*Ⅱ*

 クヮヰドは旧例に従って、一人でヰ・クヮヰドの石室を訪ねた。十八年ぶりであった。


 クヮヰドの姿を認めるや否や、入口に立つ八人の衛士えいしが恐ろしげな雄叫びを上げてほこを構え、切尖きっさきをクヮヰドに向けた。

 なおも、歩を進めようとするが、いよいよ切尖が突きつけられ、石室の前でしばらくにらみ合いが続いた。双方とも一歩も引かぬ様子である。八人の衛士はぐるりとクヮヰドを取り囲む。

 ここに到って、クヮヰドは莞爾かんじたる笑みを浮かべ、おもむろに、その象徴しるしたるしゃくかざした。玲々れいれいたる笏の鈴鳴すずなりが四囲に響く。

 途端とたんに衛士は、クヮヰドの神威しんいに打たれて矛を取落し、わななき震えながら平伏した。クヮヰドは鈴鳴とともに悠々と石室にまかり入る。



 この一連の「手続き」は、儀式化された、故事の再現である。



 かつて、まつろわぬ蕃夷ばんいがあった。

 その渠魁おさとされるのは、玄祇くらかみの嫡子にして、現人神とされる九人、或いは九柱ここのはしらであり、千年を超える寿命を保つとされた。

 そして、彼等の合議を以て、夷族における難事が決せられていたという。

 難事に係らぬ俗事は全て有力な長老たちが議ることとなっていた。


 九柱は長いきざはしの先のあらか、雲を突く程の高坐たかくらに鎮まりますとされ、誰一人として九人の姿を見た者は無かったと伝えられる。

 玄祇かみに限りなく近い至尊を目に納めることはもとより、その樓閣たかどののそばに近付くことも、人草にとって禁忌であった。

 長老たちとて、渠魁おさと直に接し得る権能は有しておらず、他の人草と同様、あらかに近寄ることだに認められていなかった。

 ただに、渠魁おさ血脉けつみゃくから選ばれた十二歳から十八歳までの巫女九人が渠魁たちに伺候し、その食事の用意などに携わるとともに、長老の言を伝える仲立ともなった。


 巫女は、毎夕、渠魁たちに捧げるべき尊俎そんそ、すなわち、赤酒カァラ・ヤ黒酒カァラ・ガがそれぞれ入ったほとぎ、そして、堅果クゥ・ジナ柔果クゥ・マガとが形良く盛られた高坏たかつきなどを三百四十二段あるきざはしの下から二百六十一段目に置く。そうすると、次の朝には、器を残して供物はすっかり無くなっていたとされる。


 長老の言を渠魁おさに伝える時は、きざはしの下から百六十二段目に両手をついてひれ伏し、音声おんじょうを発することなく、思念によって言上するしきたりであったという。

 通常は、渠魁からの返答は何もなかった。それが、渠魁たちの了承を意味していた。極々稀に渠魁おさたちが不承を示す場合は、巫女の口を通して詔勅みことのりが下された。

 すなわち、何の前触れもなく、或る時突然に九人のうちの一人が祇憑かみがかりとなり、勅誡いましめ勅諭さとしが伝えられるのであった。そして、詔勅みことのりを伝え終るや否や、その少女はたちまちに生命を全うし、代りにその血筋から新たに別の乙女が選ばれたという。


 渠魁おさに奉仕する巫女たちにとっても、たとえ万が一その肌に触れる機会が訪れようともその姿を見ることは厳に戒むべきことであり、それを冒せばその者の命がられるのみならず、部族全体に災厄がもたらされるとされた。姿、殊に顔、なかんづく相手の目を見るという行為は、目から相手の魂を自身のうちに取り込み宿すことと解釈されていたふしがある。

