求められること
自分の欲求に逆らわずに応じること。
それだけだった。それさえ応えていれば、食事も与えてもらえたし風呂にも入れてもらえた。ただし、学校には通わせてもらえなかった。六歳になり四月を過ぎても、彼女は学校に通うことはなかった。そもそも、彼女自身が学校というものの存在を理解してなかったのだが。
彼女は、両親の育児放棄による低栄養状態が災いして、脳に若干の萎縮が見られた。その為、検査した医者からは、決して無視できないレベルの知能の遅れが出るだろうと診断を受けていた。事実、彼女はまだ、日常会話すら満足にできない。
多少、片言で単語を並べる程度のことはできるようにはなった。故に最低限の意思疎通くらいは可能になっていたが、それは言葉を覚え始めた乳幼児のそれと大差ないレベルだった。だから普段は殆ど口を開くこともなかった。陰鬱に押し黙り、まるで深淵の向こうから覗き込んでくるかのような虚ろな視線をただ前に向けて、部屋の隅に佇んでいた。そして、藍繪汐治が求めたらそれに応じるだけだった。
だがそれでも、山下沙奈にとってはその程度の相手をすれば生存を保証されるのだから、彼女がそれを拒む理由はなかったのだ。
そんな状態が一年ほど続き、そのシルエットも<標準に比べればかなり痩せている>程度のそれになったある日、彼女が七歳の誕生日を迎えた直後、藍繪汐治との生活は突然、終わりを迎えたのだった。
「へえ、こいつがそうかよ…」
それは、見た目こそ別人ではあるが、その本質は藍繪汐治と何も変わらない下衆だというのが顔にも表れている男だった。名は、
もっとも、返すつもりなど毛頭なかったようではあるのだが。
網螺春喜の運転する自動車に乗せられ、山下沙奈は男の家に連れて行かれた。と言っても、部屋の印象としても機能としても、藍繪汐治の部屋と特に変わり映えのするものではなく、彼女にとってみれば何も変わらないのと一緒だったが。
「よーし、さっそく始めるか」
その言葉が何を意味するのかは、彼女はもう理解していた。むしろ、他人が自分に要求するものはそれだという認識しかないと言うべきかも知れない。彼女は学校にさえ通わず、他人とまともにコミュニケーションを取ったことすらないのだ。だからそれが彼女にとっては当たり前だったのである。
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