フォグがやってくる

kowoegaku

1話で完結

 大盛りの奥野は上方お笑いグランプリの楽屋で貧乏ゆすりをしていた。喫煙所が近くにあれば、タバコを吸い続けていただろう。もうすぐ出番っていうのに相方であるテシマが会場に来ていなかったからだった。周りのことを全く気にしないテシマでもこの舞台がどれだけ大事かわかっているはずだ。上方お笑いグランプリからいわゆる「売れっ子」になって行った先輩たちを思い出す。

何度目かの連絡を入れる。

「電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため・・」定型文が繰り返された。

 「まじで、何やってんだ」奥野は指のささくれをめくっていた。めくったところが血で滲む。痛みでイライラが紛らわせることに気がついた。あぁ、もしかしたらメンヘラちゃんの自傷行為なのかもしないなと考えている間にテシマが「すまんかった」といって入ってくることに期待していたが、現実は厳しかった。

 テシマが来ない最悪の事態を想定する。舞台の進行を妨げるわけにはいかない。担当マネージャーである東海さんに状況を報告する。

「相方のテシマがやって来ません。」

「なんや、また寝坊か?」テシマはよく寝坊で仕事をトチっていた。

「わかりません」

「事故とかか? 理由は? 芸人やめて漫画でやっていくんか?」東海さんもイラついている。矢継ぎ早に質問をしてきた。

 「わかりません、何度も電話はかけているんですが」

 「できること全部やってみぃよ。ただ、時間になっても舞台に立てんかったら、どうなるかわかっているな?」

 「・・・失格ですか?」

 東海さんは頷いた。

「失格だけでは済まんやろ。お前らは確実にテレビ業界から干されるわ。まぁ、それは今後の話やけどね」

「出番まであと60分や。はよ、探してこいよ。じゃなかったら、局の前の道路で玉突き事故でも起こしてこいや! 事故のせいで、大盛りは舞台に間に合いませんでしたってな」奥野は相方に再度コールして、楽屋を飛び出した。


結局、テシマは会場に姿を現さなかった。

それ以降、奥野はあまり記憶がなかった。生中継だったが、最終審査の前に手品の余興を行い、場を繋いでもらったことは覚えている。関西ローカルとは言え、テレビの生放送・・・しかも、大きな賞レースの決勝を欠席し芸人にとっての死刑宣告といってもよかった。

「すみません。誠に申し訳ございません」担当マネージャーの東海さんと奥野は二人で番組プロデューサーに頭を下げた。

「すみませんで、済むことちゃうやろ」プロデューサーは爆発しそうな怒りを抑えて話している。

「大盛りのテシマ君って漫画家の二刀流ってことで、注目されてた子やね。なんでそんな子賞レース出たんや? 上グラは無名の子たちが、ブレイクのきっかけになる賞レースや。そこにこの賞の魅力があるねん。他に出場したいやつなんぼでもおったんや!」プロデューサーはむき出しの感情を喋り出した。奥野は怒りに任せて喋るプロデューサーを見て殴られるんじゃないかとぼんやり思っていたら、東海さんが助け舟を出してくれた。

「この件ではまた、ウエと相談してお詫びに伺います」

テシマの不在と賞レースの失格でぼんやりとしていた奥野は東海に引っ張られるようにプロデューサーのデスクを後にした。

東海さんは別れ際、会社の対応が決まったら、また連絡するわと事務的に伝えた。

帰りのタクシーチケットをもらえるはずもなく、グランプリの会場を出て谷町筋を南に向かって歩く。2月の空は奥野の気持ちと同じぐらい重かった。

これから「大盛り」はどうなるんだろうなと思った? 繋がりのない思い出がいくつか浮んだ。テレビというフィールドでは終わりだろうなとか。初めてやったコントはクマの着ぐるみを使ったけど、スベったなぁとか。一度はぶっ飛ばしてやりてぇ。ただ、あいつの才能・・・コントもかけるし、漫画もかけるぐらいの「ネタの強さ」で決勝に残れたのだ。それは間違いない。

とりわけ評判だったのが上グラ準決勝で披露したコント「霧男のコンビニ強盗」だった。霧がモヤモヤと湧き出す男がコンビニに押し入り店員へレジから金を出せと脅す。店員は霧にばっかり気を取られ金の受け渡しが進まない。シュールな設定と店員と強盗の噛み合わない会話を繰り返すところが爆発的な笑いをよんだ。上グラの決勝ではどんなネタをするのか? 奥野はネットのざわつきや、周りの芸人たちとの扱いから注目されていることに気がついていた。結果はテシマが来なかったことで負の注目に変わったのが辛かった。

