輸入したものを畜養していることは知っていたが、問題になった時はもはや畜養さえしていなかったらしい。その前にTBSかどっかで、熊本県のアサリの実情をすっぱ抜く番組をやっていたのでおそらくそれで熊本県は慌てたのではないかと思う。

 確かに熊本県産のアサリの質はどんどん悪くなっており、開かないアサリや中の貝が極めて貧弱なアサリが増えていたので安くても買うのを控えていたがどうも輸入したものをいったん海にばらまいて、間もなく回収をしするような仕組みだったらしい(もしかしてそれさえやってなかったかもしれない。とにかく誤魔かしはどんどんエスカレートしていったのだろう)

 焼津のカツオにも呆れたが、こんなことが日本ではどんどん行われているような気がする。正直、米だって怪しいと思っている。(今年は近くのスーパーで買う、ある北海道産のブランド米の品質が急に悪くなった)


 北海道産のアサリを味噌汁にして西京漬けの鮭を焼いて食べた。旨い。

 歩行数は久しぶりに17,000歩を越えたけど、調子が戻ってきたわけではない。体温は35.8℃、血圧は104/61、脈拍は68。

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