第30話 17日目 2022年5月30日(月)

 5月も終わりが近づいてきた。手術からもう一月経ったのだと思うし、まだ一月しか経っていないんだとも思う。そんな風にアンビバレントな想いが交錯する理由はこれからどの程度回復するのか依然としてよく見えないからだ。6月2日に外来があって、医師と面接する、その日をひとくぎりとしてこの日記風のエッセイも完了させようと思っているのだけど、今頭の中にあるのは、

「手術前を100としたら、手術後はいったいどの程度がベストになるのか?」

 という問いである。入院中に看護士さんから、

「最大中の痛みを10としたら、今どのくらい痛いですか?」

 と良く聞かれた。

 この回答は難しい。3とか言ったら大したことがないだろうと思うし、8とか答えたら大げさな奴と思われかねない。そもそも10とはどんな痛みなのか分からないし、自分の3が隣のベッドに寝ている人の3と同じなのかも分からない。一体にして数字にするというのは良く分かるようで、分からないと思っているが、それでもその質問は医師に尋ねてみたい。

 個人的には、100には戻らないにしても85とか90とかには戻るんじゃないか、と思っていたが、平素感じる息苦しさ、体の奥底にある痛みや不自然な硬さ、喉の閊えが招く食欲の減退を加味すると、今の段階は手術前の55~60程度でしかない。確かに手術直後には5程度しかなかったし、2週間後に漸く20くらい、退院時には40~50くらいしかなかったのが、少しずつ改善はしている。けれどその改善の進捗度合いを考えるとせいぜい70とか75くらいにしか戻らないんじゃないか、と思えてきた。


 朝の体温は36.1°。血圧は111/71 脈拍は66。看護士さんなら、

「良いですね」

 というだろうが、本当にいい状況なのだろうか?今日から3日間、外来で行われる栄養指導のために食事や飲み物の記録をつけなければならない。マフィンにバターを乗せて焼き、ベーコンエッグを作りながらそう思う。そう思いながらその用紙に朝食の記録を書き込んだ。


 結局、週末にはあの「モンセラートの朱い本」は結局、聴かずにいた。そもそも僕は古楽をあまり聞く方ではない。。そんな僕が心を奪われたのは、入院という特殊な状況の中で心が弱っていたことによる一種の錯覚のようなものではないか、と思いそれが現実であることを恐れていたのである。だが、迷った末(レコードで言えば針を落として)聴き始めた。その途端最初のカンパネラの音に心が鷲づかみにされてしまう。もしかしたらこの音こそ、現世と冥界を分ける音ではないか、と思った。仏教でも様々な楽器のような物を使うがけいに少し似ているのかなぁ。そのまま最後まで聴き続けた。


 二時頃に外出して武蔵小山の商店街を抜け、戸越の喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた。その二階で客の1人が店員の運んできたホットドッグにケチャップがついてないと店員に文句を言い始めた。仕方なく店員がケチャップを持って来たにも関わらず、作り直せ、と言い始めた。

 文句を言うまでは勘違いで済むが、作り直せと言うと揉めても仕方ない。確かに昔はこの喫茶店でもデフォルトでケチャップがついていた時期はある。ある、がたぶん10年近くも昔だ。切り替えの時(そのときは田町から白金高輪に歩く途中にあった店舗でであった。今も鮮やかに覚えているのだから結構僕にとっても衝撃的だったのだろう)に僕も、え?ついてないの、と思った記憶が残っている。ホットドッグにマスタードとケチャップは付きものだからね。その意味では客にも同情する。しかし前はついていた、少なくとも最初に尋ねられた、というのは勘違いか嘘だ。

 案の定、揉め始め、別の店員がこの店では昔からケチャップはつけてないでも要求があれば付けますと説明するが、クレームをつけている客は「付けるかつけないか最初に客に聞くのが筋だ」と主張し始める。

 ついには電話で店長まで出てきて、客は、本部に文句を言ってやるし、こういう時代だからネットで炎上するのは覚悟しろ、みたいなことを受話器に向かって言い放ち、電話を切ると店を出て行った。でもこう言う捨て台詞は言ってはならないよね。いい大人がする主張ではないし、場合によっては脅迫になる。

 とはいえ一方で世界一般ではホットドッグにマスタードとケチャップがつくのは標準だよねー、とは思う。ほんとうはピクルスもほぼ標準だよね、と思うけど(ピクルスはお金を余計に払うとついてくるのだけど)でも今の外食は「いかに削るか」に腐心した結果の惨めな姿の商品がとても多くて、その姿を見るたびにため息が出る。まあ、客が安くないと買わないから、そういう姿になるんだろうけど、そういう姿の商品に魅力を感じるかというとそうでもない、という厳然とした事実もある。

 店のオファーの不自然さと客の異常な行動に心はざわつく。世の中はどちらの主張が正しいかという事よりもどちらの主張も正しくないという状況が多すぎるのだ。ホットドッグのケチャップの有無でこれほどまでに世界はざわつく。そのざわつき方が残念である。


 夕食は鶏とパプリカの炒め物。本当はナッツを入れると美味しいんだけど高くて断念。その代わり冷や奴を添えた。あとは納豆も。体温は36.0℃。血圧は121/72。脈拍は74であった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る