第11話

 コルカタに着いて四日目。ようやくブッダガヤーに向かう。奇跡的に? 真理子はアイスでお腹を壊さなかった。ホテルにタクシーを呼んでもらって、電車の駅まで移動する。

 駅に到着するとタクシーの運転手が、相変わらずしつこくチップの要求をしてくる。私も真理子に習ってお金を持っていませんと言うことにした。運転手のインド人にエーっと言う顔をされる。その後も、運転手が切ない顔をして迫ってくるのだけれど、お金を持ってないの一点張りで押し通した。安全を考えて実際にお金は兄と片山さんしか持ってないから嘘では無い。支払いの時に兄は恐い人の演技をしているので、インド人も強く言えないようだった。それで運転手は女性陣に迫ってくるのだが私達も対処法を会得し始めた。嬉しいような、恥かしいような。

 コルカタの街には大きな駅が二つある。ただしコルカタ駅という名称は存在しない。日本で言ったら、東京駅よりも新宿駅とか上野駅のほうが大きいみたいな感覚になるだろうか。私たちはハウラー駅という所から出発する。終着駅なので、ホームが何列もずらっと並んでいる。ヨーロッパにもよくあるスタイルだ。二十番ホーム以上あるみたいで、駅からホームがはみ出している。乗る人と降りる人、物を売る人、運ぶ人でごった返している。大変なものだなーと思ったけれど、日本の主要駅の方が複雑さにおいては上かもしれない。日本だと地上と地下にホームが立体で入り組んでいる上に、主要駅でも電車が通過したりするわけで、よくも統制が取れているものだと思う。

 一方コルカタのハウラー駅の統制が取れているかと言ったら、たぶん統制は取れていない。どうやら「かなり」統制が取れていない。わたし達は八番ホームから、午前八時の列車に乗るはずだった。インドの列車は予定通りに動かないことが基本らしいので、念のために私達は、午前七時にハウラー駅に到着した。電光掲示板の前に荷物をまとめて、兄が偵察に行った結果。

「やっぱり電車、二時間遅れるそうです」

 兄が笑ってみんなに言った。やっぱりか……。特急が二時間遅れるってすごいよなあ。早起きした意味が無くなった。

「それで、ホームは変わらないんでしょうね」

 念のため私は兄に訊いた。

「そこに気が付くとはさすが佐奈。ホームも変わるらしいよ」

 兄が言った。

「『らしい』ってなによ」

「うん。到着の十五分前に決まるんだって」

 笑いをこらえながら兄が言った。今改めて気が付いたけど、兄がこういう時に笑うクセは祖母譲りだと思う。心が広いとも言えるけれど、見ててわりと腹が立つ。

「ここで二時間待つの?」

 姉がイライラした声で言った。そうそう。普通は怒るよ。

「一応、一等車の人用に待合室があるらしいよ。そこに行こうか」

 兄が気軽な感じで答えた。

 なんだか電車の遅れを前提としたような施設だ。重い荷物をずるずると引きずって、みんなで大移動する。病み上がりの片山さんが、トランクを抱えてフゥフゥ言っている。大丈夫か。

 待合室は、椅子に座れると言うだけで特に豪華でもなく、と言うかかなり薄汚れていた。床に寝ている人もいる。もう腹を立ててもしょうがない。ガイドブックを見たら、列車が半日遅れた人の証言もあったので、二時間遅れで済んで良かったと考えたほうがいいのかもしれない。近くの席にインド人の家族連れがいて、そのお子様姉妹がとんでもなく可愛らしい。目が大きくてパッチリしてて、なんとも愛らしい。子供達と遊んでいたらあっという間に二時間経った。

 「ジャジャーン!」と昔のウィンドウズの起動音とそっくりの音がして、構内放送がある。英語とヒンディー語だと思うけれど私はヒアリングできない。駅の騒音の中、兄がずっと耳をそばだてていた。ようやく来たみたいです、と兄が言う。

「六番ホームかな? たぶん六番ホーム」

 兄が笑って言う。

 たぶんって……。不安だなあ。みんなでまたぞろぞろと移動する。六番ホームに着くと、なんとも古めかしい電車が止まっていた。ホームの遥か彼方まで一直線に車両が連なっている。これ、恐らく二十両以上あるぞ……。私たちが乗る一等車を探して、また延々とホームを歩く。そしてようやく乗り込む車両を見つけた。

