第23話

 クリスマスはディズニーランドへ。ファンシーなお嬢様方のご希望はそこらへんだろうと私は予想していた。しかしディズニーランドは年末に向けて大変に混雑する。意外にも現実的な判断がくだされ、帰国早々に祖母の念願が果たされる事になった。私も小さい頃、何度か連れて行ってもらった記憶があるけれど、列に並んでいた記憶しかない。乗り物に乗るのに百二十分待ちとか正気とは思えない。恐らくランドが好きな人たちは、その百二十分さえも夢を見ていられるから楽しめるのだろう。私にはもはや無理だ。悲しい大人になってしまった。

 一方楽しすぎるファンシーグループは、二時間でも三時間でもおしゃべりで時間を潰せそうである。しかしそれでも混雑を避けたいと言うわけだから、ランドの混雑振りがいかにスゴイものか想像できる。祖母に母、そして真理子はディズニーランドの常連なので、アトラクション半分ショッピング半分ぐらいが目的らしい。すると、なんとか混雑も気にならないで過ごせるようだ。

 ランドへ行くのはファンシーグループ三名に加え兄、そして真理子の妹である類子の五人となった。

ここ最近真理子がずっとウチに入り浸りになっているので、類子にはかなりさびしい思いをさせていた。そこで今回一緒に連れて行くことになったのだ。真理子という姉がいるせいだろう、類子はお嬢様ではあるものの、桐原家の人間にしては割とシニカルで冷静な感覚を持っている。今回の婚約計画に関しても、陰ながらかなり力を貸してくれたらしい。姉がその手際を褒めていた。まあ類子も普通じゃない。

 祖父が奮発して、ディズニーランドのプレミアムツアーとか言うものを申し込んでしまった。ランドに併設されているホテルに二泊三日で泊まった上、優先的に遊びまくることが出来るシステムがあるらしい。

 ディズニーランドをいかに楽しむか。晩御飯の後、桐原家から出張してきた類子も交えて、ファンシーグループが居間で計画を煮詰めていた。もちろん当初は日帰りのプランだった。限られた時間内でいかに楽しむか。ファンシー達によると、それを考える事も非常な楽しみであるらしい。女達が盛り上がっているその横で、祖父は新聞を読みながらそっと息を潜めていた。そして何食わぬ顔で「行って来なさい」と祖父が突然大きなプレゼントをしたわけだ。みんな唖然とした。サプライズ。祖父にしたら非常に珍しい事だ。本人もかなり勢いで決めてしまったらしく、事前に姉と私に相談が無かった。なにしろ兄達がディズニーランドへ行っている間も、店を閉めるわけにはいかないのだ。よって私と姉は、その間喫茶店で死ぬほど働かなければならない計算になる。日程的に土日を挟むとしても、学生連中は全員学校を一日か二日休む事になる。祖父は自分で言ったあと、ハッとその事に思い当たったようでバツの悪い顔になった。しかしその表情を姉がしっかりと見ていた。

「あんた達、じいちゃんに感謝しなさいよ? じいちゃんのサプライズなんてたぶん死ぬまでもう無いかもね。わたし達が必死こいて働いている間、しっかりネズミーランドを楽しんできなさい。その代わりおみやげはよろしく」

 姉が私にウィンクする。祖父がほっとした顔をした。兄が珍しく空気を読んで、店を心配するような発言を控えた。最近大学の方がまた特に忙しくなっている姉が、たまたまこの場に居合わせたのは幸運という他無い。私だったらそこまでは言えなかった。同じような気持ちではあったけれど。

 祖父はなかなか感情を表に出さない人だけど、兄と真理子の婚約を心から喜んでいるのだと思う。それと、久しぶりに帰ってきた祖母にも何かしてあげたかったのだろう。そう思うと私も嬉しくなった。まあ、店を手伝う三日間は地獄の忙しさが約束されているが。本当に素晴らしいおみやげをいただかないと割りに合わないぞ。


「では行ってまいります」

 そう言った真理子の幸せそうな笑顔を見ただけで、今までの苦労がすべて報われた気がした。たぶんそれはほとんど私の錯覚だ。この一瞬の笑顔の為に多大な労力が費やされている。でも確かに真理子は何か持っている。人の心を震わせる何かを。

