第17話

 店の仕事が終わって私はあまりに疲れていた。それで、兄に真理子の見舞いの詳細を訊くのを忘れて寝てしまった。私としたことが不覚を取った。

 日々柔道部で鍛えているので体力にはそれなりの自信がある。しかし、ウェイトレスの仕事はかなりハードだ。接客業だから体力じゃない部分も消耗する。考えてみると真理子は、この仕事を夏休みに入ってから毎日無償でやっていたわけだ。心からの笑顔と共に。頭が下がる。

 ウェイトレスの仕事で恐らく真理子は体が鍛えられたのだろう。それがインドでの活躍や、風邪からの早期復帰という事に繋がっているのかもしれない。それに加えて恋の力だ。「精神力及び気力の人」真理子においては、鬼に金棒という状態になっているかもしれない。

 朝、目が覚めたらなんだか肩や腰がだるい。昨日の疲れかと思ったけれど、それだけじゃないような気がする。

 階下に下りていくと兄がもう店の仕込をしていた。

「おはよう……」

 昨日のお見舞いの内容を兄に訊きたいが、今更訊くのもなんだかワザとらしい。今回はあきらめるか……。

「ちょっと顔が赤いよ。佐奈、熱があるんじゃない?」

 心配そうな顔で兄が言った。私は自分の額に手をあてた。確かに私は熱がある。兄に言われてようやく気が付いた。風邪を引いたか。

「僕のか真理子さんの風邪がうつったかな。まいったね。インドの疲れが順番にみんなに出てるのかな」

 兄が少し笑って言った。そして部屋で寝ているようにと私に言った。朝ごはんも部屋に持って来てくれるという。いつも通り優しい兄。

「ゴメンね。今日も店手伝う予定だったのに」

 私は言った。

「大丈夫だよ。ほら今日は真理子さんも来てくれるはずだし。佐奈、気疲れしてない?」

 兄が言って、私はドキッとしてしまった。

「ナニナニ? 気疲れ? どうしてそう思ったの?」

 平静を装って私は言った。

「うーん、なんとなく。佐奈はいろいろ考えすぎるところがあるからさ。みんなの心配をして、そういう疲れとかが出たような気がして。なんとなくだよ」

 自分でも不思議そうにして兄が言った。鈍い兄の鋭い指摘。よっぽど私が疲れた顔をしていたのだろうか。気をつけなくては。

 部屋に運んでもらった朝ごはんを食べた後、私は風邪薬を飲んで眠りに付いた。


「……佐奈ちゃん。佐奈ちゃん? 起きてる?」

 呼ぶ声がして目が覚めた。枕元に真理子がいる。エプロンを着けて。復帰初日からお仕事してくれてるのか。

「来てくれたの。悪いね」

 私はまだ熱が下がっていない。ぼんやりした感じで話してしまう。時計を見たら午後二時。けっこう寝たのにな……。

「わたしの風邪、うつしてしまったかしら。ごめんなさい」

 済まなそうな顔をして真理子が言った。

「いや、昨日久しぶりに店で真面目に働いたせいだよ。私、普段は中途半端にやってるから。珍しく気合を入れたら熱が出たみたい」

 私は笑った。

「何か食べる? 健一さんに訊いて来るように言われたの」

 優しい笑顔で真理子が言う。マリア様ならぬマリコ様。自分の体が弱っているからそう思うのだろうけど、真理子の笑顔に救われる感じがする。本当にご利益がありそう。

「デザートの、プリンが残ってたら食べたいかな」

 ちょっと甘えた感じで言ってしまった。

「待っててね。すぐに持ってくるから」

 そう言って真理子が部屋を出て行った。なんだろうこの包容力は。まるでお母さんみたい。と言っても私の母の場合、一般的な「お母さん」のイメージは当てはまらない。お嬢様育ちで苦労を知らない母。お母さんというより、仲のいい友達という感じだ。お嬢様なのは真理子も同じはずだが、この優しい感じ。なぜか懐かしいような気持ちになる。

 真理子がプリンを持って部屋に戻ってきた。私がお皿を受け取ろうとすると、真理子が手でとどめた。

「お給仕します」

 そう言って、真理子がプリンをスプーンですくう。そして私の口元へ。自分で食べられるよ、と私は言うべきだったが、目の前のプリンが自然に口に入ってしまった。差し出されたスプーンに迫力があった。

「また後で来るからね。お水はここよ。ゆっくり休んでね」

 真理子に言われて私は素直に頷く。布団を整えて、真理子が笑顔を残して部屋を出て行った。……なんだこれは。よく分からないけどすごいぞ。しかし頭が熱くて考える余裕が無い。私はあきらめて目をつむった。


 そのあと私は熱がなかなか下がらず、まる二日寝込んでしまった。その間も真理子が、かいがいしく私の世話をしてくれた。店の手伝いをしながらだから相当大変だったと思う。真理子も病み上がりだから、私は遠慮しなければならなかった。しかし「お世話します」という真理子の迫力に押されて、すべてお任せてしてしまった。

 三日目のお昼、目が覚めたら完全に風邪が治っていた。すがすがしい。ベッドの上に立ち上がり、体中の骨をバキバキ鳴らした。部屋をノックする音がした。どうぞ、と言うと真理子が入ってきた。