 電車に乗るだけでもほんと苦労するなあ。乗客者名簿の紙が電車のお腹に張られていて、私の名前が英語とヒンディー語で書かれていた。ヒンディー語の私の名前。もちろん読めないけど、記念に携帯で写真を撮った。


 八時間も電車に乗るのは生まれて初めて。私達の乗った電車は夜行列車で、北インドを千四百キロ旅して、最終的には首都デリーまで行くのだという。このペースで行ったら……二十四時間ぐらいかかるのか。すごいな。でももし新幹線があったなら、たぶん五、六時間ぐらいで着いちゃうんだよな。もちろん飛行機ならあっという間だ。

 二段ベッドの上の段が折りたたまれて、ボックスシートになっている。みんなで向かい合って座った。車内販売の人が売り声を上げて、頻繁に通路を通り抜けていく。姉が飲み物を売っている人を呼び止めた。

「コーラとセブンアップか……。ビールは無いの?」

 姉の言葉を聞いて、売り子のインド人がそんなものあるわけ無いだろう、という呆れた顔をする。

「電車でビールが飲めないなんて……」

「ホテルの外だとお酒は簡単に手に入らないと思うよ。あまり飲む習慣が無いみたいだから」

 兄が苦笑して言った。

「姉さんたまには我慢しなよ。ずっと飲みっぱなしじゃない」

 私は言った。

「わたしもさっき駅でアイス買うのを我慢しました。だからお姉様も、ね?」

 真理子が微笑んで誇らしげに言った。まだアイスを狙ってたのか……。しかし我慢したのは偉い。みんなで偉い偉いと真理子を褒めまくる。褒められれば褒められるほど真理子は嬉しそうにする。そういう所がまた偉い。

「くそー。じゃあチャイ飲もう」

 そう言って姉はチャイ屋を止めた。チャイ屋がヤカンから小さな紙コップにチャイを注いでくれる。一杯五ルピー。約十円。

「これはしみじみとうまいですな……」

 片山さんが目をつむって言った。ショウガの効いた甘いミルクティー。ここの空気に合っている気がする。

「おいしいけど、これをうちの店で出しても売れないだろうなあ」

 味を確かめるように兄はゆっくりと飲んでいる。

「でもこのまえ、表参道の喫茶店でチャイ出してたよ。けっこう人気だって。四百円ぐらいだったかな?」

 姉が言った。

「それ姉さん飲んだの?」

「まさか。と言いたい所だけど、飲んじゃったのよ。試しに。量はこの倍ぐらい。味はほとんど同じかな」

 値段は四十倍か……。よく味わって飲もう。真理子がチャイを持った片手を、なぜかじっと見詰めている。

「あの、このチャイですけれど。お店のカレーと一緒に出したらどうでしょう。カレーも、インド風のカレーにして」

 真面目な表情で真理子が言った。

「……うん。うん。それはいいアイディアですね。真理子さん、それいいかもしれませんね」兄が頷きながら言った。「日本に帰ったらカレーの研究もして、チャイとのセットでメニューに加えてみようかな」

「わたしもお手伝いします!」

 真理子が目を輝かせる。二人とも妙にテンション高い。

「わたし、なんだかまたカレーが食べたくなってきました」

 真理子が笑った。

「いっぱい食べて研究しましょう!」

 こんなに盛り上がっている兄の姿、かつて私は見たことがあっただろうか。

 真理子と兄が暴走している。

 車内販売の人を兄がいちいち呼び止める。メニューは案の定カレーライスとカレーパン、そしてカレーピラフしかなかった。笑ってしまう。カレーパンの中にはなんと、丸ごと青い唐辛子が一本入っていた。興味本位で私も一口食べてみたが恐ろしく辛い。当たり前だ。カレー以外の選択肢が無いというよりかは、カレーの中にたくさんの選択肢があると考えたほうがいいような気がする。方向性が違うだけで、決して不味いという訳ではない。私も変に前向きになってきた。積極的に行かないと負けてしまう感じがある。

 一方真理子と兄は、ちょっと積極的すぎる。おとなりのボックスに押しかけて、インド人家族の昼食に参加していた。インド人家族はお弁当を用意して来ており、兄と真理子がおすそ分けを受けていた。ずうずうしい。二人ともこんなに積極的な人間ではなかったはず。言葉がほとんど通じてないのに、ワイワイ言いながらインド人家族と食事を楽しんでいた。