私はジーンとしながら、ファンシーグループの背中を店の前で見送った。兄がこちらを何度も振り返って、心配そうな表情を見せる。笑って私は手を振った。店から少し離れた所に桐原家の車が止まっている。片山さんのシルエットがこちらに向かってお辞儀をした。まだ午前七時前。早朝の空気が冷たくて一気に眠気が吹き飛んでいく。

「ちょっとそこのお嬢さん? ボーっとしてるヒマはないよ」

 後ろから姉に襟首をつかまれた。

「姉さんこそ。今日は本気で働きなさいよ!」

 私は姉の腕を掴んで言い返した。

「わたしは仕込みだってほとんどやった事無いんだから。早くじいちゃんを手伝いなさい。開店に間に合わないわよ。今日の主役は佐奈だからね? 家族の為に身を粉にして働きなさい!」

 偉そうに姉が言う。

「召使が主役って、シンデレラか私は」

 エプロンを着けながら私はつぶやいた。

「そうそうその調子。むしろ我が家がディズニーランド。お姫様はあなたなのよ! そういう意気込みで頑張ろう」

 しょっぱなから姉がヤケクソ気味だ。これから三日間踏ん張りきれるだろうか。

「でもまあ、インドに比べればましか」

 私は言った。

「それそれ。わたしもよくそれを考えることがある。試験勉強とか辛い時にさ、あの旅行を思い出すと不思議に頑張れるのよ。苦労の次元が違うんだもん。そういう意味ではいい経験だったのよ、インド」

 姉がニヤッと笑って言った。

「そろそろ手伝ってくれないか。開店できなくなってしまうよ」

 祖父が困った顔で私たちに話しかけてきた。祖父が催促したと言う事は、本当にギリギリだという事だ。慌てて私たちはスイッチを切り替え、忙しく働き始める。

 ちなみに父はディズニーランドへ連れていってもらえず、店内のカウンターでくつろいでコーヒーを啜っている。腹立たしいが、もとより戦力として期待していない。むしろじっとしていてもらった方が仕事がはかどる。本人も家族に当てにされてない事が分かっていて、でもそのことを気に病んだりする事は決して無い。全く幸せな性格をしている。根っからの遊び人というのか。そういう役割の人間だと開き直っている節がある。

「ディズニーランド行きたかったなぁ……。それが僕のディスティニー。ね、佐奈ちゃん? ディスティニーランド」

 父がつまらない事を言う。祖父と姉は父を無視するので、必然的に私が父の相手をすることになる。なぜだか私はこの遊び人を無視する事ができない。なんとなくかわいそうな気持ちになってしまうのだ。本当はそんなヒマないのだが!

「これから三日間、ディズニーランドに負けないくらい忙しくなるんだからね? 邪魔しちゃダメだよ?」

 私は忙しく動き回りながら、父の話の相手をしてあげる。

「もちろん僕も手伝うさ。優秀なスタッフがいるからこそ、ディズニーランドはみんなに夢を与えることが出来ているんだ。そう思わない?」

「思う思う」

「ちょっとおこがましいけど僕は、ミッキーマウスみたいな存在と言う事でどうだろう? 夢の世界の象徴的存在というのかな。もちろん突っ立ってるだけじゃない。いつでも笑顔を絶やさず、お客様を楽しい気持ちにさせる。そういう役割じゃないだろうか僕は。ね、佐奈ちゃん?」

 忙しい時ほど父はしつこいような気がする。だからと言って邪険にすると、機嫌を損ねて何をしでかすか分からないから気をつけなければならない。忙しいのに……。

「父さん……。兄さんと真理子が一緒になって、ウチの店、ホントに夢を与えるような場所になってきてると思う。だからさ、この三日間はわりと勝負だよ? お客さんをガッカリさせたくないじゃない。父さんなら、その穴を埋める事ができるんじゃないかな。兄さんや真理子の為にも。本当に自分がミッキーだって言うんなら、きっとできるはずだよ。遊び人の真価を見せてみてよ」