それぐらいで終われば良かったが、もっと辛かったのはそれ以来、相方であるテシマの行方がわからなくなったことだった。


上方お笑いグランプリから半年。

奥野は自分のアパートで脂汗をかいていた。

来週、ライブのコーナーで大喜利をする。その準備に自分で大喜利の問いを作り、自分で解く。奥野はなんとかそのコーナーで爪痕だけでもと考えていると携帯電話にメッセージが入った。

「今晩、暇? 久しぶりに飲みに行かない?」。コンビ名・午前午後の女漫才師ヒライからだった。上グラの決勝戦では同じ舞台に立つ・・・予定だった。同期に大喜利のことを相談してみようかと思い「OK」と返信。恵比須町のいつもの居酒屋に集まることになった。


 「あれからテシマ君ってどこいったん?」ビールを飲みながら、面白半分で聞いてくる。

 「しらねぇよ。本当は面白がってんだろ。お前も!」

 「そんなことないって。売れかけている芸人がねぇ・・・。売れてない芸人だったら、ちょいちょい失踪するけどね」

「訳わかんねぇよな。あいつは漫画を書き始めていたから、初めはそっちに進むのかと思ったんだけどね。そもそも、連絡してこないなんて、しょっちゅうだったから」

「へー。ウチが相方にそんなんやられたら、たまらんわ」

「で、テシマくんってどんな漫画書いてるん?」

 「フォグがやってくるってタイトルで首から水蒸気みたいなフォグが出るんだって。んで、そのフォグを使ってさ。顔にモザイクが入っているみたいなものじゃない? それを利用して強盗とか起こすって話」

 「へー、すご。ってゆうか大盛りのネタのまんまやん」

 「そうだね。フォグが好きなんだよな。あいつ」

「そんなん言いながらいつか活動再開をお願いしたいんやないの?」

 「んなことねーよ。俺はピンの可能性を探っているの」奥野は正直、ピンではやっていくには不安を抱えていた。

 「でさ、気持ち悪いのが、最近、難波周辺のコンビニで俺たちのネタを真似したような事件が起こってんだよな」

 奥野は日本橋のコンビニで起こった強盗事件の話をした。防犯カメラに映った犯人たちは肩から上に湯気のような、タバコの煙のようなものに包まれて覆面の代わりにしているみたいで、レジの金を要求するみたいだわ。通報しようとしたバイトを半殺しにしちゃったこともあるみたいでタチ悪いんだよな。同様の手口で何軒かイカれてるから、警察も躍起になっているみたい。

 「その事件ってテシマくんがほんまにやってたら・・・どうしよ。あの人目つきだけは犯罪者と一緒やったやんか」

 「目つきはやばかったね。だけどさ、いくら同じようなネタを作っていたとはいえ、コンビニに強盗なんかしないよ。テシマが金に困っているとか聞いたこともないしさ」

 ヒライもうんうん、そうやんねと相槌を打っていたが、ビールのおかわりが来たらそーいえば、おもかじイッパイさんの話やねんけど、こないだおっぱい揉まれた・・と先輩芸人の悪口に変わっていった。


