第9話
午後六時。コルカタの空港に着いた。時差があるので時計が少し巻き戻っている。バンコクから三時間。あっという間だった。飛行機が着陸する寸前まで、インド人はビールビールだった。飲まない分まで頼んで自分達のバックに詰め込んでいた。それを見て姉も真似していた。
入国審査のおじいさんにじっと見詰められる。白い髭が渋い、こちらは立派なインド人。「か、観光です」とつたない英語で言って事なきを得る。荷物がグルグル回っているところで真理子と片山さんにようやく合流した。
「ファーストクラスはどうだった? インド人うるさくなかった?」
私は真理子に訊いた。
「わたし寝てしまって。特に気が付かなかったですけれど」
静かだったと言うことか。さすがファーストクラス。
「インド人がさ、すーごくうるさくてお祭り騒ぎだったよ」
「お祭り? じゃあさっそくインドを堪能されたんですね」
真理子が微笑んで言った。ちょっと違う。
「こっちは昼飯はカレー、夕飯もカレーだったけど」
「わたしもお昼はカレーにしました。夕飯はチキンです。ガイヤーンというタイのお料理でした」
飛行機の座席は差別の象徴である。まあ仕方がない。
「エコノミーでぐったりつかれました。早くホテルに行って休みたい」
私の言葉に「同感」と姉が応えて言った。ホテルの人に送迎を頼んであるから、と兄が言う。
「その前に両替しないと」
兄はそう言って片山さんと一緒に両替所の方へ歩いて行った。私達はロビーの椅子に座って待つことにした。ロビーというより待合室と言った感じだ。地方都市の電車の駅に雰囲気が近い。売店でサンドイッチを売っているけれど、とてもおいしくなさそうに見える。少しして兄が戻ってきた。
「いやーさすがインド。ちゃんと調べて置いてよかったよ」
兄が嬉しそうに語ったところによると、両替したお札が何枚かボロボロだったそうだ。ボロボロのお札はインドではお金と見なされない。両替所の人間が客に罠を仕掛けてくるのだ。ボロボロのお札を握らされそうになったら、毅然とした態度で交換を要求しなければならない。なんて面倒くさいんだ。
「だってここ空港でしょ? そんなことやってたらクレームがひどいんじゃない?」
私は言った。
「空港以前にここはインドなんだよ」
兄がニコっと笑って言う。なにが面白いんだ。なんだか腹が立ってきた。
「兄さんが甘くみられて騙されそうになったんじゃないの?」
「わたしもやられそうになりました。日本人だからかもしれませんね」
片山さんが困った顔で言った。ジェントルマン片山さんでもダメか。インド人見さかいねーな。
姉が、じゃあ行こうよと言ってさっさと歩き出すのを兄が止めた。
「たぶん空港の外は客引きが一杯だと思う。僕がホテルの車を見つけてくるから、ここでちょっと待ってて」
片山さん、ここはお願いしますと言って兄が表に出て行った。ちょっとカッコいいぞ。しかし外は客引きがいっぱいか。嫌だなー。
「健ちゃん張り切ってるね。ボディガードを買って出ただけあるね」
姉も感心している。
「いろいろと事前に調べてくださったようで、大変助かります。英語もお上手で。立派なお兄様ですね」
片山さんに褒められる。
「健一さん本当にすごいです」
真理子が目をキラキラさせている。兄さん株を上げたなー。
空港内は軍の人が管理をしているようで、髭をたくわえた背の高いインド人が配置についている。銃を持っている人もいる。オソロシヤ。飛行機に乗ってたインド人とは大違いで立派な感じだ。マナーの悪いインド人も、軍の人の前では大人しくするのだろう。確かにあいつらに言うことを聞かせるには、銃の一つや二つ必要だと思う。
「お待たせしました」
兄が戻ってきた。
「正面に車を止めてもらったけど気をつけてね。荷物は体から離さない様に。僕と片山さんから離れないように」
真剣な口調で兄が言う。ただ車に乗るのにそんなに警戒が必要なのか。怖いなあ。
兄が先頭に立って、真理子、姉、私、片山さんの順で、一列になって空港の建物を出る。特に客引きは居ないじゃん、と思ったのもつかの間、どこから現れたのか、いきなりインド人たちに取り囲まれた。
客引きたちに、ホテルなんたらかんたら、タクシーなんたかんたらと言われるけれど、私は英語が分からない。こちらがノーノーと言っても一向に引き下がらない。飛行機の中のインド人と同じだ。無法地帯。真理子が客引きに荷物を掴まれて、強引に連れて行かれそうになった。兄が怖い顔をして英語を使い、真理子と荷物を取り戻す。こんな厳しい感じの兄は初めて見たぞ。後ろを見ると、姉が半分切れながらインド人に凄い睨みをきかせている。片山さんは荷物を乗せたカートを押しながら、インド人に目もくれず無言で突き進んでいる。さすがの貫禄だ。
やっと車にたどりつき、トランクに荷物を載せていく。すごく古い車で、ずいぶん丸っこい形をしている。ちゃんと走るのかな。車二台にぎりぎり荷物が入った。荷物を載せている間にも客引きがうるさい。すごい執念だ。こんなにしつこくしてこちらの気が変わるわけもないのに。
前の車に我が家の面々と真理子が乗り、後ろの車に片山さんが一人で乗り込んだ。ようやく客引きが離れて行った。
「すごかったね。まさか街中もこんな感じ?」
私は兄に訊いた。
「いやそれはないと思うよ。空港は激戦区なんだよ。でも油断は禁物だからね」
兄が笑って言う。何でそんなに楽しそうなんだ。
「真理子、連れて行かれそうになってたね」
姉がため息をついて言った。
「いきなりひっぱられてびっくりしました。健一さんに助けて頂きました」