 祇憑かみがかりとなった巫女が必ず落命するのも、この禁忌との関連によるとされた。


 さて、その蕃夷ばんいに対し、赫神あけがみ嗣子ししであった初代クヮヰドは、将卒しょうそつをして矛や剣を交えしむることなく、また、そもそも、いくさを率いることすらせず、ただ一人、蕃地ばんちに赴き、神鈴しんれい威徳いとくを以て、衛士を屈伏させ、巫女を帰服せしめ、そして、遂に、人草の近付くを許さぬ高宮たかみやに足を踏み入れ、そこに居並ぶ蕃夷ばんい渠魁おさ撫循ぶじゅんしたのだという。

 初代クヮヰドがあらかに入ったのは、日暮れ時であった。そうして、神鈴しんれいは一晩に亘ってとよみ続けたとされる。

 翌朝、渠魁おさたちは跡形もなく姿を消し、高宮を後にしたクヮヰドがきざはしの最後の段を降り切った瞬間に、天を摩す樓閣たかどのは音を立てて崩れ去り、あまっさえ、どこからともなくおこった炎によって悉皆しっかいが灰燼に帰したとされる。


 かくして、蕃夷ばんいを平らげると、クヮヰドは直ちに、一人の渠魁おさから数えて二十七世の孫とわれる嬰児を選び出し、ヰ・クヮヰドの称号を与え、十八年ののち禅譲ぜんじょうして我が身を隠し、根の国に去ったと伝えられる。

 爾後じご、この先例が脈々と受継がれ、若きヰ・クヮヰドは、禅譲を受けクヮヰドに即位し、およそ十八年の在位の後に、禅譲して自ら身を処す伝統が、例外なく五十四代続いてきたと信じられている。


 ヰ・クヮヰドの選定は、旧クヮヰドの形代かたしろが消え失せた閏月うるうづき七日の昼に、天壇てんだんの筆頭神官の口から告げられる。

 タッパイ・シュウの託宣たくせんとも呼ばれるが、それがいかなる神なのか誰も知らない。

 神官達も、クヮヰドも――

 託宣たくせんをもとに、クヮヰドのいくさ蕃地ばんちに遣わされ、ヰ・クヮヰドたる徴候ちょうこうを有する嬰児えいじ――その子は、必ずやかつての渠魁おさすえとされる――が迎えられる。

 すなわち、道理を解さぬ蕃夷ばんいに対し、矛と剣の威武がふるわれ、しばしば流血の沙汰の末に、さらわれて来るのである。

 嬰児は一人の乳母めのとと共に石室に入り、クヮヰドにその到来を祝福されたのちに、ヰ・クヮヰドに叙せられる。

 石室は異族いぞく渠魁おさたる者の離宮である。ヰ・クヮヰドは、ここで即位までの十八年を、乳母にかしずかれ、衛士に保護される日々を過ごすのである。何人たりとも石室に近付くことはまかりならぬ。禁を犯す者は、必ずや衛士の矛に貫かれるであろう。

 クヮヰドにとってすら、石室に近付くことは禁忌であり、その禁忌が解けるのは、在位中、唯に二度――嬰児の到来を祝福する時と禅譲の前月晦日みそか憐憫れんびん垂下すいかの儀を執行する時のみに限られる。

 しかしながら、真実の所、ヰ・クヮヰドは、攫われきたった虜囚に他ならぬ。

 真実に於いて、石室は一歩たりとも表に出ることの叶わぬ獄舎であり、乳母や衛士とて、親しい臣下ではない。乳母の真実は、典獄てんごくであり、八人の衛士は、獄丁ごくちょうである。

 この大いなる矛盾にたれも異を唱えることなく、ヰ・クヮヰドは成長するのである。


 時恰ときあたかも、九月晦日みそかの宵、クヮヰドは、石室を訪うた。

 憐憫垂下の儀を執り行うために。そうして、己の位と生命とを自ら放擲ほうてきする先鞭せんべんを付けるために。

 一頻ひとしきり、故事の再現が厳粛かつ白々しく繰返されたのは、先に記した通りである。




                         <続>




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