「テシマくんってまだ、大国町に住んでるんかな?」ヒライはテシマの話題をぶり返した。

 「住んでいると思うよ。上グラの後、あいつのアパート何度か行ったことあるんだけど、電気がついている時とついてない時があるんだよな」

 「違う人が住んでるんちゃう?」

 「初めはそう思ってたんだけど。俺たちさ、組み立ての頃、クマの着ぐるみ使ったコントしていたの覚えてない?」

「ああ、あったね。いつもめっちゃ、スベってたやん」

 「うっせーな。だからやんなくなったでしょ」思い出しても冷や汗が出る。

「テシマのヤツ、クマのネタはもう一回、考え直すからって、クマの着ぐるみ持って帰ったの。その時、使っていたクマの着ぐるみの頭が見えてるのよ、窓から」

 「え、やばっ」

「だから、あいつ、部屋にいるよ」

「住んでいるんよね? 電気ついてたり、ついてなかったり」ヒライは少しパニックっているようだった。

「何回か見てるから間違いないと思うよ。クマのぬいぐるみも、部屋の電気も」

 「へー、今からテシマくんに連絡してみいひん?」ヒライの目が輝き出した。

 「出ないって。何回電話したと思ってんだよ。電話して難波のコンビニ強盗テシマがやったん?って聞くのかよ」

 「うんうん。あれ、俺がやってん!とか言うんちゃう?」ヒライは酔っているだけだろうか? いや違う、オレたちは単純に面白いことには目が無い。

 「よし、電話をかけてみるか!」コールをしてしばらく待ってみたが、繋がらなかった。

一回、電話をかけると奥野もテシマがどうしているか気になってきた。ダラダラと酒を飲みながらその間にメールやメッセージを入れた。

「メッセージも来ねーし、折り返しねーよ。どうする?」

「大国町やんね、テシマくんのアパートは」

「そうだよ」

「もちろん、押しかけてガサ入れするでしょ?」

その後も飲みながらグダグダと話していたが結局、ヒライとテシマの部屋を見にいくことになった。通りからテシマの部屋を見ると電気が付いていて、クマの着ぐるみがはっきりと確認できた。

「クマの着ぐるみの頭、見えてるんやん!」

「言ってんだろ、今日は電気もついているな」

エレベーターホールに入るとしばらく掃除されていないのだろう、吸い殻でいっぱいになった空き缶や、飲み掛けのペットボトルが散見された。格安マンションだからだろうか、深夜でも扉の開け閉めや、廊下を歩く音が聞こえる。

テシマの部屋の前に立ち、ピンポンがなかったのでノックをする。

「テシマくーん、同期やでー」ヒライは酔っているせいか大きな声で呼びかけた。

「大きな声出すなって、ここの住人が来るかもしんないだろ」

「午前四時にやって参りました。漫才師の午前午後です!」ヒライは舞台の挨拶をした。それでも反応はなかった。住人たちは活動的だったが、テシマの部屋からは何の反応もない。奥野は薄気味悪くなって、ヒライを引っ張るように外に出た。

「ザンネンだねー。酔っている中、大国町まできたのによー」ヒライは千鳥足の真似をしているが、真似が上手くできないくらいに酔っていた。

「訳わかんないよな。電気がついているのにな」奥野は独り言のように言った。

「ぇ、ここに入った時、クマの着ぐるみの頭見えていたよね?」ヒライはテシマの部屋を見て話しかけてきた。

 「言ってんだろ、テシマが着ぐるみを持って帰ったって」

 「さっきまで見えていた、クマの着ぐるみ、ないよ?」

奥野は慌てて、テシマの部屋の窓に目をやる。

ヒライの言う通り、着ぐるみの頭は見えなくなっていた。


 翌日は来月のお笑いイベントの打ち合わせだった。劇場の控え室に入ると先輩のおもかじイッパイさんが挨拶もせずいきなり話しかけてきた。

 「奥野、おい、まじでこれ見ろよ」おもかじさんはスマホの芸能ニュースを見せつけてきた。

「今日、発売の写真週刊誌に天津麺明奈のヌード載ってるんだって。AVデビューするかもって」明らかに、たかぶっている。

 「ん? 天津麺明奈って、まじっすか? 俺、結構好きでしたよ」

天津麺明奈・・・頭に天津麺のどんぶりを乗せたキワモノのアイドルだ。

 「前にさ、ショッピングセンターの営業で一緒になったことあったやん? 確か、和歌山のほら」和歌山でも市内ではなく、聞いたことのない街にショッピングセンターができた時アイドルと芸人の余興があった。

 「ありましたね。俺、デビュー曲の「天津飯じゃ振り向かない」は好きだったんで天津麺明奈見てたんですよね」

 「俺も見てたよ。売れてなかった、かわいかったもんな」

「で、舞台袖から動画を撮ってたら、取り巻きのスタッフに睨まれましたけどね」

 「当たり前やろ。お前、痛いやっちゃなぁ。そりゃ、テシマに逃げられるわ」

 「おもかじさん・・・テシマのことは良くないっすか? 天津麺明奈の話ですよね?」

 おもかじさんに営業で隠し撮りした明奈の動画を見せると後ろ姿は面白くないなと言い、「天津麺明奈が載っている雑誌、買いに行ってくるわ」と言って控え室を出ていってしまった。

 その後の会議ではマネージャーよりタイムスケジュールとコーナー内容の確認などあったが、その後は芸人仲間と無駄話をして解散となった。


打ち合わせを終え劇場から自宅に向かう。奥野は天津麺明奈のヌードのことが気になっていた。AVデビューの噂は本当なのだろうか? だとしたらやっぱ、見てみたい。買うのは嫌だし、そうか、立ち読みしかないかとせこい逡巡を繰り返していた。