 片手間に語った言葉だが、我ながら結構いい事を言ってしまった。同時に、非常に恥かしいセリフでもあるわけだが。姉は鼻で笑うだろうけど、こういうノリは父に効果的だ。私はそれなりに父の操縦法を心得ている。中身はなくとも言葉でどんどん盛り上げていくのだ。これは危険な賭けだが。

「ミッキーの本気を、久しぶりに出してしまおうかな……」

 父が不敵な笑みを浮かべ、カウンターの前で準備運動のような事を始めた。邪魔で仕方ない。が、父は体力だけはものすごいある。しかも稀代のお調子者だ。本気になって接客をしてもらうと、とても上手く店が回る時がある。その予兆だと信じたい。

 無駄にスクワットとかしている父の周りで、祖父と姉が凄まじいスピードで仕事をしている。ものすごいシュールな光景だ。思わず笑ってしまったが私も手を止めるわけにはいかない。適当に父を励ましながら開店の準備に全力を注ぐ。ファンシーグループは、もうそろそろディズニーランドについたかな……。まだ早いか。戦いはこれからだ。


 真理子のいない喫茶店は、まるでミッキーマウスのいないディズニーランドのようだ。父の言葉を借りるとそういう表現になる。父は当初自分がミッキーになる予定だったのが、来店するお客さんの一言ひとことに打ちのめされて行った。

「真理子さん……あら?」

「真理子ちゃんはいないの?」

「マリちゃんは?」

「何だ今日はお休みか」

 みんながみんな真理子を真っ先に探す。特に常連さんは、真理子の顔を見られないことが分かるとあからさまにがっかりする。そしていつもより早めに切り上げて帰宅してしまう人もいた。父が場を取り持とうとする。ミッキーになれなかった父。それでも、なんとか自分の役割をこなそうとしていた。私には父の落胆が手にとるように分かったが、父は笑顔を一度も崩さなかった。

「たまには真理子ちゃんも休まないと。天使にも休息が必要でしょう。すぐに戻ってまいります。ウチの真理子ちゃんは、極楽浄土で今イットキ一休み。ね? おばあちゃん」

 徹底的にふざけた事を言ってみんなをなごませようとする。父がこんなに家族の為に働いている姿を見たのは、私は初めてかもしれない。家族の為というよりも、遊び人としてのプライドがそうさせているのかもしれない。

 真理子目当ての客が長居をしなかったにもかかわらず、事前に予想されたように店は非常に混雑した。私と姉は最近手伝いをさぼっていたので、チームプレイが上手くいかない。夕食時になってようやく徐々にカンを取り戻してきた。なんとか乗り切って戦争のような一日が終わった。まだ一日目。祖父を始め、みんな死に体。父元気。カラ元気にしてもなかなか出来ることじゃない。ちょっと見直してしまった。

「父さん頑張ったじゃない。なんとか場が持ってたよ。ギリギリだったけど。ね? 姉さん」

 私は言った。なぜだか笑いがこみ上げて来る。疲れすぎていてテンションがおかしい。

「まあ体力だけは認めるわ。私はもう寝るわよ、明日に備えて。父さんと佐奈、後はよろしく」

 足を引きずるようにして姉が勝手に自室に引き上げて行った。ヒドイ。しかし文句を言う気力も無い。

「じいちゃんももう休んで。明日の為に。あとは私達がやるから」

 私は言った。祖父が無言で頷き、恐ろしくゆっくりと、スローモーションで歩いていった。みんな限界だ。

「じゃあ僕は少し踊ろうかな? 佐奈ちゃんお手を拝借」

 立ち上がってクルクル回る父。頭がおかしい。だけど本当にこの体力は尋常じゃない。ネパールで山歩きというのも、伊達ではなかったか。

「父さん、お皿洗ってよ……」

 泣き声に近い声を私は出してしまう。

「ハイハイ。踊りながら洗うよ。ついでにお皿も回すよ」

 なぜか好調な父。真理子に人気を奪われたダメージがあるはずなのに。ついに家族愛にめざめたか。後は父に任せて私も休みたいけれど、そういうわけには行かない。観客がいないと父は動かない。私は適当に励ましながら、父の貴重な労働を見守る。割と助かった。まぶたが重い。

