第10話

 次の日の朝。目が覚めたら私はインドにいた。当たり前だ。

 朝ごはんもカレー。小さい金属の器に何種類ものカレーが入って出てくる。それにご飯かナン、チャパティ? を合わせて食べていく。ご飯はぼそぼそしておいしくないけど、焼きたてのナンは溶けたバターがトロリとかかっていて、いくらでも食べられる。こりゃ毎日カレーでもいけるかもしれないぞ。

「インドで食べ物が合わなくて、ダイエットできるかと密かに期待してたけど」

 私はナンを片手に姉を見た。

「無理だねー。ここまでおいしいとは思わなかったよ。むしろ食べすぎで腹壊しそう」

 姉が笑った。

「この白いカレーがすっぱくて辛くて。なんともいえないお味ですね」

 真理子も笑顔で食が進んでいる。

「みんなお腹壊してない? 朝からすごいなあ」

 兄は既に食事を終えてコーヒーに移行している。コーヒーもおいしそうだ。

「わたしは少し、調子が……」

 げ、片山さん、脂汗出てるよ。

「片山さん無理しないでください。部屋に戻って、安静にしたほうが」

 兄が慌てて言った。心配そうに片山さんの顔を覗き込んでいる。

「でもみんな食べてるもの同じだったのに、なんで片山さんだけ?」

 姉が、立ち上がろうとする片山さんに肩を貸しながら言った。

「昨晩うっかりして、生水で歯を磨いてしまいまして。その時に少量、水を飲んでしまったせいかもしれません……」

 歯磨きで腹痛になるとは。やっぱりここはインドだった。昨夜ミネラルウォーターで歯を磨いていて、なんだか馬鹿らしいと思っていたけれど正解だったと言うわけか。サバイバルだな。

 その後、念の為に片山さんは兄に連れられて病院へ行き、薬を貰って帰ってきた。そして夕方頃にはだいぶ持ち直した。細菌性じゃなくて良かったよと兄が言っていた。もっと酷いことになる可能性もあったらしい。私は再度ガイドブックの衛生に関するページを熟読し、いろいろと怖いことが書いてあるのを確認した。ほとんど運試しのような気がしてきた。

 大事を取って、ブッダガヤーへの出発は二日後に延期した。片山さんの調子も戻って来たし、一日延ばすだけで良かったのだけれど、電車の切符が取れなかったのだ。

「これでも運がいいほうだよ。ホテルの人の親切でなんとか都合をつけてもらったんだ」

 電車の切符を取るために兄は、長い間ホテルのパソコンの前で頭を抱えていた。インターネットで予約が取れるシステムがあるのだが、いろいろルートを変えてみても、近い日の切符はほぼ売り切れだったそうだ。途方にくれていた所、ホテルの人が声をかけてくれたのだと言う。

「キャンセル待ちも無理だったんだよ、データ上は。人づてだと切符が取れるところが、やっぱりインドだよなあ」

 兄が感心したように言った。でもそれじゃあ、インターネットの予約システムは何の為にあるのだろう……。

「ということは、ホテルの人に法外な料金を請求されたとか? ぼったくり?」

 私は訊いた。

「いやそれがね、ちょっと高いだけだったんだ。不思議だよね。良く出来てるよね」

 兄さん……。それは違う……。


 そういうわけで私達は、コルカタで二日多く過ごすことになった。だけど全然退屈しなかった。テレビの珍妙な番組が面白いし、ホテルのマネージャーの人に英語教室をしてもらったりと楽しい時間を過ごした。女三人でビクビクしながら近所に買い物にも行ってみた。

 ホテルのほんの近所を歩いただけなのにスゴい。混沌とした街並み。石造りのビルに植物がびっしりと絡み付いていて、それが廃墟かと思いきや、人がバッチリ住んでいる。歩道の石畳はボコボコに崩れていて、突然大きな穴がのぞいている。私たちは手をつないできゃあきゃあ言いながら道を歩いた。

 歩道で暮らしている家族がけっこういたりする。路上にかまどを作って、お母さんがご飯の準備をしたり子供の世話をしていたり。私達はちょっとおじゃましますよ、という感じで抜き足差し足で歩く。足の踏み場を見つけるのが難しい。

 売店で姉がコーラを買った。六百ミリのペットボトルで三十ルピー。約六十円。インドの物価にしたら高いかもしれない。

「暑いからコーラがうまいね!」

 姉は腰に手をあてて一気に飲み干した。姉の一気飲みを、すれ違ったインド人男性がが驚き、呆れた顔で眺めていた。恥ずかしいなあ。日本人女性の恥だ。姉がゲフッと盛大にゲップをした。もう……別にいいか……。