自宅近くのコンビニに寄ると写真週刊誌はすぐに見つかった。表紙は天津麺明奈がチャイナドレスを着て「とろとろの天津麺、召し上がれ〜」とあった。すぐにでも手に取りたかったが、雑誌コーナーでゴスロリ娘がファッション誌を立ち読みしている。写真週刊誌を広げるのに抵抗を感じ、早くどっかに行けと念じながら漫画の単行本が並んでいるところでタイミングを探っていた。

目の前の棚を見ると「フォグがやってくる① 作者:テシマ テツオ」の背表紙を見つけた。

「まさか?」奥野は実際に声を出しテシマったのではないかと焦った。

棚から漫画を取り表紙を見る。霧が立ち込める街路。男たちが打ち合わせをしている。顔が霧に包まれ気味悪い。

「テシマのヤツ。本当に漫画出してるじゃん」

さっきまで頭を支配していた天津麺明奈のことは忘れて、「フォグがやってくる」を拡げた。


「フォグがやってくる①」 作者:テシマ テツオ

カバーの折り返し部分、作者の近況報告の欄には『たまにですが、街でフォグが出ている人たち見ますよね!? ?!』とあった。

テシマの好きなボケ通しスタイルだった。

表紙をめくると登場人物の紹介と舞台となる青谷区の地図があったがそこは読み飛ばした。


 『フォグがやってくる①』

K県K市青谷区。海が近いせいか霧がよく発生した。秋から冬になると辺りは真っ白になり、昼下がりには陽が翳ったようにみえる。

その始まりは霧の深い夜だった。ある学生が酒を飲んだ後、朝になっても頭が霧に包まれたようだと言って救急車を呼び出した。救急隊員が駆けつけると、複数のタバコを吸っているような、大量のドライアイスを体に入れているような、フォグで顔が覆われている人がいた。

「朝起きたら、こんなことになっていました。少し、パニックになっています」学生は小刻みに震えながら話していた。同じようにフォグも震えていた。

救急隊員も混乱していたが、無線で手短に伝えた。

「未知の病です。対処法を持ちません。本部での検討を願います」。

住民の安全を考慮し、数時間後には近隣の自衛隊の基地に運び込まれた。数週間後には、自衛隊とK県大学付属病院から検証結果が発表された。霧(フォグ)は本人の首の周辺から湧き上がり、人体への影響はないとされた。それをはじめとして、青谷区の若者を中心にフォグが発生する例が増えた。青谷病の始まりである。


「なんかここ、ケムくない?」

「ケムいよな。マジで、やばい病気になっちゃうんじゃない」

青谷病者の差別が問題になりつつあったが、高校生の青谷病者であるケイタも例外ではなかった。

「最近、増えているみたいだよ。俺たちもフォグ出ちゃうんじゃないの」

「やばいって」同級生はわざと聞こえるように話している。

「なんで、煙がでんだよ」

「ワカンねぇよ、だから怖いんだろ」

ここ数日でケイタが発生するフォグに変化があった、今まではうっすらとしたものだったが、はっきりと目で見える濃さになっている。同級生たちはそれを感じ取っているようだ。先日は仲の良い同級生に「おはよう」と挨拶すると、目を合わせず小さな声で「おはよう」と返された。フォグが出るようになって遠ざけられることには慣れてきていると思っていたが、だんだんと学校へは通えなくなっていた。

家に篭るようになって、夜中に目が覚める日が増えてきた。

「どうしてこんな目に遭わないといけないのか」首から溢れるフォグを手で押さえつけてみる。何度押さえても指の間からフォグが漏れ出すだけだった。窓の外を眺めると霧が強く出ている。霧は風に流され渦を巻き、町中の建物、車や街灯を飲み込もうとしているように見えた。窓を開けて霧に触れる。このまま霧が飲み込んでくれればいいのにとケイタは願った。

その瞬間、霧の流れに反するように霧の塊が動いた。ケイタは自分の目を疑ったが、また、霧の塊が動いた。窓から身を乗り出すように見ているとその塊がケイタに気がついたようだ。塊が近づいてくると、自分と同じぐらいの背丈だった。顔にフォグがかかっていて、よく見えない。ケイタの姿を見て、こっちに来いと手招きをしている。まさか人がと思ったが同じ青谷病者キシとの出会いであった。


