第6話
私が準備をして夕飯はすき焼きにした。海外旅行すると決まったら、今から日本食を食いだめしておきたくなってしまったのだ。甘辛いつゆが染みたお豆腐。なんておいしいのだろう。そういえばインドでは牛肉は食べられないだろうから、よく味わっておこう。兄は仕事関係の電話が入ったのか、居間の隣室で頭を下げながら堅苦しい会話をしている。せっかくすき焼きなのに。安い肉だから煮詰まるとおいしくなくなる。
神妙な面持ちをして兄が戻ってきた。箸を手に取ったまま、なにか考え込んでいる。
「兄さん肉がかたくなっちゃうよ」
「うん……」
どうしたの、と私が言って、みんなが兄に注目する。
「それがね、桐原さん……真理子さんのお父さんから電話があったんだけど」
ゲ。なにごとだ。
「真理子には人をつけますので、どうかインド行きにご一緒させていただけないでしょうかと言われてしまった」
ぎゃー。真理子がカードを切ってきたぞ。
「人をつけるって誰をよ」と私は言った。
「運転手をしている片山さんという人だって。信頼できる人間ですとお父さんが言っていたけど」
あー。あの人か。確かにしっかりしてそうだけど。
「それにしてもご両親は、よく真理子さんを行かせる気になったよね」
兄が言った。
「甘いって言いたいの?」
姉が箸を振り回して言った。
「うん、まあ放任主義なのかなと思って」
「真理子の両親はね……真理子にかなり気を遣ってるわよ。体が弱いし大切にしすぎるくらい」姉が肉を鍋からごっそりとつかんで言う。「経験的に、真理子のわがままを押し通したほうが良い結果になると思ってるみたいね」
そうかも。さすがは真理子のお姉様。説得力がある。
兄が難しい顔のまま、しょうがないなと言った。
「僕も一緒に行こうと思う。インドに」
え?
「だって兄さん、店はどうするのよ」
私は慌てて言った。
「店はわたしがいるから大丈夫。賛成だ。健一の意見に」
祖父が頷いて言った。
「真理子には運転手の片山さんが付くんでしょう? 健ちゃんが行く必要はないんじゃない?」
反対するわけじゃないけど、と姉が言った。
「違うよ。嫁入り前の娘を、他人と一緒に旅行させるわけには行かないでしょう?」
兄が真面目くさって言った。私は白滝を吹き出してしまった。ヨメイリマエ。
「他人って片山さんのこと?」
私が訊くと、そうだよ、と言って兄が真剣な顔をした。祖父も頷いている。こりゃダメだ。いつのまにか真理子のインド行きも決まってるし。もう知らないよ。
インド行きが決まった翌日に、真理子が満面の笑みで店に出勤してきた。それはそうだろう。真理子の完全勝利だ。私はなんとも言えない感じで、カウンターに座ってモーニングを食べている。真理子がそっと近づいてきて私の横に座った。
「佐奈ちゃん。怒ってる?」
覗きこむ仕草がかわいらしい。顔色も良くなっている。どういう構造をしているんだこの人は。
「……怒りようがないよ。私は心配だっただけ。まだ心配だけど、兄さんも行くことになったし腹をくくったよ」
私は苦笑いして言った。
「お兄様にも申し訳ないです。決してご迷惑にならないよう気をつけます」
真理子が必死な表情をして言った。
「無理しないようにね? なにかあったらすぐに言うのよ? 迷惑だなんて考えないように」
ハイ! と大変良いお返事をして、弾むように真理子が店の奥へ歩いていった。うわーやっぱり心配だ。真理子とインド。似合わなすぎる。温室のバラを砂漠に持って行くようなものだぞこりゃ。
インドに連れて行ってもらうんです、と言って真理子は、高田のおばあちゃんと楽しそうに話をしている。インドがどんな所なのか真理子は分かってるのかな。そういう私もほとんど知らないわけだが。とにかく心配すぎる。
「じゃあお友達も一緒に? 嬉しいわ。ほんとに楽しみねぇ」
祖母が電話口ではしゃいで言った。兄も行くことになって祖母は大喜びだ。真理子のおかげと言えないことも無い。感謝しないけど。
「でもね、その友達かなり体が弱いの。何事も起きないといいんだけど」
私は言った。
「……そうねぇ。申し訳ないけれど何事か起きるわよ。だってインドだもの」
祖母が楽しそうに怖いことを言う。
「やっぱりなにか起きちゃうのかな。その友達ね、真理子っていうんだけど。その子をホテルからださない作戦とか、考えてるんだけど」
「申し訳ないけどきっと無駄ね。一流ホテルでも信用置けないのよ。もちろんレストランとかも同じ。だからあんまり心配しないで楽しいことだけ考えていたほうがいいわ。ね、佐奈ちゃん?」
祖母は割と大雑把な性格をしている。よく言えば大胆な性格。インドへ行って、それに拍車がかかったような気がする。
「そうだね。心配しすぎてもしょうがないもんね。ばあちゃんに会えるのは楽しみだし、インドも楽しいかもしれないし」
私は言った。
「そうそうその調子。だけどね……」
祖母がフゥーっと息を吐いた。
「どうしたの?」
「申し訳ないけれど、本当のところインドは楽しくないのよ」
そう言って祖母が突然高い声で笑い出した。
「ばあちゃん笑えないよ……」
ごめんなさい、と言いながら祖母はまだ笑い続けている。電話の向こうで涙を流して笑っている祖母の姿が目に浮かぶ。私の母もそうだけど笑い上戸なので、一旦笑い始めると止まらない。姉が私に向かって、早く電話を切るようにジェスチャーした。国際電話は料金が高い。
「ばあちゃんそろそろ切るね。なんか不安だけ高まっちゃったよ」
「ごめんなさい。でも期待してもらいたくなくて」
そう言ってまた祖母は吹き出して笑い始めた。じゃあ切るからね! と言って私は、笑い続ける祖母との電話を強引に終わらせた。楽しくないインドで、祖母は元気にやっているようだ。心配は残るけれど私も覚悟ができた。
どうやらインドは私の思っている以上に難敵のようだ。最低限の準備だけして、あとは流れに任せようと思う。もちろん警戒は常に怠らない。兄がすべてを取り仕切ってくれるはずなので、私はただ付いていくだけでいい。真理子の心配もちょっとだけにしておこう。片山さんがいてくれるわけだし。
せっかくの海外旅行。少しでも楽しいことを考えるべきだ。祖母にインドは楽しくないと、宣言されちゃったけど。
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