真理子が恥ずかしそうに言った。
「兄さんすごい怖い顔してたよねー。初めて見た、あんな顔」
私は言った。
「あっちも悪気はないんだよ。生活がかかってるし。こちらがはっきりと意思表示しないとね。おおげさに演技するぐらいで丁度いいんだよ」
兄がはっきり意思表示するなんて、イメージと違う。しかも演技したとか。インドに来て、なにかのスイッチが入ったのか。
車から見る夕方のコルカタの町並み。すごい埃っぽい。舗装されていない道もあって、もうもうと煙が立っている。空港のまわりは少しひらけていたけれど、すぐに人が一杯の街中に入る。物乞いの人がいる。道路で暮らしている人がいる。ゴミがたくさん捨てられている。人力車が走っている。屋台に人が群がっている。なんと表現していいのか分からない。すごくにぎわってるけど貧しさも感じる。建物は古くて遺跡みたいにだ。なんだかすごく迫力がある。
ホテルの前に車が着くと運転手がチップを要求してきた。兄に断られると、運転手は弱そうな真理子に迫って来た。インド人恐るべし。真理子はにっこり笑って「ごめんなさい、わたしはお金を持っていません」と英語ではっきりと言った。運転手がエーっという顔になる。ウチの真理子もなかなか負けてない。
日本から予約した一流ホテル。外観が薄汚れていてちょっと心配になったけれど、一歩足を踏み入れたらさすがの別世界だった。スタッフの人の応対が、とても洗練されていて感動した。男女別々で二部屋に分かれる。部屋に入った後、荷物持ちのボーイさんに兄から渡されていたチップ、五十ルピーのお札を渡す。約百円。物価がよく分からないけれど、ボーイさんがにっこりしていたから悪くはない金額なのだろう。部屋が不必要なほど豪華で広い。一流ホテルなら当たり前なのかもしれないけど、なんだかもったいない感じだ。こんな広い部屋、日本だったらいくら取られるんだろう。
「けっこうかわいいお部屋ですね」
真理子がお金持ち発言をする。これでかわいいのか。
「バスルームも広いじゃん。わたし先にシャワー浴びていいかな」
姉が少し元気を取り戻した感じで言った。
「夕ご飯九時だって。遅いね。だけど今日食事何回目だろう」
私は言った。恐ろしくて体重計に乗れない。
姉がバスルームに入ったので、私と真理子は荷物の整理をする。真理子が大きなトランクを開けて、いろいろと取り出している。
「予想通りたくさん服持ってきたねぇ。でも外を歩くには今着てる探検ルックが一番よさそうだね」
私は言った。
「はい。ちゃんと室内用と外歩き用に分けてきました。ここは夕食もカジュアルで大丈夫そうですね」
なんかドレスとかも入ってるんですけど。着る機会あるのか?
テレビをつけてみた。私は海外でテレビを見るのがけっこう好きだ。その国の文化を手っ取り早く知ることができるような気がする。
「ほら真理子。ハットリ君やってるよ」
「まあ。吹き替えされてるんですね。英語じゃないですね?」
「ヒンディー語とか? インドって言葉がたくさんあるらしいよ」
「国が広いですものねぇ」
コルカタからブッダガヤーまで四百キロぐらいあるけれど、インドの地図で見るとほんの近所に見える。
「ブッダガヤーまで電車で八時間もかかるって。時速五十キロか」
「機関車かしら」
それはさすがに無いと思うが。
「お湯がぬるいけど、一応たっぷりでるよ」
姉が髪を拭きながらバスルームから出てきた。
「真理子、先に入りなよ」
私は言った。
「はい。ではお先に失礼します」
姉が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュっと口を開けた。
「またビール? 飲みすぎじゃない?」
「なぜだか不思議に酔わないのよ。ジュース飲んでるみたい」
そういう問題じゃないと思うが。
真理子の次にわたしもシャワーを浴びた。バスルームは豪華なのに、熱いお湯が出ないのが残念すぎる。でもガイドブックにもお湯は期待するなと書いてあった。日本で読んだ時に、ガイドブックはおおげさに書いているのかと思ったけれど、どうやら確かな情報が多いようだ。注意点をもう一度熟読しよう。たしか嫌なことがいっぱい書いてあった気がする……。
夕飯がおいしくてたくさん食べてしまった。本場マサラ料理。香辛料たっぷりだ。飛行機で食べたカレーもおいしかったけれど、ホテルのカレーはまた別の料理のように感じる。日本でもインド料理を食べたことがあるけれど、あれは日本人の口に合わせてあるのだろう。ココナッツの味はぎりぎり分かるけれど、初めて食べる不思議な味がたくさん。
「すごいね。ちょっと真似できない味だよこれは」
姉が興奮した感じで言った。
「でも意外に口に合うよね」
私はさらにカレーを口に運びながら言った。
ほんと今日は食べすぎだ。真理子までナンをおかわりしている。
「真理子ちょっと食べすぎじゃない? そんなに食べる人だっけ?」
「今日はたくさん食べられます。ちょっと不思議」
え。これはとめたほうがいいのかな。しかし笑顔でどんどんおかわりしてるから邪魔できない感じだ。食欲が無いよりはいいか。普段は食の細い兄までおかわりして食べている。みんな大満足で夕食を終えた。
部屋に戻ると疲れがどっと出て、ベッドに横になると吸い込まれるように眠ってしまった。カルチャーショックに加えて今日は食べ疲れた。姉と真理子の飲みっぷり、食べっぷりもすごかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます