第16話
真理子は一日私たちの家で過ごして、だいぶ気持ちが落ち着いたようだった。こういう時の姉の機転はさすがだと思う。真理子の情緒をコントロールする上で、今後も姉に頼る事が出来そうだ。
まだ八月の中旬で夏休みの真っ只中。真理子は相変わらず毎日ウチの喫茶店に通勤してくる。長旅の疲れも見せない。体も少しは丈夫になったのだろうか。食生活を含め、けっこう過酷な旅だったと思うが。我々兄姉妹も体調が良い。
と思ったら兄が熱を出した。
「日本に帰ってきて気が緩んだのよ」
私は兄の枕元で言った。
「そうみたいだね。……何だか、心に穴が開いてるみたいな感じ」
天井を見詰めて、神妙な顔をして兄が言った。熱がけっこう高い。
兄の看病をしなければならないのだが、私はあいにく柔道部の合宿の日程が迫っている。喫茶店の方は祖父を中心に、インド旅行中から引き続き両親が無理矢理働かされている。不平は言うものの、父と母は意外と楽しそうにしている。普段からやればいいのに……。
姉は大学が忙しい。見た目に反して姉は理系で、夏休みも実験やらテストやらたくさんあるらしい。姉が理系だと言うと初めはみんな驚く。私も信じられないが姉は実はすごく頭がいい。頭が良過ぎて、一周回って馬鹿になっている感じがある。
兄を看病する人間がいない。となると、これは絶好の機会だ。
「真理子、兄さんの看病をお願い出来る? みんな他の事で忙しいみたいだから」
私は言った。
「あ、はい! もちろんです」
表情を引き締めて真理子が言った。握り締めた両コブシが震えている。
「そんなに力まないで。時々様子を見るだけでいいから。たぶん二、三日で治るでしょう。お願いね」
「ワカリました!」
鼻息荒く真理子が言った。まあいいか。真理子もやりがいがあるだろう。
柔道部の合宿は五日間。旅行のせいで体がなまってるかと思いきや、私はかなり調子がよかった。気合の入り方が違う。インドでの過酷な生活が、肉体というよりも精神に大きく影響している。インドで修行したわけじゃないので、宗教的な意味はもちろん無い。しかしこの平和な日本で、何不自由なくスポーツに汗を流せる喜び。なんてありがたい事か。そう思うたび、動きにいちいち気合が入った。
激しい練習をしている最中に、ふとブッダガヤーの田舎の風景が頭をよぎる。するとなぜか心の底から力が湧いてくるようだった。体は苦しいのにそれを喜ぶような感覚がある。「あの座禅に比べれば」と思うと笑えてくる。激しく動いている体を、少し遠くから見守る自分がいるような不思議な感じ。これはインドパワーだろうか。この感覚、長続きするといいのだけれど。
充実の合宿を終えて家に戻ると、店のカウンターに兄が出ていた。風邪から復活したみたいだ。
「もう大丈夫なの?」
カウンターの椅子に座りながら私は訊いた。
「おかげさまで全快しました」
「あれ真理子は? 今日は来てないの? 珍しいね」
店内を見回して私は言った。
「それが、僕の風邪がうつってしまったのか、今度は真理子さんがダウンしちゃったんだよ。それで今はおうちで静養中なんだけど」
困った顔で兄が言った。なんと。どれだけ気合を入れて看病したと言うのだろう。やる時はやり過ぎる真理子だ。分かってはいたが、私の予想以上にがんばってしまったのだろう。真理子のお見舞いをするべく、合宿から帰ってきたその足で私は桐原家に向かった。
「好きな人にうつせば、風邪は治るんですって」
最初のセリフがこれだ。さすがは真理子。
「……そうだね」
目をキラキラさせている真理子を目の前にして私はそう言うしかなかった。類子によれば熱がかなり出たらしい。そして突然、気絶するように眠りにつくので、家族は気が気でないらしい。しかし真理子は元気だった。精神力の人なのだ。
「好きな人にうつせば……。治る……」
うわごとのように真理子がつぶやく。痛々しい。いや、これは美しいと言ってしまいたい。熱で上気した顔に潤んだ瞳。恋の炎を真っ赤に燃やす美少女がここにいる。
「兄さんはね、真理子のおかげで良くなったんだから。今度は真理子が回復しないと。心配してたよ、すごく」
私はわざと大げさな感じに言った。
「健一さんがわたしの? 心配を?」