「父さん私眠い……。部屋まで運んで」

 よしきた! と言って、父が私をお姫様抱っこして部屋まで運んでくれる。私は父の操縦法を心得ている。なつかしいこの感じ。最後にやったのは中学生の時だったか。父がベッドの上に私の体をそっとおろしてくれた。

「重くなったな〜とか言わないの?」

 私は半分眠りながら言った。

「え? そんなまさか。まるで雲を抱いているみたいだったよ。 お休みお姫様」

 そう言って父が部屋の電気を消した。意味不明。でもありがとうございます。


 二日目。朝起きたら変な所が筋肉痛になっていた。姉も同じ。しかし昨日の一日で私達は割とカンを取り戻している。姉と私が最も店を手伝っていた時代は小、中学生の頃。そのころ兄は大学生で、趣味を兼ねた研究等で旅へ出かける事も多かった。もちろん両親は当時から遊んでいたので、祖父に加えて私たち姉妹が店の主力だったのだ。その時に連携技とか、笑える隠語とかをたくさん開発した。祖父に禁止されていたが、お客さんが手をつけなかったモノでおやつや夕飯を済ませてしまう事もあった。体を動かして働いているうちに、そういう懐かしい事が思い出されてきた。

 店が上手く回り始めると気持ちが充実してくる。そうすると、特にがんばらなくても自動的に体が動くようになってくる。姉は昔、この状態を店員のロボット化と呼んでいた。姉は小学生の時から脳がすごくて、注文をすべて暗記することが出来たし、お会計の計算も頭の中で一瞬だった。何時に誰が来たという事まで覚えている。一方私は、祖父のサポートをする事が得意だった。祖父の目を見ただけで何をして欲しいのかがすぐに分かる。お皿を洗えばいいのか、コーヒーを注ぎに回ったほうがいいのか。独特の呼吸がある。みんながじわじわとそれらを思い出してきた。

 父は昨日と同じで接客に全力を注いでいる。常連さんの相手をしたり、学生集団のお客さんと何故か一緒になって大爆笑していたり。なかなか上手い。本能的に動いている。真理子や兄さんがいる時には適わないだろうけど、店が店として機能しはじめた気がする。我々も捨てたモンじゃない。

 今日は日曜日でそんなに混雑はしなかった。閉店時間には昔の感覚をすっかり取り戻して、店を閉めるのが少し勿体無いような気持ちになった。

「昨日と疲れが全然違うね」

 閉店の準備をしながら私は姉に言った。

「当たり前よ。わたし達、子供の頃からさんざん働かされてるんだから。真理子とは年季が違うのよ」

 姉が威張って言った。

「なんだかなつかしいなぁ。加奈ちゃんと佐奈ちゃんが小さかった頃を思い出すよ」

 いきなり割り込んできて、父が感慨深そうに言った。

「思い出す記憶なんてないくせに。当時から父さん遊んでたじゃない」

 私は呆れて言った。

「そうだね。旅の空から君達を見守っていたよ……」

 しみじみとした表情で父が言う。さすがにへこたれない。

「今日も割と働けてたじゃない。この調子で続けてみたら? 真理子と父さんの組み合わせも案外面白いんじゃないの」

 珍しく姉が父をおだてるような事を言った。真理子を絡めたのが上手い。

「店にアイドルは二人もいらないでしょう」

 本気で照れる父。ホント幸せな人だな。

「看板娘に名物マスター。私はけっこういいと思うけどな。ほら、うちは客層が豊かだから。若い女の子とかも増えてきてるのよ。じいちゃんと兄さんにはカウンター内の仕事に専念してもらってさ。そこに父さんが加わればホント理想的だよね」

 私は畳み掛けて言う。姉との連携技だ。買って欲しい物がある時とか、昔もよくやった。

「店で働いてる時なら真理子に多少触ってもいいのよ? 家族を見守るお父様としてね。真理子の肩に手をかけて『ごくろうさん』その程度なら許されるわね。真理子も喜ぶわよ」

