3
風が私の体と舟をなぶる。船はもといた岸へと吹き戻されている。
カッカという笑い声が響いてきた。声がしたほうを見ると、岸辺で山伏が腹の底から笑っていた。
私は船の中を見渡した。丘次郎がなにごとか唱えている。念仏だろうか?丘次郎が口を開いたそばから大風がふきとばしていくから、何をいっているのかは聞き取れない。念仏だろうか。丘次郎の顔を見れば、何を願っているのかは分かる。
大風が荒れ狂って、目の前にいるお客の声すら聞き取れないほどなのに、岸辺にいる大男の哄笑はいやというほど聞こえてくる。大男は風に向かいあっているはずなのに、笑い声は私の耳にしっかと届く。まったく道理が通らない、あやしのことだ。
突風は大男の袈裟をはためかせる。荒波もまた大男の大根みたいな両足におしよせる。にもかかわらず、山伏はよろめきもせず、すっくと立って両手で念珠をもみちぎって大音声でなにごとか唱え続けている。
波しぶきが顔に降りかかり、目鼻をひりつかせる。ときには青い水の塊が船の中に入りこむ。私達だけを苦しめる波と風は、舟を岸へ岸へと押しやっていく。このまま岸辺へ乗り上げるのか、なけなしの商売道具たる舟は壊れてしまうのか。もし舟が無事でも、私が足やら腕やら折ればそれまでだ。丘次郎はすすり泣きを始めた。私と似たようなことを考えたのかもしれない。
風向きがにわかに変わった。波と風が、沖のほうへ船を押し流していく。
「まことにあっぱれよ」
小男の叫び声が、私の耳に飛び込んできた。首を動かすと、小男が舟の中で一番座り心地のいい場所におさまっているのが見えた。船賃を落としてうなだれていたはずが、いつのまに立ち直ったらしい。
「たしかに晴れてはいますがね」
なによりもおかしなことは、さきほどから海は大荒れだというのに、空には雲ひとつなく、お天道様が痛いくらいに照っていることだ。嵐なら空は鉛色になり、雨粒がところかまわずうちつけるものだが、いま空は真っ青だ。
「あの大男、あらゆる山で修行していたと語っていてな。熊野、御嶽、白山、大山、鰐淵、それ以外にもあちこち行ったとかで、この有様をみるに本当だったらしい」
「そういうあんたは?」と、丘次郎が問うた。丘次郎は小男の叫びにつられたらしく、すすり泣くのをやめて、張りのある声を出している。
「賀茂の流れの三代目さ。二条のあたりでな。夜ごとに銀盤に目を凝らし、暦法を司る修行をした。お天道様相手の商売をしているあんたたちに、私の苦労を分かってくれとはいわないがね」
「だんなはそうおっしゃってるって、それだけでしょう?」
おもわず私も口をはさんだ。
「裏付けがないってんなら、あの大男の修行自慢にだって裏付けはないぜ」
小太郎は首をぐいとのけぞらせ、私を見上げて言った。
「この海の荒れっぷりが裏付けさ。あんたも言ってたろ」
丘次郎が小男に指を突きつけていったとたんに船が揺れた。おかげで丘次郎はよろけて、指を敷板にうちつけることとなった。つき指したにちがいない勢いだった。
丘次郎が悪態を吐き散らし、小男がにやついているあいだにも、私はどうにかこうにかして船がひっくり返らないようにしていた。
またしても風と波の向きがかわった。舟は元きた渡し場のほうへ流されていく。
「このインチキ陰陽師め。このままじゃおれら、殺される」
「失敬な。私があやつの呪法から船を守ったのを忘れたか?」
「なんだって?」丘次郎が伸び切った指をさすりながら叫んだ。
「陰陽を使ったから舟が浮いてるのだ」
「あんたさっき、大男の修行自慢に裏付けがないとか言ってたじゃないか」
「海が荒れてるのが裏付けと言ったのは丘次郎殿では?」
そうこうしているうちに、岸が近づいてきた。いまや群れなす人々の顔の見分けがつくくらいのところにまで戻ってきていた。
大男はといえば、さきほどまで両手でもっていた数珠を片手に持ち替えた。その数珠を握りしめた片手でもって大きく二度、宙を薙ぎ払った。袈裟がはためく音は稲妻のようにも聞こえた。ほんの数刻、数珠が光ったような気さえした。