熱で体は相当苦しいのだろう。枕に後頭部を沈めてハァハァ言いながら、真理子が満面の笑みで私に訊いた。
「真理子が治らないと兄さんも悲しむわ。だから今はゆっくり休むのよ? 興奮するのは、また治ってからにしなさいね」
今度は優しく、私は真理子の額に手を置いて言った。我ながら演技しすぎだと思うが、真理子を相手にする場合これでもやりすぎにはならない。
「風邪を……。治します……」
力尽きるように言って、真理子が目を閉じた。同時に、私とつないでいた手から急に力が抜ける。気絶したのかと思って私は慌ててしまった。落ち着いて真理子の顔をよく見たら静かに寝息を立てていた。……さっきまでハァハァ言ってたのに。スイッチの切り替えが大胆すぎる。真理子の手を布団の下にいれて、そっと私は部屋を出た。
「二日以内に治ると思う」
心配そうにしている類子の前で私は断言した。
「そうでしょうか? 原因が良く分からないんですって。精神的な要因かもしれないとかかりつけのお医者様がおっしゃっていました」
類子が思案顔で言った。精神的な要因。かなりいいセン行ってるかも。
「真理子の熱が下がったらね、兄を見舞いによこすから。そしたら完璧でしょ」
私は言った。
「まあ! それじゃあやっぱり? お姉さまは恋を?」
類子が嬉しそうにして言った。
「好きな人にうつしたら治るって、類子が吹き込んだんでしょう? 興奮しちゃって熱が下がらないのよ。あなた、分かっててやったでしょう」
私は類子を睨みつけて言った。
「あの……いえ……ほら、お姉さまが健一さんのお話ばかりするものですから。、元気付けようと思って……」
あたふたして類子が言い訳する。
「まあいいよ。そういう事だから類子もよろしくね。細心の注意が必要だよ? 実際いきなりコレだからね。ホント不安だよなあ」
私は言った。
「気をつけます。私もガンバリます」
こちらも目をキラキラさせて類子が良いお返事をした。こいつもこいつで心配だ。しかし美しい姉妹だこと。ワクワクしている感じの類子の表情が素晴らしくかわいらしい。これらは悪魔的な魅力とでも言うべきだろうか。
悪魔的。美少女。恋の炎。理系の姉と対称的に私は文系だ。頭の中で言葉をこねくり回して遊ぶ。ヤケクソ気味に。不安だ。
お見舞いから二日目の夜に類子から電話があった。真理子の熱が下がったという。真理子は明日にも喫茶店に出勤しようという勢いだったらしいが、ドクターストップがかかったらしい。当然だと思う。私がお見舞いに行ったとき、傍目にも相当辛そうに見えた。真理子は仮病を使うような姑息なマネはしない。つまり気力だ。気力だけで風邪を吹き飛ばしたのだ。
弱かった体がいきなり丈夫になるという事は無いと思う。今回、真理子が物凄い精神力を使って風邪を治したとして、そのしわ寄せがどこかに来るのではないか。それが私は心配だ。もし真理子が、この恋に破れたとしたら死にかねない。自殺とかではなくて、単なる気落ちが真理子の場合は致命傷になりうる。
約束通り兄を桐原家へ派遣する事にしよう。真理子が待ちわびているのは間違いない。行かなかったら、またベッドに逆戻りするかもしれない。私は自分の部屋のドアを開け、気を引き締めて階段を降りる。
「真理子が持ち直したって。だいぶ熱が出たらしいけど気力で治しちゃったみたい。もう少ししたらまた出勤してくるってよ」
私は兄に向かって言った。喫茶店はもう閉店している。兄は店のカウンターの中でお皿を拭いていた。
「それはよかった。気力で治したっていうのは、ホント真理子さんらしいよね」
兄が笑った。「真理子らしさ」という言葉を兄が使った。そこは理解しているのだな……。
「この前は私がお見舞いに行ったけど、今度は兄さんが行ってあげたら? 真理子きっと喜ぶよ。ほら、気力の人だから」
もの凄く遠くから慎重に投げる私のボール。兄はまだキャッチできないだろう。
「行きたいけど……店があるからなあ」
兄が首をかしげて言った。
「私、あした部活が午前中で終わるから店を手伝うよ。行ってあげてよ。真理子、兄さんの看病をがんばってくれたじゃない」
妙に言葉に力が入る。我ながらワザとらしい。しかし、兄の重い腰を上げさせる為には必要だ。
