2

 私は船を進めつづけた。にやにやしている小太郎も、いまだ岸辺で根を張ったかのように立ちつづける白熊も無視した。私はずいぶん漕いだつもりだが、まだ対岸は遠い。汗を浮かべてはたらく私を、小男が笑っているかのようにも思えてきた。

 不意に船の外板を叩く音がした。空耳か。いや、違う。音は、どん、どん、と二度聞こえて、それっきりだ。波が舟を叩く音とは似ても似つかない。

 小男はあいかわらず笑っている。いたずらっぽく輝く二つの瞳を、私の背後に向けている。口に出さずとも、顔で語っていた。何が起こっているかは分かっているが言わないでおこう、そのほうが面白いから、と。

 船幽霊の類だろうか。いや、いまは昼間だ。こんな時間から幽霊など。あの手のものは月がいい塩梅に照っている夜に出る。なぜ月夜に出るのか。話し手が聞き役を怖がらせるためだ。つまるところ幽霊譚というのはすべて作り話のはずだ。ならばなぜ、私はこうも恐れるのか。

 どん、と再び船を叩く音がした。

「早くしないと溺れてしまうよ」

 小男の言葉が、鞭のように私に作用した。私が速く舟を漕ぎ始めると、

「そっちじゃない、そっちじゃ」

 小男が歯を見せて笑った。

 もう一度、船を強く打つ音がした。

 とうとう私は振り向いた。手が船べりをつかんでいた。人の手だ。指は五本あって、真っ白だった。手の向こう側、すなわち風波の立つ水面に、青ざめた男の首が突きだしていた。

 私は悲鳴を上げたにちがいない。小男の笑いがより大きくなったから。この狐めいた客は、船をつかんでいる手が幽霊やその手のものではないと分かっているからこそ、すくなくとも自分たちに危害は加えないと分かっているからこそ、笑っていたにちがいない。

「鰐だ」

 青ざめた男が叫ぶと、私は我に返った。遠くに見間違えようのない三角も見えた。私は男に向きなおると、自分でもおどろくような素早さで、男をいきおいよく船に引っぱりあげた。男は片腕に深手を負っており、傷口からは血が流れ続けていた。

 つい目を海のほうへそらすと、鰐のヒレはますます大きくなってきていた。血のにおいが奴らを惹きつけるのだろうか。黒三角は船の上にいてさえ不安をかきたてた。

「ほい」

 小男が、小ぎれいな手ぬぐいを差しだしてきた。どこにしまっていたのだろうか。突然にものを取り出すというのはいかにも奇術師じみていた。

 私が傷口をしばりあげるあいだ、男は歯を食いしばって耐えていた。

「御仁、命拾いされたな」小男が笑いかけると、

「親切でたすかったよ。船頭さんが」鰐にやられた男は吐き捨てるようにいった。やはり、小太郎は男に気づいていながら、何もせずにいたのだ。

 たとえ口げんかでも、船の上での騒ぎはごめんだ。私は話の流れをかえようと、助け上げた男に名をたずねた。

「丘次郎」

「いかなるわけで丘の人が鰐なぞ相手に?」小男が話をうばった。

「おれの連れが言い出したんだよ。酒の肴に、鰐の一匹でもって」

「お連れさんは?」

「さあな。昔からあんたみたいなやつだったからな」

「信心深いと」

「いまごろ寺にいって経を上げてくれって頼んでんのかもな」

 丘次郎は、私が船を進めている方角にむかって、忌々しげな視線をなげかけた。

「酒の肴なら、川でも野でもとれるでしょうに」私もつい口をはさんでいた。

「鰐はでかいから食い甲斐があるって連れが言ったのさ」

「あなたはどう思ったんです?」

「やめとけって言ったに決まってんだろ。人喰いだったらどうすんだって、止めたさ。鰐という鰐はすべて人を喰うもんだって言ったら、あいつは『んなこたない』って聞かねえんだ」

「ほおほお」小男は身を乗りだして話に聞き入っていた。

「そしたらあいつさ『行くのはお前だよ。バクチの負けがこんでんだろ』って」

 弱みをにぎられている者は、無茶な頼みを聞かざるをえない。私も何度か聞いたことのある話だ。

「人喰いは鰐だけじゃないよ」と、いう小男の言葉が、私と丘次郎の注意をひいた。聴衆をえた小男はしたり顔になって続けた。

「熊もだ。でっかい熊ほど、人の味を覚えてるもんさ」

 やれやれ。おしゃべりな客を乗せると、楽しいときもあるが気が滅入るときもある。今日は後者のほうだった。

「船頭さん、でっかいつながりで気になったんだがよ」と、丘次郎が岸辺を指差した。私が出発した方角だ。

「あの白い袈裟着た大男は、いったい何やってんだ?」

 私が岸を見ると、白熊とかいう山伏風の大男はかんたんに見つかった。大男は、打ち寄せる波にも負けじと足を踏ん張って海の中に立ち、数珠をもみちぎって何事か叫んでいた。その勢いたるや、数珠を砕かんばかりだ。声もまた大きかった。大男が「召し返せ、召し返せ」と叫ぶ声が、私達のもとにとどいた。