猛烈な颶風が私に向かって押し寄せた。体が軽くなった。宙に浮かび上がったのだと気づいたときにはもう、どさっと音をたてて地面に落ちていた。
私は岸辺に倒れ伏したまま、あたりを見回した。後ろの方に大男の姿が、右手にはおわんを伏せたように逆さになった舟が見えた。左手には、走って逃げ出す丘次郎の背中が見えた。船賃をもらいそこねた。働き損だ。
「真っ暗だあ。出してくれえ」
ひっくり返った舟の中から、小太郎のくぐもった悲鳴がもれてきた。
そうだ。私は舟を起こしてやらねばならない。小男が真っ暗のせまいところでジタバタしているのを想像するのが愉快だったことは認めよう。口八丁手八丁だけで世を渡ってきたような奴が報いを受けているさまを見て、唇を歪まさずにいられようか。
だが、舟を元通りにしなければ、私は商売ができない。一人の客に長々とかまっていればいるほど、食事はひもじくなる。
私の舟は、一人で起こすにはいくらか不安のある大きさだ。変に力を加えると板の継ぎ目が開く。
客引きをするときのように、渡し場の客たちを眺めてみた。誰か手を貸してくれないものかと思ったが、誰も近づいては来ない。山伏が恐ろしいのか、ずぶぬれになった私のさまがひどすぎるのか。その両方かもしれない。
私はこわごわと山伏のほうを見た。向こうもこちらを見返してきた。お互い、動かずに見つめ合うだけだった。
ふと私は、もしかして大男の袈裟は水に濡れずにいるのではと思ったが、袈裟の裾はぬれそぼって重たげな様子だった。大男は悪天候に乗じて、もっともらしいふるまいをしただけなのだろうか。
「おおい、助けてくれ、なあ」
小太郎は、舟を叩きながら叫びつづけている。舟を起こす必要があるのはたしかだ。それでも私は、いましばらく小男をいたぶってやりたかった。私はしずくが垂れる服の裾を絞ったり、力を入れすぎて凝り固まった肩をほぐしたり、舟を起こすのを先延ばしにしつづけた。
「おぬし、なかなか肝が座っとる。陰陽師の怒りが怖くないのか?」
そんな私に山伏が声をかけてきた。歯を見せて笑っているし、目は三日月だ。私が黙っていると、大男は手真似で舟をひっくり返そうと合図してきた。
「たしかに面白い見世物じゃが、舟を叩き壊されても困ろう?」
山伏の言うことは道理だ。古い船だから、叩き続ければガタがでる。
私はうなずいて、そこを持ってくれ、合図をしたら持ち上げてくれと頼んだ。私と山伏で合力すれば、舟を起こすのは赤子の手をひねるようなものだった。
「ぎゃあ」とうめき声がした。
視線を下げると、小男が両手で顔を覆っていた。突然の日差しが眩しかったらしい。そんなのは放っておいて、私は舟を沈ませるほどの痛みや欠けのないことをたしかめた。無事が分かったので、私と大男は二人して舟を水辺へ戻した。
「対岸まで、頼むぞ」
ことの始まりと同じように、大男はなにひとつ差し出さずに言った。
私に断れようか?
「あんただけの船じゃないぞ。私だって向こう岸に用がある」
私はさっさと出航しようと思ったのに、小男が口を挟んできた。
「船賃」
私は舟の中にたって見下ろしながら言った。
「さっき払った」
「あれは数に入りません」
「私は賀茂の陰陽師だぞ。怖くないのか」
「白波のほうが怖うございます」
小男は押し黙って、足元の砂をやたらとにじったが、私達めがけて砂をかける度胸はないようだった。
「おぬし、人を見る目があるなあ」
大男は痛快そうに笑い、私の背中を痛いくらいに叩いた。
「渡守稼業が長いもんですから」
「はじめからその目を使っとればよかったのにのお」
今度は私が押し黙る番だった。
取引はまとまった。私は大男一人だけをのせて、ただで舟を出した。もう日が昇っているのに、海は朝凪のときのように穏やかになっていた。
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