「そうだね。佐奈の言う通りだな。じゃあ明日の午後ちょっと店を抜けるよ。お願いできる?」
「任せて。父さんと母さんにもバリバリ働いてもらうから」
私は言った。
「そういえば父さんがキャンプに行きたいとか言ってたな……」
兄が笑って言った。大丈夫、と私は答える。そろそろお盆なので客足も少ないはず。基本的に祖父と私ががんばれば問題は無いだろう。両親はおまけと考えて置けばよい。
「それより兄さん、お見舞いに真理子に何か持っていくの?」
「ああそうか。さすが佐奈。じゃあ花を買っていこうかな。まてよ、病人に花はダメだったっけ? お菓子にしようかな」
兄が考え込む。お菓子じゃ絵にならない。お菓子じゃ盛り上がらない。
「真理子に似合う花って、どんなだと思う?」
私は訊いてみた。
「僕は花の名前を知らないからなあ。そうだな、バラだと美しさがカブってしまうから、あえてヒマワリとかどうだろう。明るくて、優しい真理子さんに合わせて」
兄が冗談めかして言った。
「いいね! いいよ! 今のセリフ、そのまま真理子に言ってあげて!」
予想以上の兄の言葉に、私は興奮して大声を出してしまった。
「え? 今のを? 無理だよそんな……」
私の興奮に気おされ兄が困った顔をしている。しまった。私が盛り上がってどうする。ゆっくりと慎重に行かなければならないのだった。
「とにかく兄さん、お花にしようよ。きっと真理子喜ぶよ」
切れそうな糸をつなぎ止めるべく、冷静を装って私は言った。
「うん、そうするよ」
エプロンを外しながら、少し恥かしそうな表情で兄が答えた。ハァ良かった。危ない所だった。疲れた。私は疲れた。
次の日。午後二時半。ランチタイムが終わってお客さんも少なくなった。兄はカウンターの中でまだ忙しく働いている。
「兄さんもういいでしょ。そろそろ行きなよ」
私はもどかしい気持ちを抑えて、努めて普通に言った。
「……じゃあ悪いけど後を頼むよ」
そう言って兄が自分の部屋に引き上げて行った。やれやれ。
兄が家を出発し、私はここからまた一仕事ある。兄と真理子の関係について、常連さんにも協力を仰ごうと私は思っている。要するに根回しだ。陰ながら応援してくださるように、一人一人に丁寧に頼んで行く。
ウチの店の常連さんは平均年齢が七十歳を越えている。最高齢は九十二歳。ウチの裏に住んでいる北島さんのおばあさんだ。祖父よりもこの店を知っている。自宅にいるよりも、店にいる時間の方が長いかもしれない。普段は店の奥で化石のようになって眠っている。しかしこの人が、真理子を特に気に入ってくれているのだ。
「……北島さん。北島さんのおばあちゃん?」
私は小声で、だけど直接耳に流し込むように言った。
「ハイハイ。……あら佐奈ちゃん。どうしたろう」
北島さんが、しわくちゃの笑顔を見せてくれた。
「あのね……相談があるの。実はね、真理子に好きな人が出来たみたいなんだけど」
北島さんの耳元で、そっと私はつぶやく。その途端、半分眠っていた北島さんが首をくるっと回転させて私の顔を見た。超反応。びっくりして私は後ずさってしまった。
「だあれ? 真理子さんの好きな人?」
思いのほかハキハキとしゃべる北島さん。ほとんどボケてたような気がしていたのだが。
「それがね、ウチの健ちゃんなんですよ」
「あれマア」
「でも二人とも奥手でしょう? だから、みんなで密かに、応援したいと思っています」
私はゆっくりと、丁寧に言葉を伝えた。
「あれマア」
……分かってるのかな。
「あくまでも秘密にですよ? 二人とも、恥かしがりやですからね? 北島さん、分かった?」
「それはよく分かる」
早口で即答。北島さん、反応の切り替えが凄い。この人もスイッチが付いてるかのようだ。興味があることにしか意識が働かないようになってるのか。さすが大御所。
とにかくこれで常連さんのほとんどに根回しすることが出来た。みんな目の色を変えて喜んでくれた。こう言っちゃ何だけど、みんな毎日ヒマで退屈しているのだ。真理子が出勤するようになって、寿命が延びたと言う人もいる。そこにこの恋愛イベント。喜ばないわけが無い。
常連さんを抱きこむ事には危険が伴うかもしれない。しかし、行動を起こさないと何も変わらない気がする。だから私は決断したのだ。
