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 私はなるべく客と話をするようにしている。海が穏やかで客がくつろいでいるときはもちろん、海が荒れていて客が肝を冷やしているときはなおさらだ。

「向こう岸の松林は、私の爺さんの代から松林だったそうです」

 仕事上のならいというのはおそろしいものだ。ついさっきまで私は死にかけていたのに、いまは何事もなかったかのように客を口説きはじめていた。べつに山伏の機嫌をとっているのではないと、言えればいいのだが、実際のところはご機嫌取りだ。もしも大男が、あるいは海原が、再び舟をひっくり返したら、私は今度こそ鰐の餌食だ。船頭という仕事をつづけたいなら、客をなるべく上機嫌にしておくものだ。

「蕭蕭と風にざわめくさまを眺めたいものだ」大男は言った。

 どうやら私は、風という言葉を聞いたとたんに顔をこわばらせたらしい。大男は愉快そうにクツクツと笑って手を振ってきた。

「悪かったな。濡れ鼠にして。このままお天道様がおぬしをあぶったら、衣が塩まみれになるだろう」

「そしたら塩屋になります」

「はじめっから塩屋でもよかろう」

「よくいわれます。なにせ私の名は塩次しおつぐですから。塩には縁があるんです」

 山伏は大きくうなずいた。どうやら、私は贔屓の客を作ることに成功したらしい。うまい話ができる船頭ほど、常連客を作りやすい。たとえ一回きりの縁でもいい。客に名前を教えておけば、いつか芽が出る。甲楽城の渡しに塩次ありという評判が立てば、私の得になる。新しい客が、他の船頭ではなく、塩次の舟を求めてやってくるからだ。

 なかには私のような船頭に難癖をつけるやつもいる。下心だ、人心をたぶらかすろくでもない輩だと、陰口を叩く奴らだ。だが、どちらがましだろうか。人を舟から放り出しておいて「悪かったな」で済ませる輩と、客を喜ばせこそすれ傷つけはしないお喋りをする船頭と。

「お客さん、つかぬことを伺いますが、さっきのは三宝とかその手のものだったのですか?」

「なぜそんな事を聞く?」

「喋ってると調子が出るんです」

「山にこもってみればいい。答えが分かるぞ」

「あいにく船頭なものですから」

「白山ならすぐだぞ」

「舟は山には登れません」

「歩くに決まってるだろう。近いぞ」

「遠いですよ」

「たかが四十里だぞ」

 私は長いこと船頭をしていて気づいたことがある。国から国へ歩いて回る者たちの一里は、私のようなものたちの一里より短いということだ。

「あちこち行脚されているようですが、なにか珍しいものはありましたか」

「もちろん」

 大男は気を良くしたらしく、山でのあれこれの出来事について語ってくれた。草木も生えない岩山のてっぺんでの鵺退治だとか、陸地が生じてからこのかた一度も日の目を見たことのない洞穴で土蜘蛛の后を成敗しただとか、骨が折れそうな峠にある小屋のなかで旅人に眠り薬を振る舞っては身ぐるみを剥ぐ怪しの者の頭を潰しただとか。どの話でも最後には、大男が怪しのもののねぐらから、砂金や翡翠、竜涎香はもちろんのこと、金鎖と螺鈿で拵えた太刀や、玉髄から彫り出した仁王やらをぶんどるのだった。

 私は櫂の調子にあわせて相槌を打ち続けた。話は眉唾ものだが、聞くだけなら害はない。私にとっては得である。「あるお客さんから聞いたんですがね」と、他の客に聞かせるネタが増えるからだ。

「どうする?」不意に大男がたずねた。

 私は一瞬、固まった。

「舟が向こう岸についたら、おぬしはどうするんじゃ」

 大男は声をおとして言った。おかげで、私はほっと胸をなでおろした。山で修行をしていると、人は世間のことを知らなくなるのだろうか。それとも、この大男は人を驚かせるのが楽しくて仕方ないのだろうか。この男とは対岸で別れてそれっきりにしたい。塩次の名だけを広めてもらえれば、それで十分だ。

「向こう岸でお客さんを乗せて、来た道を引き返します」

 何気ない調子で切り返すのは難しかった。あやうく「新しいお客さん」といいそうだった。

「そうかそうか、それにしてもいい松林だ」

 ありがたいことに、対岸の渡しは間近だった。

 私が舟を岸につけると、山伏は懐に手を突っ込んだ。

「ほれ」と、山伏が突き出したのは絹の巾着だ。

 私の口から、驚きと感謝の言葉がいっぺんに飛び出した。

「礼を言う前に中身を改めよ」

 大男は苦笑しながら巾着を開いた。陽の光が中のものを照らした。さっきまで大男が話していた手柄話を、信じたくなるようなものが入っていた。船頭の仕事を放り出して、どこかの寺の田畑を任せてもらうことだってできそうだった。中身のうち一分だけでも、なにかと楽しみが得られそうだった。

「ありがとうございます」

 私は両手を体の前に出した。手を大皿にするか、小鉢にするか、それが問題だった。十指をすべて相手にみせる大皿の形を作ったら、山伏は私を欲張りだと責めて海に放り込むかもしれない。私は鰐の餌にはなりたくなかったから、手を組んで小鉢を作った。

 山伏は無表情で巾着の口を閉じた。

 私は慌てて手をすぼめた。器は、器なのかどうかさえわからないくらいの大きさになった。

 山伏は私の目をのぞきこんでニヤリと笑った。次の瞬間、私の手のなかに重いものが落ちた。

 目を落とすと、絹の巾着がまるごと、私の手にあった。

 信じられなかった。私は感謝の言葉を口にしたつもりだが、まともな言葉になっていたか怪しいものだ。

 私達の間に沈黙が流れた。

「なにかお探しですか?」

 岸についたというのに、大男は舟から降りようとしない。

「早く舟を出せ」

 私には意味がわからなかった。

「いいから出せ」

「もう御用がお済みで?」

「これから済ませるのだ」

 私は思わず顔をしかめた。まさかこの山伏、海に向けて出すものを出すつもりではあるまいか。

「早く出せ、船賃を渡したじゃろ」

 私は悟った。言われるがままにするほかないと。私は舟を操り、もと来た道を戻った。舟が岸に近いうちは、あれこれと質問をするべきではないと分かっていた。

 塩が肌を痛くするのをこらえて、私はしばらくのあいだ舟を漕ぎ勧めた。足がつかないことが確実な深さまできたところで、私は聞いてみた。

「いったい向こう岸に何の御用で?」

「あの似非陰陽師の惨めな面を笑ってやりたくなった」

「さようでございますか」

 山伏にしては、随分と俗な楽しみをお持ちだが、口には出さないでおいた。巾着を取り上げられては、たまったものではない。私はただ仕事用の笑いをうかべて、うなずいた。

 私が首を下を向けたそのときだ。勢いよく水をはねかす音が耳に飛び込んできて、真っ白な手が船べりに掴みかかるのが見えた。冷たい水が二の腕にかかり、私はすくみあがった。悲鳴もあげたにちがいない。

 海面に見覚えのある顔があった。似非陰陽師だ。

「仕返しか?」固まっている私にかまわず、山伏が尋ねた。

「いや、落とした船賃を探している」

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