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 あの日も甲楽城の渡しは賑わっていた。

 まけちゃあくれんかい、だめだ、そこんとこをどうにかさあさあ、だめだ、んなこといったっておれはこんなにヤセなんだたいした荷物じゃないんだ、わかったわかったはやく渡し賃を出せよ、ちょいまっとくれ、しゃべくってるあいだに隣はもう三人目の客だ大損だ、ほらモノだ、あいどうも。

 天は客と船頭の攻防など意にも介さない。東の山の頂きには白い宝珠がかがやき、西の海には空の青を何倍にも煮詰めた藍がみちている。渡し守にはありがたいおだやかな日だ。

 あいにくと、私はついていなかった。客取り競争には負けどおしで、日が出て一刻はたつというのに、一人の客も取れていなかった。いつもなら一人か二人は渡しているころだが、今日はよそに客をとられてばかりだった。やっと一人捕まえたかと思ったら、忘れ物があるとかで逃げていった。

 まけちゃあくれんかい、だめだ、そこんとこを…。なんだと、なんだとはなんだ、そっちこそなんだ。

 またしても始まった押し問答を、別の声が押しのけた。男の声だった。それも二人分。言い合う二人の声は、しだいに近づいてきた。聞きとれる言葉のなかには、坊さんや都人がつかうようなややこしい言葉もまざっていた気がした。まちがいないのは頭からつま先まで喧嘩くさいということだ。

 板子一枚下は地獄。舟をあやつっていようがいまいが、人は昔からそんなことをいう。揉めている客たちを乗せるのもまた地獄だ。いまにも底が抜けるんじゃないかとひやひやしながら、舟の上で行司をつとめる羽目になったことさえある。

 男二人の口げんかが近づいてきた。人並みを眺めていると、めんどうな輩たちがどこを通るのかなんとなくわかった。連中は人々の群れを押して二つに割っていく。竹を割ったみたいにすっぱりふたつに、とまではいかないが、時間をかけて薪にナタを食いこませていくときみたいに、じりじりと男たちは近づいてきた。今日の客たちはみな分別があるみたいで、だれも喧嘩する奴らのじゃまをしようとしない。

 男たちは、わたしの舟のほうへやってくる。かたや山伏のような格好をしたいかめしい面構えの大男、かたや狩衣をきた狐みたいな痩せぎすの小男だった。

「貴公など恐るるに足らず。白山にかけて、三宝はどんないかさまをも暴くさ」

 大男が気炎を吐けば、

「よくいう。護摩の煙がなければいかさま一つできぬくせに」

 小男も負けじと切りかえした。

 呼びこんだおぼえはないのだが、二人連れは私の舟にちかづいてきた。客は歓迎だが、やっかいなのは別だ。どうか別の渡し船にいってくれ。

 およそ修験とかその手のはあやしげなのがおおい。あの二人に、渡し賃の持ちあわせがあるかあやしいものだ。あったとしても、まともなものだとはおもえない。

 うたがっていたせいだろうか。願いも虚しく二人連れの両方と目があった。一人が同時に二人と目を合わせるというのはおかしな話だったが、そうとしか思えない感覚だった。

「船頭さん、あっちの山伏はどうでもいいから、このしがない陰陽師をのせとくれ」

 狩衣の小男が、つつと走りよってきて、折りたたんだ紙を私に差しだした。アメンボが陸地にいたらこんな動きだろうかと思うような、不気味なまでに軽やかな足取りだった。幻をみたのかと思ったが、考えすぎだろう。ただすばしっこいだけにちがいない。東の空にかがやく白日は、小男の影を地面に黒々と作りだしていた。私が客の顔を見ると、小男の額はきもち汗ばんでいた。

 小男が突き出してきた紙切れは、人の形をした折り紙だった。童子につくってやるようなもので、折りたたんだせいか、厚みがあった。式神とかいうインチキを真っ先にうたがったのはいうまでもない。