 姉が危険な事を言う。しかし効果は絶大だ。父ははっきりと「やる」とは言わなかったが、かなり乗り気になったようだ。この調子ならもしかしたら当分は働いてくれるかもしれない。そうすれば今後姉と私の負担が減るだろう。兄、真理子カップルのラブラブ、モジモジな店内にいるのが姉と私には相当辛い。実際問題バイト代もほとんど出ないし徒労感が大きい。

 姉が私に向かってめくばせした。以心伝心。祖父も事情が分かったようで、カウンターの中でお皿を拭きながら笑いを噛み殺している。


 店員復帰三日目。月曜日なので私は学校を休む予定だった。だけどすっかり業務の感覚を取り戻した姉が、私に学校へ行けと言う。ウチの店は平日の方が混雑するのに大丈夫か。

「たぶんギリギリでしょうね。じいちゃんとわたし、おまけで父さんという構成でどれだけ出来るかやってみたいのよ。本当にギリギリになった時に父さんがどのような動きを見せるのか、見極めておきたいし」

 姉が淡々と言った。見事にロボット化している。お言葉に甘えて私は学校に行く事にした。

 真理子は病欠と言う事になっている。お嬢様学校は校則が厳しい。単なるデートで停学になった子もいる。家業の手伝いなら言い訳も通るが、ディズニーランドへ行く為に欠席という事がバレたら停学じゃ済まないかもしれない。しかもお泊りで不純異性交遊……。いや、純粋異性交遊だけど。婚約してるわけだからな。

 さすがに部活は休むことにして、私は午後四時ごろに帰宅した。

「ただいま」

 店のドアを開けると同時に、常連さんたちがいつものように私に「おかえり」と声をかけてくれる。そんなに混雑はしていない。しかし祖父と姉は大変だったろう。私は制服のままエプロンを着けて手伝おうと思った。そしたら姉が近づいてきて言った。

「大丈夫。着替えてきなよ。柔道部に出てきてもよかったのに」

 余裕の表情の姉。

「そうなの? 疲れてない? お昼時は大変だったでしょう」

 私は言った。

「追い詰められると意外に働くことが分かったわ。父さん。追い詰めすぎると逃げ出すから、そのバランスが難しいとは思うけど」

 目配せして姉が言った。おお、確かに父がコーヒーポットを持って、店内を見回し歩いている。非常に珍しい。自分のおかわりさえ人に注がせようとする父が、完全に店員の振る舞いをしている。写真に撮って額縁に入れておきたい。

 父が私の姿に気が付いて笑顔を見せた。ポットを持って歩み寄ってくる。

「あ〜疲れた。今日は僕働きすぎちゃったよ。佐奈ちゃん交代交代」

 父はそう言って、カウンターにどっかりと腰をおろしてしまった。久々に普通に働いただけで何言ってんだか。しかし私は父を操縦しなければならない。

「お疲れ様。父さんのおかげで私、学校行けてよかったよ。来週はもう試験だし、真理子の分もノートが取れたからね。それとさ、ポットを持ってる父さんの姿を見て、なんだかジーンと来ちゃった。はまってる風景だなと思って」

 父に皮肉は通じない。大げさなこの言い方でたぶん間違ってない。

「……。もうちょっとがんばってみようかな」

 揺れ動く父の心。よっぽど働きたくないんだな。

「無理しなくていいよ。ほら、また今度忙しい時にお願いするから。その時はお願いね」

 いたわる様に私は言う。我ながらなかなかの演技だ。

「そう? じゃあ僕、少し休憩させてもらおうかな。ディナータイムに備えて」

 嬉しそうに父が言う。ああ、夜も働いてくれるんだ、嬉しい。父を上手く操縦できている。しかし、何で私がこんなに気を使わなければならないんだろう。いや、この努力の成果はきっと自分に返ってくる。そう信じてがんばろう。わざとらしく「疲れた疲れた」などと言う父の肩を、ケナゲに叩いてあげながら私は心に誓うのであった。


 月曜の夜なのにお客さんがほとんど来なかった。こんな事は滅多に無い。でも時々、こういうポケットの底のような日があるのだ。たまたまみんなコーヒーを飲みたいと思わなかった夜。そのおかげで私達はゆっくりと時間をすごす事が出来る。カウンターで父と祖父が、なにやら穏やかに会話している。店内には常連さんのおばあさんがひとりだけ。頭をフラフラさせて、眠ってしまっているようだ。あと少ししたら起こしに行こう。

