【巻二一 阮瑀】愈知甚妄

文士傳曰:太祖雅聞瑀名,辟之,不應,連見偪促,乃逃入山中。太祖使人焚山,得瑀,送至,召入。太祖時征長安,大延賓客,怒瑀不與語,使就技人列。瑀善解音,能鼓琴,遂撫弦而歌,因造歌曲曰:「奕奕天門開,大魏應期運。青蓋巡九州,在東西人怨。士為知己死,女為悅者玩。恩義苟敷暢,他人焉能亂?」為曲既捷,音聲殊妙,當時冠坐,太祖大悅。


臣松之案

魚氏典略、摯虞文章志並云瑀建安初辭疾避役,不為曹洪屈。得太祖召,即投杖而起。不得有逃入山中,焚之乃出之事也。又典略載太祖初征荊州,使瑀作書與劉備,及征馬超,又使瑀作書與韓遂,此二書今具存。至長安之前,遂等破走,太祖始以十六年得入關耳。而張騭云初得瑀時太祖在長安,此又乖戾。瑀以十七年卒,太祖十八年策為魏公,而云瑀歌舞辭稱「大魏應期運」,


(漢籍電子文献資料庫三國志 600頁 ちくま3-391 罵詈雑言)



○解説

 張騭ちょうしつ文士伝ぶんしでん」に載る、建安七子けんあんしちしのひとりにして、竹林七賢ちくりんしちけん阮籍げんせきの父でもある、阮瑀げんうのエピソード。曹操そうそうはかれの高名を聴き招聘したのですが応じずに山に逃れられたそうです。曹操は彼を山から出すために火を放ちました。ワァオ過激! これが、馬超ばちょう韓遂かんすいらの征伐のすえ長安ちょうあん入りした頃のタイミング。そこで宴会が開かれると、阮瑀が詩をものします。そこで「が機運に応じた」とか「曹操様の功績を誰が乱せようか?」と讃えた、とあり、それに曹操が喜んだそうです。

 は? 裴松之はいしょうし先生、目が点です。

 いやいやいやいや、お前魚拳ぎょけん典略てんりゃく」や摯虞しぐ文章志ぶんしょうし」の記事知ってる? 元瑀って曹洪そうこうの招聘は蹴ったけど曹操直々の招聘にはすごい勢いで飛びついたって書いてあるよ? 山? なに言ってんの? しかも阮瑀の死去年って 212 年で、曹操の初めての長安入りが 211 年。まぁ長安にいたとき、はいいとして、曹操がはじめて魏公に任じられたのって 213 年よ? 211 年に死んだ阮瑀がなんでそれ歌えんの? ! とお怒りなのです。

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