「本日の検査は以上となります。お疲れ様でした。前回の診察から変わったことはないですか、いつもよりフォグが多いといったような」K大学医学部付属病院 神経内科研究室でケイタと母道代は複数の医師に囲まれていた。

「少し自分のフォグが増えているように感じています」

「青谷病と言っても個人差があります。フォグの濃度に差はあって当然なんですよ」医師は優しく語りかけている。

「治療法の研究は進んでいるのでしょうか? 薬や手術なんかの。最近、色々辛くて・・」

 リーダー格の医師が口を開いた。

「現在、症状を抑える薬の開発は進んでいますが、なぜ、フォグが発生しているのか、まだわからないことだらけです。青谷区では同様の症例が多数報告されており、地域性が指定されていますが・・・」一通りの説明を聞いたが、目新しい情報はなかった。


診察室を出て、帰り支度をしていると看護師から声をかけられた。

 「この後、製薬会社の方が青谷病の治療薬の説明を行います。患者会の皆様が参加されますが、参加されませんか?」

会議室に入る参加者が20名近くいた。所々にフォグが湧き出ているせいで、教室全体が霞んでいる。フォグで顔がわからないので服装や体つきから本人を想像する。男性が中心で年齢はケイタと同じような若い人が多い。患者会で顔馴染みになっているのだろう仲良しグループがいくつか出来上がっているようだった。ケイタは初めて参加したため、周りの青谷病者から見られている。しばらくすると、壇上にスーツの男が現れた。

「私は竹島薬品で研究開発の責任者をしています野戸と申します。本日は皆さんに青谷病治療薬の臨床試験にご協力をお願いしたく参りました」

一礼のあと、プレゼンテーションソフトを立ち上げた。

「現在、開発中の治療薬はフォグが発生する原因をなくすことはできないもののフォグの発生量を抑えることができます。軽症の患者様にはフォグの発生量をゼロに抑えられるのではないかとも考えられます。しかし、今は参加している患者様が少ないため研究が思うように進んでおりません。そのため、皆様に臨床試験へ参加のお願いに参りました」

 野戸はひと呼吸を置くと再度マイクに向かおうとすると、会場後方のドアが大きな音で開いた。

「ケムぃ。けむい。ケムい。ケムぃ、けむぃ奴らはキライだ・・・」ケイタの横に独り言を言いながら通り過ぎる猫背の男がいた。その男は野戸を無視して壇上に上がった。参加者が一斉に視線を向ける。一目見て重度の青谷病とわかった。フォグの量が多く、しかも濃い。

 重度の青谷病の患者は野戸に向かって話しかけた。

「えー、いいですか、薬の研究している人。青谷病に罹った人はみんな、ほんとは早く死にたいんですよ。治る見込みがないんだから。薬なんていらないですよ」参加者たちは何が起こっているのかがわからず、ざわつき始めた。

「フォグが漏れ出している奴らは医者と製薬会社の金儲けに利用されるだけじゃねぇか」錯乱しているのだろうか、一人で喋っている。

「あれは前まで、患者会にいた清水じゃないか。あんなフォグが濃いやつ他にいないぞ」

会場は騒然としていた。野戸は冷静に語りかける。

「急に入ってきて、なんのつもりですか?」

「なんのつもり? 白々しいね。このフォグ見たらわかるじゃねぇか。とびっきりの量のフォグだろうが」近くにいた参加者は清水から距離をとり始めている。

「ここにいる奴らはみんな人目を避けて、家に引きこもっているような奴らばっかり。社会のゴミみたいなもんですよ。ゴミなのに燃やす前から、煙が出てね」皮肉を言った後は鼻で笑った。

「会の進行を邪魔しないで下さい。警備員を呼びますよ。下がってください」患者会の代表者も加勢した。

「お前らも薬になんか必要ないぞ。今更、薬なんか意味ねぇわ」清水は野戸に掴みかかりそうな勢いだ。

「ここにいる方は真剣に治したい人ばっかりです。我々も、一刻も早く治療薬を出したいんです」野戸は研究者の思いを吐露した。清水を眺めるがフォグが濃くて表情が読み取れない。

「もう一度言います。会を進めます。ここから降りて下さい。」野戸は通告した。

「お前ら世間から笑われて、煙が出過ぎて、頭くるっちまったんだろう」最後には壇上の机に蹴りを入れて退場した。

あれがフォグが出ることによって追い込まれた患者なのだろうか。ケイタは自分の将来が怖くなっていた。人混みでナイフを振り回すか、電車に飛び込んでしまうか、青谷病にかかるといつ狂気の淵に立ってしまうのかがわからない。