「怒涛の三日間だったわね。なんとか乗り切れたけど」

 姉がコーヒーを二つ持って私の側にやって来た。姉が目で窓際の席を促し、私達は座った。

「父さんが働いたよね。それが一番の収穫じゃない?」

 私は言った。

「これが続けばね。これからも上手にプレッシャーかけていきましょう。そういう事はあんたの方が上手いんだからよろしく頼むわよ」

 姉が笑って言った。穏やかな姉の表情。私たちはなんともいえない満足感に包まれている。

「たぶんだけど。上手く行くような気がする。真理子と父さんの組み合わせは更なるサプライズを生むような予感がします。後は、兄さんと真理子のモジモジ感がなくなればね。そうすれば私達も、手伝うのにやぶさかではないでしょう?」

 私は言った。

「やぶさか? また変な言葉使って……。姉の私が理系過ぎて、あなた文系の自分を意識しすぎてない? バランスとしては面白いと思うけど、なるべく自然にしなさいよ。佐奈は悩みとかを自分の中に溜め込むタイプなんだから。まあ、それも文系らしいけどさ」

 姉が複雑な事を言い、私はほとんど意味が分からなかった。でも、いたわってくれている気持ちは伝わった。

「今頃おみやげの袋を抱えて車の中かな? みんな。楽しすぎて疲れて、たぶん片山さんが苦笑してる」

 私は言った。

「そうね。でも健ちゃんは起きてるでしょうよ、性格上。果たして健一君はやるべき事をやったかな」

 姉が片方の眉毛を吊り上げて思案顔で言った。

「何よ、やるべき事って」

 私は訊いた。

「あれ? 言ってなかったっけ? ほら健ちゃんと真理子、同じ部屋にしたヤツ」

「うそ! 聞いてない聞いてない! だって五人でしょう? 兄さんとばあちゃんで一部屋、あとの三人でもう一部屋じゃないの?」

 私は驚いて言った。

「馬鹿なことを言いなさんな。二人は婚約してるのよ。当然同室よ。スウィートルームよ。私がそう計らったわけだけど、じいちゃんの意向もあるのよ。当然ばあちゃんも了承済み。周りが推し進めてあげないとダメなのよ。あのドン臭い二人の為には」 

 姉がニヤニヤ笑って言った。私は冷静な風を装いたかったが、急に顔が熱くなってきてしまった。

「そのつまり……初夜的な?」

「そう、初夜的な」

 姉が噴出して笑った。しかし私は胸のドキドキが止まらない。もちろん私がドキドキした所で何にもならないのだが。

「兄さんと真理子が……。でもだって結婚する人達だもんね? 別におかしくないよね? むしろ当たり前だよね?」

 自分でも慌て過ぎだと思うが、姉に確かめるように訊いてしまう。

「何も無くてもそれはそれ。一緒の部屋で過ごすだけでも、あの二人には意味があるでしょう。これからもプレッシャーかけて行くわよ。そこは私に任せなさい」

 姉が自信満々で言った。

「あの……姉さんはそういう経験あるの?」

「あんたね。私は女子大生よ? しかもこの美貌。メチャクチャもてるわけよ。だからまあ……分かるでしょ?」

「だって……お泊まりとかほとんどないじゃない」

「あんた、別に夜にヤる必要はないのよ。生理学的に言えば朝が一番いいのよ。って何言わせんのよ!」

 姉がガハハと笑った。

「ヤメテヤメテ。私はまだいい。当分いらない!」

 さらに顔が熱くなる。鼻血が出そう。

「あんたはねぇ……まあいいか。真理子の問題を片付けたら、次は佐奈の面倒を見てあげるわ。佐奈は一途なタイプだから、真理子以上に心配だなあ。男じゃなくて女に走ったりして。危ないわよあんた」

 姉が調子に乗って言いたい放題だ。

「姉さん怒るよ!」

 私がそう言った時に丁度、店のドアが開く音がした。

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