「とってくったりはせんよ」

 小男は私の心配を笑い飛ばすと、紙のそばで片手をてばやく動かし、なにか音を立てた。私には何の音か分からなかった。

「もう一度、ゆっくりやってみせよう」

 私は小男の手元をにらみつけた。小男がもういちど手を動かす。生じたのは指で紙を続けざまに三度はじく音だった。人差し指、中指、薬指で一回づつ。私が見ていると、小男はさらに三度はじいた。こんどは音と音のあいだの切れ間がわからないほどの早業だった。

 音のおかげで、私は紙の中に、なにがしかの堅いものがあるとわかった。

 紙というのもなかなかありがたいものではある。だが、船頭の仕事で食いつないでいるものとしては、包み紙よりも中身のほうが大事だった。

 何を包んでいるのか確かめようと、私が包みを手に取るやいなや、小男はひらりと舟に跳びのった。私は小男のねめつけるような視線を感じた。中身をたしかめるなど無礼千万といいたげな目つきだ。

 私にできることは、客をいち早く向こう岸に送ることだけのようだった。

 それにしても、手にした折り紙は二人分の船賃としては軽かった。中身があるのは確かだが、物足りなかった。

「お二人ならもう少し」

「あれは連れじゃない」

 小男がしゃくったあごの先に大男がいた。渡し場に仁王立ちして、他の客を五尺かそれ以上に遠ざけている。大男のいるところで二つに別れた人の流れは、すぐまた一つになって、やがて何艘もの渡し舟のもとへと散っていく。人の流れを変えるのは三宝のおかげだろうか。いや、ただ大男の体格と、さっきまで騒ぎちらしていたせいだろう。

 荷物が軽いならそれで結構、と私は声には出さず、紙包みを懐にしまった。

「向こう岸までは?」

「そう長くは」

 海は青々としていて、風も大したことはなかった。いざ出発せんというそのとき、

「のせろ」

 胴間声が渡し場に響きわたった。大男だ。

 私はとっさにもやいをといた。

「聞こえなかったか」大男は、ただ声だけを投げつけながら迫ってくる。思ったとおりだ。懐からなにも出さない。

「だんなさま、甲楽城の渡しは初めてですか?」

「うむ」

「越前国は?」

「何度も来ている」大男は鼻嵐を吹いた。

「まさかよそでは渡し賃がただ、なんてことはないとおもうのですがね」

 言い終わるより先に、私は船を岸辺から突き放した。

「なんと無情な。生まれてこの方、かような仕打ちは受けたことがない。似非渡し守め。恐れを知れ、罪業を知れ」

 大男は目を血走らせ、口角泡を吹きながら水に入ってきたが、膝丈まで水に浸かるとさすがに諦めたか、立ちどまって腕組みをし、こちらをにらみつけるだけだった。山で熊と睨み合った男の話を聞いたことがあるが、もしも白い熊がいるならこんな感じだろうかと思うような有様だった。

「連れじゃないといいましたけど、あの人の名は?」

「私は白熊と呼んでいたよ、そういう船頭さんは?」

塩次しおつぐといいます」

「私は小太郎だ」なにがおかしいのか、小男はクツクツと笑いながら名乗った。

 私がえっちらおっちら船を進めていくなか、小男は涼しい顔で船べりにもたれていた。仏像みたいに笑いさえしている。何が面白いのか、私の知るところではない。

「やっこさん金槌じゃないかしらん」

「渡し場で泳ぐ物好きはいませんよ」

「もしもね、やっこさんが金槌だったら」狐みたいに痩せぎすな小男はなおもつづけた。連れではないという大男との間に浅からぬ因縁があると想像させるには十分だった。

「あんまり寄りかかると落ちますよ」

「金槌だったらさ」

「だったらなんです?」春の日差しの眩しさにあてられたか、私も荒っぽくなった。

「私の船賃はただってのは?」

「博打はしません」

「私もしないよ」

「いましてたじゃないですか」

「勝ち負けがあるから博打なんだ。私のは違う」小男は一瞬岸を見た。「私は必ず勝つからね」

 よくしゃべくる客が相手だと、喉がかわいて困る。私の当惑をよそに、小男は大海原を眺め、潮風のにおいや揺れさえも楽しんでいるようだった。私からすれば沖合に白波が出始めたのが気に入らなかった。

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