その日は夕方から霧が濃かった。ケイタとキシは濃霧の夜は霧に紛れて外で過ごすことが増えている。

「フォグが出るようになって人と会いたくないよな」とキシ。

「そうだな、こんな夜だったらいいんだけどな」ケイタは頷いた。

「家にいるとさ親父にだって会いたくねぇよ、お前は煙たいから出て行けってさ。親父は一日家にいるんだけどね。ひでぇだろ、俺たちに言うことかね」キシは笑いながら話している。

「母さんは出ていっちゃったけどね、オヤジに言われる前にね、随分前だけど」

ケイタは話を変えたくて、大学病院での治療薬の説明会の話をした。重度の青谷病患者が説明会に乱入して叫び出したことも。

 「やばいヤツだな。でも、このフォグってずっとなのか? 俺たち今は高校生だけどさ・・・一生このままなのか?」

 「・・・わかんないよ。おれだって一生はイヤだよ」

キシは沈黙している。

 「フォグの量を抑える薬の研究は始まっているんだって。いつ、治るとかはわからない」

「ずっと、人目を避けて生きていかないといけないのか。それだったら、一回くらいはやり返してやりたいよ。青谷病にとか俺を馬鹿にした奴らにさ。その変な人の気持ちもわかるわ」

キシの胸のうちを聞いて驚いていた。ただ、ケイタも青谷病とその世間の反応を憎んでいる気持ちに気がついた。


「今晩、占い師さんの講和会だから、夜はいないからね」ケイタの母親道代は白円(びゃくえん)の著書に出会い、はまり込んでいた。占い師である白円が青谷病にかかっており、病を積極的に表明し書籍、ネット、テレビで情報発信していた。著書「ケムに巻かれて10年目」は青谷病の発症から占い師としての活動が書かれていた。とりわけ家族への提言が母に響いたようだった。

スマホをいじっているケイタは面倒臭そうに道代を見たが、返事はしなかった。ケイタは高校を卒業しても、就職も進学もどちらも選択しなかった。たまに出かけても何をしているかわからない。何もしていないが、黙っていてもフォグだけは生み出している。


キシから携帯にメッセージが入った。

「暇だろ? 外出ていこいよ。久しぶりにいくか?」

「いくか?」はスクーターを使ってひったくりをしようとの隠語だった。ケイタは窓の外を眺め、霧が充分に出ていることを確認し、「いいよ」と返事をした。真夜中に歩いていると、霧に紛れているケイタ探しきれなかったことから、フォグを使って霧に紛れることを思いついた。

外に出ると霧が強く出て、肌寒い。微かに雨も降っていた。霧雨が街灯を包み込み、乳白色のボールが暗闇に浮かんでいるようだった。東駅のロータリー行くとスクーターに乗ったキシがタバコを吸っている。

駅からスーツを着た中年男性が歩いてくる。左手に鞄を持っている。ターゲットを確認したキシはケイタに目配せした。

「いつものようにやるから、ひるんだすきに鞄を持ち去れよ」いつものようにとはスタンガンで腕を痺れさせることだった。鞄を「ひったくった」あとは別々の逃走経路でスーパーの屋上で落ち合う段取りだった。

「霧が深いから、運転気をつけろよ」

「霧は俺たちの仲間みたいなもんだろ? お前こそパクられるなよ」キシは中年男性に近づいていった。スクーターが近づくと男性は気配を感じ、振り返えった。スタンガンの衝撃を受けたのだろう、腕を庇うようにして、膝から崩れ落ちた。スクーターで近づいたケイタは鞄を拾い上げ、集合場所に向かった。

鞄をあさると。財布に現金二万円。タブレット、パソコンなど。数枚のクレジットカードがあったが、足がついてしまう、タブレットを中古屋店で売れば数万にはなるだろう。ケイタは掌を出しキシと手を握りあった。

「俺たちは今んとこ無敵だな。」

二人はこの瞬間だけは青谷病にやり返してやったような気持ちになった。


「フォグがやってくる①」を閉じ、一息入れた。

このコンビニでは立ち読み防止のビニールがかかっていない。これは僥倖っ!!奥野はカイジのセリフを呟いた。

奥野は「フォグがやってくる」に引き込まれていた。漫画としての完成度ではなく、自分の誰にも話したことがないことが書かれていたからだ。スタンガンとスクーターを使ったひったくり。誰でも思いつきそうなやり方だが、テシマは俺の過去を知っているのだろうか? 悪友たちのことがそのまま書かれている。地元にいたときは悪かったと話したことはあるが、リアルなことは誰にも話したことはない。いや、話せるはずがない。

