【巻一〇 荀彧】不稱彧容貌
「彧サマの外見を語らないなんて!」
太祖雖征伐在外,軍國事皆與彧籌焉。
典略曰:彧為人偉美。
又平原禰衡傳曰:衡字正平,建安初,自荊州北游許都,恃才傲逸,臧否過差,見不如己者不與語,人皆以是憎之。唯少府孔融高貴其才,上書薦之曰:「淑質貞亮,英才卓犖。初涉藝文,升堂覩奧;目所一見,輒誦於口,耳所暫聞,不忘於心。性與道合,思若有神。弘羊心計,安世默識,以衡準之,誠不足怪。」衡時年二十四。是時許都雖新建,尚饒人士。衡嘗書一刺懷之,字漫滅而無所適。或問之曰:「何不從陳長文、司馬伯達乎?」衡曰:「卿欲使我從屠沽兒輩也!」又問曰:「當今許中,誰最可者?」衡曰:「大兒有孔文舉,小兒有楊德祖。」又問:「曹公、荀令君、趙盪寇皆足蓋世乎?」衡稱曹公不甚多;又見荀有儀容,趙有腹尺,因答曰:「文若可借面弔喪,稚長可使監廚請客。」其意以為荀但有貌,趙健啖肉也。於是眾人皆切齒。衡知眾不悅,將南還荊州。裝束臨發,眾人為祖道,先設供帳於城南,自共相誡曰:「衡數不遜,今因其後到,以不起報之。」及衡至,眾人皆坐不起,衡乃號咷大哭。眾人問其故,衡曰:「行屍柩之間,能不悲乎?」衡南見劉表,表甚禮之。將軍黃祖屯夏口,祖子射與衡善,隨到夏口。祖嘉其才,每在坐,席有異賓,介使與衡談。後衡驕蹇,答祖言徘優饒言,祖以為罵己也,大怒,顧伍伯捉頭出。左右遂扶以去,拉而殺之。
臣松之
以本傳不稱彧容貌,故載典略與衡傳以見之。又潘勗為彧碑文,稱彧「瓌姿奇表」。
張衡文士傳曰:孔融數薦衡于太祖,欲與相見,而衡疾惡之,意常憤懣。因狂疾不肯往,而數有言論。太祖聞其名,圖欲辱之,乃錄為鼓吏。從何焯說後至八月朝,大宴,賓客並會。時鼓吏擊鼓過,皆當脫其故服,易着新衣。次衡,衡擊為漁陽參撾,容態不常,音節殊妙。坐上賓客聽之,莫不慷慨。過不易衣,吏呵之,衡乃當太祖前,以次脫衣,裸身而立,徐徐乃著褌帽畢,復擊鼓參撾,而顏色不怍。太祖大笑,告四坐曰:「本欲辱衡,衡反辱孤。」至今有漁陽參撾,自衡造也。融深責數衡,并宣太祖意,欲令與太祖相見。衡許之,曰:「當為卿往。」至十月朝,融先見太祖,說「衡欲求見」。至日晏,衡著布單衣,綀布綀布 從何焯錢儀吉說履,坐太祖營門外,以杖捶地,數罵太祖。太祖敕外廄急具精馬三匹,并騎二人,謂融曰:「禰衡豎子,乃敢爾!孤殺之無異於雀鼠,顧此人素有虛名,遠近所聞,今日殺之,人將謂孤不能容。今送與劉表,視卒當何如?」乃令騎以衡置馬上,兩騎扶送至南陽。傅子曰:衡辯于言而剋于論,見荊州牧劉表日,所以自結于表者甚至,表悅之以為上賓。衡稱表之美盈口,而論表左右不廢繩墨。於是左右因形而譖之,曰:「衡稱將軍之仁,西伯不過也,唯以為不能斷;終不濟者,必由此也。」是言實指表智短,而非衡所言也。表不詳察,遂疏衡而逐之。衡以交絕于劉表,智窮于黃祖,身死名滅,為天下笑者,譖之者有形也。
(漢籍電子文献資料庫三國志 311頁 ちくま2-244 妄想)
○解説
本伝で
そして裴松之先生、「
それから
強火、強火過ぎる……。
○皆様のコメント
・波間丿乀斎
裴松之先生の荀彧強火担については、ひとつ別の視点が持てると面白いです。というのも、
裴注が書かれたのは劉裕死後、息子の
実はこれ、のちに来る
いわゆる天命論は、基本が
ともなると残された呉は、劉宋的史観に立てば「ただの僭称者、ゴミ」となります。
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