第2話 おかえりの祈り・前編

「おい義介」

「なんですか、ボンさん」


 アンティーク調の店内に所狭しと並べられた革製品。それらすべてをカウンターに座る店の主が作っている。あくび交じりで帳簿とにらめっこ。どうやら帳簿が合わないらしい。


「おい義介」

「なんですか、ボンさん」


 小さな店内にどんと置かれた革張りのソファーでは、すらりとした白猫がしっぽをふよふよとさせながら座っている。しっぽの先、二股。俗にいう猫又、妖怪の類であった。


「もう少しやる気のある返事をよこせよ」

「今忙しいんですよ。どこかで計算間違えてるんだとは思うんですけど」


 店主は頭を搔きながら電卓を叩く。個人事業主にとって、帳簿と現金が合わないというのはそれなりに面倒なことだ。しかも気づいてしまった以上、それはずっと頭の片隅に残り続ける。仮に後回しにしたとしよう。それは後日何倍もの面倒くささを連れて彼の前に現れる。それがわかっているからこそ、彼は今こうして頭を抱えているのだが。


 からんからん。入り口のドアが開く。客に気付いていたボンはとっくにしっぽの二股を隠している。その一方で店主はというと、慌てて帳簿を落とす始末であった。


「こんにちは」

「つっ…いらっしゃいませ」


 若い男女。30代前後だろうか。ドアに貼ってある身長計と比べると、ちょうど170と180の間くらいの男性に、その肩くらいの女性。カップル、いや夫婦だろうか。店内の革細工には目もくれず、彼らは店主の背後を見て頷いた。


「すみません、祈祷師の方がいらっしゃると聞いてきたんですが」


 口を開いたのは男性の方。少しやつれたような、憔悴しているような印象を受ける男性の声は、やけにか細かった。 


「はい、私です。百八義介と申します」


 義介は二人に名刺を渡す。彼が使う名刺は二通りある。一つは革細工師、もう一つは祈祷師。今渡したのは祈祷師の方だ。二人を椅子に掛けるように促した。


「実は、相談したいことがあるのですが」

「はい、お伺いします」


 義介がそう答えると、二人はお互いを見合わせた。よく見ると女性の方もすり減ったような、憔悴したような様子がある。二人は恐らく夫婦だとして、だとすると少し難易度の高い依頼になる予感がする。義介は少しだけ、腹を括った。

 口を開いたのはやはり男性の方だ。


「先日、娘を交通事故で亡くしました。私たちが目を話したほんの少しの間に、彼女は事故に遭いました。その日の、あの瞬間のことは悔やんでも悔やみきれません」


 女性、がカバンからハンカチを取り出した。目元を拭うその様子からみて、そう時間は経っていないのだろう。


「もし、できるなら。あの子に謝りたいと思っています。無事に天国に着いたかどうか聞きたいと思っています。そのようなお願いは聞いていただけるのでしょうか」


 義介を見る男性の目は光がなく、少しの狂気すら感じる。やはりそれほど日数は経っていないのだ。きっと火葬が済んでしばらくして、居ても立っても居られない気持ちがここへ足を運ばせたのだろう。


「にゃぁ~ご」


 ボンが寝返りをうつ。そして沈黙。義介は二人の手前考えるふりはする。だが結論は当に出ている。祈祷はそう、万能なものではない。


「お話はわかりました。お二人が心を痛めていらっしゃることも。ですが私がご提案できることは、お二人のお気持ちに沿っているかはわかりません」


 二人の願いを叶えることが難しいことを伝える。二人の表情から見てそれは伝わっただろう。絶望。その二文字しか当てはまらない。きっと、藁にも縋る思いでこの店まで来たはずだ。それだけに、義介の言葉には落胆したことだろう。


「………そうですか。一応、伺ってもよろしいですか」

「はい。灰の祈りを捧げましょう。故人へメッセージを送る祈りになります」

「それは、その。必ず届くものなのでしょうか」

 

 その質問は、義介が祈祷師として生き始めてから何度も出会った質問だ。義介自身、もし自分が祈祷に関係のない素人であればなおのこと気になるところだと思う。だが、義介の答えはいつも変わらない。


「そうですね。私もあちらへ行って確かめたことがないので、お約束はできません」


 その言葉に、二人は落胆を隠せない。確実に伝えたい、話したい―――会いたい。その思いは誰しもが持つものだ。そこに親子も夫婦も関係ない。親しい人にもう一度会いたいという祈りは、古来より何度も繰り返されているはずだ―――叶っているのならば、別れがこんなに苦しいものではないはずなのだ。

 そんな表情を義介は何度も目にしてきた。こうしてこの表情に出会うたびに、今まで出会ってきた人たちの表情が思い返される。皆、悔しくて、やるせなくて、憤りと悲しみに心を支配される。そういう人たちに、義介はいつもこう伝える。


「ですが、私ができうる限りのことは致します。私が思いつく限りの方法をもって、あちらへメッセージを送ります」


 決意表明のようで、確実ではないことの裏返しであったりするこの言葉はずるい、義介はいつもそう思っていた。だが、できないものはできないのだ。”例え確認する方法があった”としても、義介はその方法は取らないのだ。だが、みんながそうというわけではない。