 船に乗れなかったからといって、おかしな真似をするものだ。このときばかりは私も小男も気があったのか、二人して笑った。

「船頭さん、山伏とか修験とかを笑っちゃいかんよ」

 不安顔でいるのは、丘次郎だけだった。私は大男を見るでもなく見つつ、船を漕ぎすすめていた。

「召し返せ」と叫ぶ声は、まだまだ続いていた。白熊は何を思ったか、着ていた袈裟を脱ぎ放ち、腕を一杯に伸ばして掲げた。海に投げ入れようとでもいう構えだった。

 大男が頭上で袈裟をふりまわすと大風が吹いた。船がひときわ高く持ち上がり、まもなくずしんと勢いよく落ちた。波は猛々しく、舟をひっくり返す、いや、もみちぎらんばかりだ。丘次郎はうずくまって船べりにしがみついていたし、私もたまらず膝をついた。

 私は気づいた。波も風も、舟をもと来た岸へ返すように動いている、と。不気味なことに、海は荒れて白波が立っているなか、空は青々としている。

 横合いからの波が舟を裏返すより先に、私は舟が真っ向から波に突っ込むように仕向けたかった。

 私は櫂をあやつる。逆巻く潮、水塊の重み。私は負けじと腕をふるう。舳先が波に向きあう。青い水を砕く。真っ白な飛沫が私の全身を濡らす。目と口の中がひりつき、全身に怖気が走る。

 それでも、舳先で波を受け止めていれば、ひっくり返らずにすむ。胸をなでおろしたとたんに、波と風の向きが変わった。海が、それともまさか山伏が、私の努力をあざ笑っているのだろうか。

「このへんはいつもこうなの?」

 小男の声が、海と格闘する私に不意打ちをかけた。

「お客さん、陰陽師だって言ってましたよね」

 私は話しながらも櫂を操ったが、もはや舟は私の意をくんでくれない。

「物覚えがいいね」

「このままじゃ大変です」

「というと?」

「ひっくり返っちまいます」

「それだけ?」

「船ごとバラバラになるかも」

「鰐がいるならバラバラだね」

「なんとかしてくださいよ」

 私が頼み込むと、小男はニヤリと笑った。

「タダってわけにはいかないよ」

 私は思わず舌打ちをした。

「騙りの陰陽師じゃないでしょうね」

「心外な。インチキはあの白熊だよ。海が荒れ始めたのをいいことに、それらしい仕草をしてるだけさ。ほら」と、小男が元の渡し場を指差した。岸では、客たちが大男を崇めるかのように、平身低頭していた。

「ならやってくださいよ」

 私が預かった船賃を突き返すと、小男はにやつきながら受け取り、懐にしまい込んだ。

 舟は揺れに揺れ、私も丘次郎も船べりを指が白くなるくらいに握りしめて座り込むほどだった。そんななか、小男ひとりが立ち上がった。いくぶん危なっかしい腰つきではあったが、小男が手で印を結んだり高い声や低い声で唸ったりするさまは、いかにも私が思い描く陰陽師らしかった。

「あっちとこっちで引っ張り合いになって舟がばらばらになったりしませんかね」丘次郎が震え声でいった。

「案ずるな。式神の術を見せてしんぜよう」

 小男はそう言い返すと、懐から紙を取り出し、矢立から筆を抜きはなち、なにごとか書きつけようとした。

 そのとき、ひときわおおきな三角の波が船底に潜り込み、私達をぐいと持ち上げ、次の瞬間にはどうと落とした。

 たまらず小男はよろめき、短く悲鳴を上げ、紙と筆を取りおとした。小男の懐からは、なにかの包みが飛びだした。私が返してやった船賃だ。じゃぼんと、音を立てて包みは海に落ち、あっというまに見えない深みへ沈んでいった。

「あああぁ」

 小男は情けない声を上げ、しゃがみ込んだ。あとは包みを落としたあたりをじっとながめるばかり。もはや印も唸りもなく、ただの小男だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る