携帯を見ると昨日飲んだ、ヒライからメッセージが入っている。

「おつかれさま。さっきニュースでやってたんやけどまた、難波のパチンコ屋で強盗あったんやって」

 「やばいよな、最近、強盗の頻度上がってねぇ?」

「うん。それと防犯カメラにはフォグに包まれた男たちが映っていたって。それで思い出したんやけど、テシマくんから折り返しの電話あった?」

「連絡はなかったよ。あいつのことはもう忘れたわ」と同期の前なので少し強がった。。

冷静になれば馬鹿げている。馬鹿げていると思うが作中のケイタが夜中に自分の首に触れていたように自分の首元に触れてみる。フォグが出るわけなんかないよな。

「キモい漫画を描くな、テシマは」

『フォグがやってくるの①』続きを開く。


ケイタとキシは東駅のターミナルで「ひったくりの獲物」を物色していると、青谷病の男が近づいてきた。

「ケムい。ケムい。ケムい。ケムぃ奴がいるな」とぎりぎり聞こえるような独り言をずっと言っている。一目見て重度の青谷病とわかった。フォグの量が多く、しかも濃い。

「あれは・・・薬の説明会にいたヤツだ」ケイタは昨年のことを思い出した。

「おい、お前ら俺は見ていたんだぞ。先週、ここで何をしていたんだ?」清水は挨拶もなく捲し立てる。

「いや何もしてません。ってゆうか、ここに初めて来ました」キシはシラを切っている。

「しらばくれるなよ。スクーターで何やっているか知っているんだぞ。その膨らんだポケットにはスタンガンを入れてんだろ。知ってんだぞ」

「ってゆうか、どちらさんですか? なんか急にきて」

「フォグみたらわかるだろう。同じじゃねぇか」清水はフォグをかき分け顔を出そうとしている。

「俺は青谷病のヤツを見かけたら、後をつけるからな。特にお前らみたいな悪童はな」

「キシ、行こうぜ」ケイタは岸に耳打ちした。

「フォグの量多いんで、大変ですね、顔を分かりやすように扇風機持ってきましょうか?」キシはイラついている。

「お前らが何をしてるか、おまわりに言ってやろうか? すぐそこに交番があるだろ」清水はキシの煽り文句には反応もしなかった。

「なんすか? 何を求めているんですか? 金っすか?」キシは今にも切れそうだった。

「青谷病者はフォグが出ているのだけが取り柄だ。せいこひったくりなんて止めて、もっと、面白いことをしようぜ」清水の声が少し弾んだ。


ケイタたちと清水が合流した頃、青谷病の治療薬が発売されようとしていた。

「本日はお忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございます。只今より青谷病治療薬『フォスロ』の発表を行います」アナウンスが始まり壇上に竹島薬品工業社長、開発部門の責任者、研究員、数名が着席した。フォスロの主作用の紹介は研究責任者である野戸だった。「この薬は青谷病患者のフォグの量を抑えることが可能です」淡々と製品紹介を進めたプレゼンテーションが終わると壇上の野戸は「私も青谷病とその影響に苦しんでいる一人ですと胸の内を話し始めた。

「4年前に母親が青谷病に罹患しました。他の患者さんと同じようにフォグが出る以外は健康問題などもなく、日常生活に問題はありませんでした。当時の母は小学校教師をしておりました。職業柄、自らの青谷病経験を伝え偏見を無くしたい申しておりましたが、生徒や保護者の皆さんに理解を得られず・・・何があったか詳しくは言いませんでしたが・・・職を辞してしまいました。現在は自宅を中心にではありますが、普段通り過ごしております。しかしながら、青谷病の患者さんの中には自分の将来を悲観し自死を選択した方や、最近ではフォグを覆面として強盗を行う集団も出てまいりました。青谷病の厄介なところは今までの人間関係を壊すところです。このフォスロが現在でも苦しまれている方々の一助になれば研究者冥利に尽きると考えております」