 真理子が小さい子供に服を引っ張られる。真理子がしゃがみこむと、子供がちいさな手を差し出した。物乞いの子だ。

「かわいい子」

 真理子が子供の手の上に飴玉を一つ乗せた。微笑ましい光景と思ったのもつかの間、他の子供たちがどこから湧き出したのか、真理子を取り囲んで修羅場になる。その状況で真理子は、飴玉の入った袋を手提げカバンから取り出すという暴挙に出た。子供たちの細い腕が四方八方から伸びてきてもみくちゃにされている。

「真理子行くよ!」

 私達は真理子を担ぐようにしてその場から立ち去った。いや、逃げ去ったという方が正しい。怖かったのでそのままホテルへ直行してしまった。

「いやーすごかったね。真理子大丈夫?」

 私は言った。まだ胸がドキドキしている。

「ハイ。今度は飴をたくさん用意します」

 げ。真理子がヤル気だ。姉と私はかなりビビっていたのに、真理子はニコニコしている。物怖じしないなあ。根性? では無いよな。危険を感じていないだけだろう。すごいなあ。見てて怖いよ。心配だよ。


 三日目には片山さんも完全復活して、みんなで映画を見に行き、時間が余ったので市内の大きなデパートにも寄ってみた。

 インド映画は思ったより洗練されていて、ハリウッド映画並みに作りも良かった。でも尺が長過ぎ。休憩を挟んで三時間もやっていた。ずっと歌って踊ってなので、後半はちょっときつかった。でも料金は百ルピーだったし、考えようによってはお得だ。デパートはずいぶんさびしい感じだったけれど、エアコンが効いている中で、ゆっくりと民芸品などを眺められてよかった。

「ほら、なんか天ぷらみたい? けっこうおいしいよ」

 姉がデパートの中の屋台で、たまねぎの天ぷらみたいのを買ってきた。みんなに分けてくれたけれど、食べるべきか迷う。おいしそうだけど……。片山さんはさすがに遠慮していた。真理子は嬉しそうにパクパク食べている。スゲーな。私も意を決して食べた。……おいしい! ちょっと油がきついけれど、サクサクしてて食べ応えがある。

「屋台料理レベル高いよね。お腹の心配がなければ、道で売ってるやつも食べてみたいけど」

 姉が天ぷらを頭上に振りかざして言った。またインド人の注目を浴びてるよ……。

「わたし、アイス食べます」

 そう言って真理子が、アイスのお店に近づくのを全員で止めた。リスクが高すぎる。ほんと真理子は無謀だ。

「でもわたし、さっきもアイス食べました」

 真理子が抗議するように言う。

「うそ! いつ食べたのよ」

 驚いて私は訊いた。

「映画館の、休憩時間の時に」

 うわー。なんてことを。

「真理子さんは、アイスがお好きですからね……」

 片山さんが絶望的な顔をして言った。

 アイス食べます、とムキになって真理子がもう一度アイス屋に行こうとした。みんなで全力で止める。どれだけアイスが好きなんだ。むくれる真理子の顔を覗き込むようにして、兄が言った。

「真理子さん。アイスは水物ですから特に危ないんです。インドでは我慢しましょう。日本に帰ったらうちの店で、おいしいアイスをご馳走しますから」

 ね、と言って兄がにっこり微笑んだ。真理子はじっと下を見て、少し残念そうにして頷いた。

 おお、すごいすごい。兄さんが真理子を一発で説得したぞ。ずいぶん信頼されているな。私が真理子を説得しようとして、上手く行ったことなんて過去にあっただろうか。姉でさえ真理子をなだめるのにかなり手を焼くのに。確かに兄の言葉には力があるのだ。私もこの兄にゆっくりと丁寧に言われると、反論する気が失せてしまう。普段は大人しい反面、本気になるとけっこう迫力がある。

 アイスが食べられなかった腹いせなのか、真理子が突然ステーキを食べたいと言い出した。なので、ホテルに帰ってから夕食のコースを変更してもらった。インドでは牛は食べられないかと思っていたけれど、まったくそんなことは無いようで、ホテルのレストランの得意料理なのだそうだ。やわらかいフィレステーキとソースが絶品だった。久々にカレー味から解放された。真理子のわがままに今回だけは感謝しなければならない。

 海外だと真理子のわがままも自己主張の範囲に入るのだろうか。優雅にナイフとフォークを使って、真理子は笑顔で食事をしている。今日も女性陣はだいぶ食べ過ぎている。

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