「………百八さんは、霊媒師の方ではないのですか?」

「はい。私は祈祷師です。霊媒師ではありません」

「そうですか。どなたか、霊媒師の方を紹介していただくわけにはいきませんか」

「そうですね―――」


 気が乗らない。その表情を義介は隠しきれなかった。そしてその様子をボンは見逃さなかった。ボンから見て、彼は非常に穏やかで気配りができ、感情を表情に直接出すことはほとんどない。彼の接客は丁寧で、親切だ。その彼らしくない表情にボンは彼の、いわゆるデリケートな部分を察した。思えば彼は魔術師や陰陽師の話はするが霊媒師の話はしなかった。それでいて妙に霊やあの世に詳しい。かと思えば彼の扱う祈りは非常に原始的な祈りをルーツに魔術的な―科学的ともいえる―要素を取り入れたものだ。原初の時代、祈祷師と霊媒師の間にはっきりとした区別は無かったにしろ、少し引っかかるところがある。

 もっとも、ボンはそこに踏み入るようなことは今までしてこなかった。誰にでも触れられたくない部分はあるものだ。そこに踏み入らないマナーは、例え猫又であっても持ち合わせている。


「あいにくですが、私の紹介できる霊媒師の方はおりません。私から提案できるのは、灰の祈りと呼ばれる祈りのみです」

「そのお祈りは、確実なものですか。必ず娘に届きますか」


 口を開いたのは女性の方だ。泣きながら、震える声で聞く彼女に義介は同情する。それでも、彼女の苦しみを取り除く方法がないことを、義介はよくわかっている。


「わかりません。私の扱う祈りの原動力はお二人の思いです。お二人のお気持ちをあちらへ送る手段しか、私は持っておりません」


 もう一度、男性が口を開く。


「私たちは具体的に、娘と繋がる方法を探しています。こちらでは難しいようですので、他を当たります」

「そうですか。お力になれなくて申し訳ありません。お二人の心が安らぐ日が来るよう、願っております」


 二人は席を立つ。店を出る際、義介はこう声をかけた。


「くれぐれも慎重になさってください。境界を超えるにはそれだけのリスクがありますから」


~~~


「お前、意地悪だな」


 店内にガラガラ声が響く。義介以外の人間がいない時、この猫又はひどくよくしゃべる。


「その言い方は少し不本意です。真実を伝えることとあの二人が救われることはイコールではありませんから」

「お前の価値観はよくわからん。乾いていたりしつこかったりコロコロ変わる」

「人間の心はそう強くはありません。祈るくらいがちょうどいいんです」


 義介はカウンターに戻り、再び帳簿とにらめっこをする。けれど、頭にあるのは先ほどの夫婦のことだ。ボンの言いたいことはわかる。”あちら”にいる彼らは時としてこちらに戻ってくることがあるからだ。

 風・温度・音など、様々な方法で彼らは自己の存在をアピールする。よくある「怪談を話していたらろうそくの火が強く揺れた」などのエピソードはそれの最たるものだ。実はあちらの住人はこちら側に来ているものの、頭が重い・肩が重いなどの身体的な症状やラップ音などの怪奇現象として取り上げられることが多い。

 祈祷師・霊媒師・陰陽師などのオカルト界隈を研究する魔術師たちの間ではいわゆる「あの世」が存在していることはほぼ確実だとされている。それが天国なのか地獄なのか、仏教的世界なのかキリスト教的世界なのかは確認されていないものの、生者と死者の世界に境界線が存在する、というのが通説になっている。そしてその境界を超える時に次元がずれ、生者の意思伝達方法が使えないために怪奇現象的な方法を取って意思の疎通を図っているとされている。霊媒師と呼ばれるプロたちはその次元のずれを利用しあちらの住人と意思伝達を行っているとされている。

 もっとも、これらは全て魔術師的な考え方であった。多くの祈祷師や霊媒師、聖職者達は各々の文化や宗教観に則った「あの世」の捉え方をしている。義介の場合、彼の祈りの手法自体に宗教的要素が薄いため、魔術師の考え方を参考にしている部分は多い。


 ボンの言いたいことは、義介にもよくわかった。現代のあの世の考え方で言えば、祈りに呼応して娘が会いに来る可能性は否定ができないのだ。彼らの娘が何らかのアクションを起こすことで彼らに届く可能性はゼロではないのだ。それでも義介はそのことを伝える気にはならなかった。会いに来ていたとしても話せるわけではなく、気づかない可能性すらあるのだ。それを「もしかしたら」といって待たせるのは酷ではないかと、義介は思う。祈りが届く証明も、届かない証明もどちらもできない以上、曖昧な答えでは納得しなかっただろう。

 彼らの切実さは、義介の祈りの手法では取り除くことはできない―――恐らく、霊媒師であっても―――。たった今答えを求める彼らに、「もしかしたら娘さんが様子を見に来るかもしれませんね」などという悠長なことは言えなかった。もちろん言える、むしろ伝えることが救いであると考える人もいるだろう。義介はその考え方を否定しているわけではない。ただ、いつか来る返事を待てるだけの余裕があの夫婦には無かったように思えたのだ。ぼんやりとした頭を切り替え、帳簿との格闘に戻る。


 商店街に活気が戻ってきた頃、義介はようやく帳簿とのにらめっこを終えた。