「あくまでも、そっと見守る感じでお願いします。デリケートな二人ですから」
アクシデントを恐れ、私はみんなに繰り返しお願いした。しかしそれは杞憂だったかもしれない。相手は人生の大先輩方なのだ。色恋沙汰も修羅場も、たくさんやりすごして歳を重ねてきた人達だ。みんな深く頷いて、分かった、任せておいてと真剣に言ってくれた。私はジーンとしてちょっと泣けそうになってしまった。
しかし私はふとむなしさを感じる。まだ何も始まっていない。何も成し遂げていない。そして、私はなぜこんなに世話を焼いているのだろう。自分も恋愛した事ないのに……。ハッ。考えすぎるのはよそう。とにかく目の前の山に登ろう。
午後五時半。兄がお見舞いから帰ってきた。店に戻るなりエプロンを着けて、兄はすぐさま仕事に取り掛かろうとしている。
「兄さんおかえり。真理子どうだった?」
私は訊いた。
「うん。もうだいぶ良いみたい。あした店に顔を出してくれるって」
機嫌のよさそうな顔で兄が言う。それ以上表情が読めない。まあなんにも無かったんだろうけど。ひまわりの花はどのように手渡され、真理子はなんと言ったのか。突っ込んで訊きたい気持ちを私は抑える。訊くにしても後にしよう。あせってはいけない。
午後七時を過ぎて店が混んできた。夕食を取りに来る常連さん達は計算内だったが、予想以上に来客がある。お盆だと思って油断していた。兄が早めに帰って来て仕込みを手伝ってくれなかったらアブなかった。
その後も私はきりきり舞いで働いて、八時半頃ようやく一息つけた。足が棒のようだ。呆然と立ち尽くしてしまう。
「おつかれさま。ちょっと上で休んでなよ」
いつの間にか背後にいた兄が、私に言ってくれた。
「何言ってんの。今日はずいぶんお客さん多いじゃない。じいちゃんだって休憩取って無いのに」
そう言ってる横からまたお客さんが入ってくる。何なんだ今日は。商売繁盛で悪い事はないけど。
「大丈夫。佐奈のおかげでだいぶ早く回ってるよ。ラストの北島さんに夕食を出すタイミングが目標八時だからね。この客入りで目標達成できたのは佐奈のおかげだよ。実は昨日も混んだんだけど、目標から十五分ぐらい遅れてしまった」
兄が苦笑した。私は店内を見渡す。夕飯を食べてる客と、コーヒーだけ飲んでる客が半分ずつぐらい。いつもはこんなにコーヒー客はいないはず。何故だ?
「混んでるよねえ」
私は言った。
「インドから帰国した真理子さんを一目見るのがブームらしいよ。商店街の方々の」
「あーそれでか。このオヤジ連中は」
商店街のオヤジたちが、自分の家で夕食を済ませてからウチに来ているのだ。食後のコーヒーなんて似合わない連中だ。言い過ぎか。
「風邪で真理子さんが欠勤中でしょう? 目的を果たせずに、通いつめてる人がいるんだよ。ブッダガヤー帰りと言う事をなぜかみんな知ってるみたいで。真理子さんの人気に箔がついて、ご利益があるみたいな事になってるよ」
兄が忙しく手を動かしながら言った。真理子信仰……。確かにそういう気配のある子ではあるが。
「宣伝したのはたぶん父さんでしょうよ。そういう才能だけはあるから。もっとも、宣伝だけして逃げたわけですけど」
私はため息を付いた。父はうわさ好き。人を扇動する事も上手い。変なカリスマ性を持っている。しかし責任感は全く無い。責任感の無いカリスマって最悪だ。父は私が店を手伝うという事を聞いて昨夜、母と一緒に山へキャンプしに出かけてしまった。店が混むと分かってて遊びに行くとは無責任にもほどがある。
「今頃きっと温泉で鼻歌とか歌ってそうだよね。キャンプ場に温泉が付いてるらしいよ」
兄がなぜか嬉しそうな顔をして言う。兄がそうやって甘やかすから、父が自由行動してしまうのだ。しかしそれが兄の幸せなら、私は何も言うまい。
「サナちゃーん! おかわり頂戴!」
商店街のジジイに呼ばれる私。ハーイ、とにこやかに答え、コーヒーポットを抱える。両親は今ごろ温泉かよ。しかも商店街のジジイ達、真理子が目当てなら今日はもういいだろ。いい加減帰りなよ!
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