「佐奈ちゃんもういいの? 昨日まだ熱があったのに」

 心配そうな顔で真理子が言った。

「バッチリ治ったよ。真理子のおかげ。ありがとうね」

「佐奈ちゃんのお世話、楽しかったのに。ちょっと残念」

 冗談よ、と付け加えて笑う真理子。この笑顔に癒されたのだと思う。

「店の方、混んで大変だったでしょう? 真理子の人気が大変なことになってるみたいね」

 私は言った。

「ほら見て。お父様にいただいたの」

 真理子がエプロンのポケットから赤いハンカチのようなものを取り出した。よく見たらタスキだ。赤地に白で「当店の看板娘」と書いてある。どこで買ってきたんだ、こんなもの……。

「と言う事は父さん帰ってきたのね? 温泉キャンプから」

 タスキを見て私は薄ら笑いしながら言った。

「お母様も。明日からバリの方に行かれるんですって。仲の良いご夫婦、素敵です」

 うっとりした顔で真理子が言った。

「え! また旅行行くの? 店が混んでるっていうのに」

 私は驚いて言った。放浪するのもいいかげんにして欲しい。ちなみに両親の旅の資金は母の実家から出ている。地主の家の一人っ子である母は祖父母に溺愛されている。それで両親の遊び放題が可能になっているわけだ。

「お幸せそうで羨ましいわ。佐奈ちゃんのお母様、素敵な方よね。もちろんお父様も」

 いつの間にか真理子は私の両親とも交流をしていたようだ。お嬢様同士、真理子と母は相性がいいだろう。父も可愛い子には目が無い。真理子を気に入らないはずがない。

「それで真理子。肝心の健一さんとはどうなってるのよ」

 声を潜めて私は言った。

「え? そんなの知りません」

 真理子が顔を赤くさせて後ろを向いてしまった。耳まで真っ赤だ。恥じらう乙女の美しさよ。こんな姿を見せられたら私はこれ以上何も言えない。訊いてるこっちまで恥かしくなる。青春だ。ザッツ青春。

 風邪が治ったその日、私はまた店を手伝うことにした。部活も大事だが、一度真理子の働いている姿を良く観察してみたいと思ったのだ。根回しをした常連さん達は上手く機能しているのか。真理子と兄の関係に変化はあったのか。コーヒーを運びながら私は、神経を集中して調査してみた。


 平日の午後は喫茶店の稼ぎ時だ。だいぶ店がにぎわっている。ウチはお年寄りの常連さんがメインの店なので、土日の方が比較的空いている。みんな平日は、喫茶店に「出勤」してくるわけだ。待ち合わせて碁会所へ行ったり、銭湯へ行ったりと集いの場になっている。

 大儲けという風にはならないが、わりと繁盛していると思う。兄と祖父の二人で切り盛りしているわけだし、これ以上人気が出ても対応しきれない。しかし兄は向上心旺盛な人なので努力を惜しまない。コーヒーの味はある程度極められている。祖父がすでに店の味というものを確立している。

 兄は最近、料理に特に力を入れているようだ。元々才能はある人で、料理のメニューを充実させるべく試行錯誤している。

 試食は私たち姉妹が中心になって行う。試食といっても、ただ食べて文句を言うだけの簡単な仕事だ。まあ文句が出ることはほとんど無くて、出された物はほとんどおいしい。しかし「おいしい」という感想だけでは兄は満足しない。私たち姉妹が目の色を変えて喜んだ時、まれにメニューに新しいものが加えられる。よって料理のメニューは相当吟味されていると思われる。

 兄の努力の甲斐あってか、口コミで評判が伝わり、普段少ない土日の客がじわじわと増えてきている。喫茶店を巡ることを趣味にしているお客さんが、インターネットでウチの店を紹介してくれたらしい。お客さんが増えるのはいいことだが、予想以上の客入りで対応が難しくなっていた。私や姉が手伝う回数を増やす事はもちろん、役に立たない遊び人の両親を、本気で説得しないといけないかもしれない。そんな状況が近づいていた。

 そこに現れたのが真理子だ。真理子自体が人気者なので、忙しさに拍車がかかっている面も確かにある。でもそれ以上に真理子はがんばって働いてくれている。お金持ちのお嬢様なんだから当然バイトする必要なんて無い。純粋な趣味としてウェイトレスをやっているわけだ。これが絶妙のバランスになっている。

 興味の湧かない事には真理子は見向きもしない。その代わり、好きな事は徹底的にのめりこんでやる。趣味だからと言って手を抜くようなことはしない。全身全霊を持って取り組む。今まではそれが、悪い流れを生む事が多かった。真理子は自分の体力も省みず、やりたい事を強引にやってしまう。その結果、突然倒れたりしてみんなをハラハラさせた。ワガママ真理子と呼ばれていたゆえんだ。

 それがどうだ。今の真理子はウェイトレスの鏡のようだ。いや、ウェイトレスの女神と言ってしまいたい。

お年寄りと相性が良い。笑顔が素敵。お金持ちで育ちがいいせいか、接客に風格と余裕がある。小さい子にも人気。なにしろとびきりの美人だ。

 みんなの熱い視線が真理子に注がれている。ウェイトレスの女神は今、恋をしてその輝きを増している。真理子から何かオーラのような物が立ち上っているように感じる。魅力的すぎて少し、喫茶店の静かな調和をみだしている。常連のお年寄りの方々が、真理子の熱に反応して、無駄に元気に振舞ってしまっているようにも見える。

 そんな真理子を兄も時々、ボーっと見ている時がある。近寄れば誰でも見てしまうだろう。それだけ今の真理子は輝いている。しかし、兄はいい加減気が付かなければならない。真理子のオーラを発生させているのは自分自身だという事を。

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