 昼食を食べ終わってちょうど正午。お腹がいっぱいになって眠くなる。ガヤーに到着するまで、まだ六時間もある。折りたたまれているベッドを引っ張り出して、女三人は眠りにつくことにした。申し訳ないけれど男性には荷物番をしてもらう。

 電車のゆれが心地よい。ベッドに横になって、窓から景色を眺める。ただひたすら黄色い野原がつづいている。チャイ屋がチャイチャイうるさい。電車がしょっちゅうプオーッと汽笛をあげる。やかましいのに、いつの間にか眠ってしまった。


 窓から差し込む光が赤くなっている。どうやらもう夕暮れ時のようだ。電車の中で目覚めると、少し不思議な感じがする。寝ている間も電車はずっと走り続けていたのだ。体を起こして腕時計を見ると午後四時になっていた。

「目が覚めた?」

 兄が下の段からこちらを見上げて言った。

「うん。気持ちよく寝てしまいました」

 私は大きく伸びをした。

 向かいのベッドで真理子がまだ寝息を立てている。下のベッドの姉もまだ目を覚ましていないようだ。片山さんは熱心にハードカバーの本を読んでいる。

 柱をつたってちょっとアクロバチックに下へ降りる。二段ベッドの上の段は、乗り降りの難易度がけっこう高い。

「これお年寄りには上るの無理だよね。あと、小さい子は寝返り打ったら落っこちちゃうよ」

 私は言った。

「たしか日本のだと、脇に手すりがついてたかな。上の段に昇る為の梯子もついてたはず」

 兄が思い出すように言った。

「昔は寝台列車で旅行したものですが」

 片山さんが本を閉じて言った。

「そういえば私、寝台に乗るの初めて」

「とても楽しいし、旅をしている感じが出るんですけどね」

 兄が残念そうに言う。電車好きなのだ。

 チャイ屋が来たので、止めて一杯もらう。寝覚めの一杯。窓の外を見ながら、少しずつ味わうように飲む。熱いチャイが体に染み渡っていく。

 電車が減速して窓の外の風景もゆっくりになる。ブレーキをキリキリいわせて電車が止まった。

「なんで止まったのかな」

 私は言った。

「うん。駅だよ」

 兄が答える。

「え。だってアナウンスは?」

「無いみたいなんだ。だからね、さっきから電車が止まるたびに、周りの人にここはどこですかって聞くことにしてるよ」

 兄が笑った。

 時間通りに走っていない上にアナウンス無しとは。さすが。

「ガヤーの駅ってすぐ分かるかな」

 私は少し心配になって来た。

「ちょっと恐いよね。乗り過ごしたらシャレにならないよ」

 そう言って兄はハハハと笑った。ほんとシャレにならないぞ。

 午後五時を過ぎたあたりで真理子と姉を起こす。真理子は寝覚めが悪くて、あやつり人形みたいにフラフラしている。一応予定では、ガヤーの駅に午後六時到着ということだけど、どうなるか分からない。兄と協力して電車が駅に着くたびに、周りのインド人に場所を訊いて確認した。駅には英語の看板もある。それを見逃さないようにする。

「どうやら次みたいだよ」

 兄が車掌さんに聞いてきてくれた。

「ほんとに大丈夫でしょうね?」

 私は疑い深く訊いた。

「たぶんね。たぶん大丈夫」

 兄が笑って言った。兄がインド人に見えてきた。もう誰も信用できない。

 午後五時三十分。ついにガヤー駅らしいところに到着した。外はもう夕暮れ時で薄暗く、英語の看板が見当たらない。乗客のインド人十人ぐらいに聞いて、みんなが口を揃えてガヤーだと言うので意を決して電車を降りた。発車のアナウンスも無く、電車は静かに動き出し、行ってしまった。

「ほらあそこ、ガヤーって書いてない?」

 寝ぼけまなこをこすりながら姉が指差して言った。ホームの隅っこ。極めて分かりにくい場所に黄色の小さい看板が。ほんと、英語でガヤーって書いてある! よかった……。電車を降りるだけで大冒険だよ……。やれやれだよ……。

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