~~~


 とある雨の日であった。元々少なかった商店街の人通りはもはや皆無に等しく、閑散とした通りに雨が地面をたたく音が響いている。

 雨の日用のドアマットを用意しながら、義介はふとボンに問う。


「ボンさんが顔を洗ったと思ったら、急に雨が振り出しましたね」

「おれのせいってか」

「いいえ、ジンクスの話です」


 店内の掃き掃除をしながら横目にボンを眺める。ピンと伸ばした足を器用になめる姿はまぎれもなく猫なのだが、しっぽの先を見ると確かに割れている。もう何度も猫又であることは確認しているのだが、時折違和感があるのだ。

 白猫ではあるが真っ白ではない。微妙に茶色っぽく色がついている。太ってはいないが細くもない中肉中背。顔も一般的な猫。しっぽを除けば何処にでもいる猫そのものなのだ。なんというか、こう、もうちょっと妖怪っぽさとかないのかなぁ。と義介は思うことがある。


「おれは雨を降らすほどの力はねえぞ」

「わかってますよ。だからジンクスの話です」


 今度は顔を洗い出したボン。途端に雨音が近づいてきたような錯覚を覚える。というか本当に雨足が強くなっているんじゃないだろうか。ジンクスの話だったのになぁ。と思う一方で、納得している部分もある。祈りもジンクスも、人間の思い込みというものが多分に影響してくるからだ。


「ん?」

「どうしました?」


 ボンが顔を上げる。西の方角をじっと見て耳をそばだてる。何かに気付いた仕草。猫由来の妖怪である猫又ボンは、人間以上のセンサーをもって儀式の様子をキャッチすることがある。恐らくこの町内のどこかで、オカルト的な儀式が行われているのであろう。


「ありゃあ、ひどく雑だな」

「ほう」

「素人に毛が生えた程度だ。義介、店に祓いの術かけとけ」

「はあ」


 言われるがまま、義介は送還の護符を店の入り口に掛ける。「送り還す」祈り。悪い霊も良い霊も隔てなく、あるべきところへ”還り”ますように。


「結局、なんの儀式なんですか」


 ボンはため息をつきながら答える。


「降霊術。それもえらく強引な。あれはこじれるぞ」


~~~


 ボンの言いつけ通り、義介は毎日欠かさず送還の護符を掛け続けていた。その甲斐があってかそうでないのか、結び屋には変わらない日常が続いている。客も送り返してしまったのではないかというくらい暇な日常ではあったが。ボンは特に何も言わないがもう外してもいいかと思った頃、一組の夫婦が店の前に現れた。


「いらっしゃいませ」

「………こんにちは」


 ドアを開け、声をかける。以前、亡くなった娘にメッセージを送りたいと話していた夫婦だった。だがこれほどまでにやつれてはいなかった。髪はぼさぼさ、目の下にクマ、頬はこけている。血走った眼に見つめられ、思わず義介はたじろいだ。


「中、入りますか?」

「………ええ、そうします」


 男性が敷居を跨ごうとしたとき―――パァン!と弾ける音がした。

 驚いた男性はバランスを崩し、転がるようにして店内に入る。慌てた女性が男性に駆け寄ろうと敷居を跨いだ時、パァンと再度弾ける音がした。

 床に転がったまま抱き合う夫婦、立ち尽くす義介、じっと外の一点を見つめるボン。落ち着いた内装の店内に緊張感が走る。


 ばたん。がたがたがたがた。


 店内の額が落ちる。そしてあらゆる物全てが揺れ動いているかのような振動。夫婦は必死にお互いを抱いて耐える。カウンターにしがみつきながら義介は外を見る。道行く人は何も感じていないようだ―――揺れているのはこの店だけだ。

 店内の商品がばたばたと倒れ床に落ちていく。突っ張り棒で固定している棚が倒れてくるんじゃないかと思うほどの揺れ。夫婦と義介は頭を守りながら揺れが収まるのを待つが、その気配は一切ない。むしろ地鳴りと共に段々と強くなっていく揺れの中、ボンだけが変わらず店の外、一点を見つめている。

 歩けないほどの揺れの中、這うようにしてドアへ向かう。送還の護符に手を伸ばす―――熱くて触れることができない。このままでは護符が燃える―――揺れの源が入ってくる。


「ボンさん!」

「にゃぁ~ご!!!」


 その瞬間。店の揺れがぴたりと止まる。依然、張り詰めた空気。沈黙。


「………幸子、聞こえてるか」

「止まった………」


 なお一点を見つめ続けるボン。安堵する夫婦。義介は二人の手を取り、起き上がるのを助ける。そして問う。


「今のは、娘さんですね?」


 夫婦は、頷いた。そして安堵したかのように、床に座り込んだ。

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