話が終わると会場にいた記者からは大きな拍手が起きた。記者達もまた、青谷病の二次被害をよくよく知っていたからだ。発売までのスケジュールが発表された。


キシはフォスロ発売のライブ中継を消すと「今更、薬なんかイラねぇよな。なぁ、ケイタ」と叫んだ。

 「迷惑なことしやがってよ。薬屋がよ」清水はパイプ椅子で壁を殴りつけた。

 「俺たちはもう、戻れないんだよ。ここからよ、まだまだ稼げるって時によ。これからって言うのに」キシは貧乏ゆすりをしている。

キシは清水に考え方や性格が取り込まれたようだった。それは清水の量の多い、濃いフォグのせいなのだろうか。それとも青谷病者の特徴なのだろうか。ケイタはフォグが抑えられるようになるとこのグループも終わってしまうなとか、あとは今までの悪事がバレなれないようにしないとか、ぼんやりと考えていた。

狭い部屋に青谷病が3人もいると、視界が霞んだ。

 「あの野戸って野郎を拉致しよう。今更、青谷病を治したいやつなんかいない」清水は言い切った。


「野戸所長、お疲れ様です。まだ、フォスロのデータをまとめられているのですか?」第2研究班の吉川だった。

「もう少しで終わりだから。先に上がって」と野戸。

「みなさん、すでにおかえりです。所長が最後と思います」

「お疲れ様。最後の戸締まりはしておくよ」

プレスへの発表を終え、いよいよ『フォスロ』の発売を目前にしていた。

「やっとここまで来たな」数年来の研究の成果の一つだ。データの解析を終え窓の外を眺めた。今夜も濃霧だった。窓の外では霧が渦巻いている。

このようなフォグに苦しまれている患者さんはどれだけいるのだろうか。今、その新しい薬を発売できることを嬉しく思っている。

野戸は窓に映る姿を見て目を疑った。渦巻いているのは自分から出ているフォグだ。疲れているのだろうか? いや、これはフォグだ。青谷病だ。野戸は母親のフォグを充分に観察していた。間違いない。やはり、原因の一つとして遺伝がある。自分の研究の根拠を強固にできたことを一瞬は喜んだが、まさか自分が青谷病にかかるとは。・・・しかし、ひとりの科学者でもあることを思い出した。

「こんな機会は滅多とない」野戸は自らを試験サンプルにできることを思い出した。

しばらくフォグを観察してから、フォスロの試験用サンプルを飲んでみようか。野戸はいくつかの仮説を検討しながら研究所のセキュリティゲートに向かっていた。出入り口の壁にあるカードをかざすと、自動で扉を開く。責任者の暗証番号を入力し研究所の戸締まりをする。


 「今晩は霧が強い、絶好の拉致日和じゃねぇか」清水は興奮と苛立ちが混じり合ったような喋り方をする。清水から生み出されるフォグは過去最高ってぐらいの量だった。もう、清水とフォグは本体が入れ替わってしまったのかもしれない。

 「フォグを抑える薬なんて10年はえぇよ。すでにフォグは俺たちの大切な商売道具だからな」キシはスタンガンのスイッチのオンとオフを繰り返している。

 「おい、キシ、バチバチうるせーぞ。今から何をするかわかってんだろうな?」と清水。

「玄関の灯りの下に人がいるだろ、あれが野戸だ」とケイタ。

 濃霧の夜に紛れ三つのフォグが野戸に向かって動き始めた。

第二巻に続く。


単行本第二巻 2024年4月9日 発売予定 『フォグがやってくる②』

『濃霧の夜、竹島薬品研究所に近づく3つのフォグ。野戸は追手に気づき、発症したフォグを使って霧に紛れた。フォスロは絶対に発売させる!』


奥野はコンビニで読了していた。相方の漫画に引き付けられていたのを客観的に見ると恥ずかしかった。本を棚に戻し、窓の外見ると暗闇に白いフォグが3つほど動いていた。

「え?」

 その三人は店内に入り、カウンターの前でスタンガンをバチバチ鳴らしている。店内には客は奥野一人だった。店員が非常ボタンを押したのだろう、玄関の赤色灯が回り始めた。


 雑誌コーナーでは天津麺明奈が微笑んでいる。とろとろの天津麺召し上がれ〜とあった。これは現実だろうか。奥野は今さっき読んだ、漫画が目の前で繰り返されていることに混乱していた。今はテシマを問い詰めたかった、俺が生き残ることができるかどうかを。奥野は今、すぐに聞きに行ければよかったのにと大国町の電気だけついている部屋を思い出していた。


(おわり)

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フォグがやってくる kowoegaku @kowoegaku

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