第4話
来週から待ちに待った夏休みだ。部活が忙しくなるけれど、授業が無いというのがなんといっても嬉しい。一方真理子は教室で機嫌の悪い顔をしている。ここで声をかけると、たぶん面倒くさいことが起こりそうだ。真理子は私に声をかけさせるために機嫌の悪い顔をしている。間違いない。しかしこの状態を黙って見過ごす勇気を私は持ち合わせていない。
「……真理子。どうしたの」
「どうもしないです」
そう言って真理子はわざとらしく深いため息をついた。
「なんでもないならいいけど」
そう言って私は帰り支度を始める。
「佐奈ちゃんひどい! もっとかまって!」
真理子……負けるのが早いよ。もう少し駆け引きして欲しい。
「今日は部活があるからゆっくりしていられないのよ。真理子も美術部があるでしょ」
私は言った。
「そんなのどうでもいいです。真理子は夏休み、さびしいです」
「そんなこと言ったってどうしようもないじゃない……」
そう言った私の顔をじっと見て、真理子が目をウルウルさせている。しょうがねえなあ。
「たまにはウチに遊びにくれば? たぶん私がいなくても、姉さんがいるかもしれないし。気が向いたら遊びにきなよ」
「え! 本当ですか?」
真理子が急に目をキラキラさせて喜びのオーラを発し始めた。
「うん。真理子の体調のいい時に。いつでもいいよ」
「いつでも? わたしの好きなときに?」
真理子が身を乗り出して来て言った。顔が近い近い。
「オーケーよ。お茶ならいつでも出せるし。ウチは喫茶店だからね」と私は笑って言った。
しかし実は笑い事ではなかった。真理子のキラキラした目で気が付くべきだった。あとで姉に「あんたは真理子を分かってない」と呆れ顔で言われた。
真理子は夏休みの初日から我が家の喫茶店にやってきた。次の日も。そのまた次の日も。開店から閉店までずーっと。そういう常連さんもウチの店には何人かいる。真理子はその仲間入りを果たしたのだった。
夏休み。
私が「行って来ます」と言って店を出るとき、お年寄りの言ってらっしゃいの声の中に一人だけ若い声が混じっている。真理子だ。夏休みが始まって一週間。懲りずに毎日通ってきている。私は呆れたけれど、真理子は誰に迷惑をかけているわけでもない。私や姉を煩わすわけでもなく、大人しく紅茶やコーヒーを飲んでいる。そもそも私や姉は頻繁に外へ出かけているので、真理子の相手をしたくても出来ない。意外な事に真理子は、お年寄りと楽しくおしゃべりしたりして、自分で楽しんでいるようだった。
私が部活から帰ってくると真理子がこちらに気付いて「お帰りなさい」と言って寄って来た。
「すっかりなじんじゃって。新しいお友達もできたみたいね」
私の言葉に真理子が頷く。
「いま高田のおばあさまに編み物を習ってるの。わたし不器用だから、なかなか進まなくって」
「体調もよさそうだね。でも無理しないでね」
「ありがとう。わたし、とっても楽しいです」
じゃあまたね、と言って真理子があっさり私から離れていったのには驚いた。なんたる成長。よほど水が合ったのだろう。私はカウンターに座って兄にコーヒーを頼んだ。
「なんだか店のマスコットみたいになってるね」
私は兄に向かって言った。
「ほんとそうだよ。真理子さんに会いたくて、出勤回数を増やしてる人もいるよ」
兄が笑って言った。
「この調子だと、夏休み中毎日真理子に送り迎えされそう」
私は言った。
「夏休みが終わった後が怖いよ。真理子さんがいないんじゃつまらない、みたいな事になりそうで」
兄が真理子を歓迎してくれているようで良かった。コーヒーがしみじみとうまい。
お店のドアがカランカランと鳴って、「真理子はどこっ?」という芝居がかった声が聞こえた。姉が帰ってきたようだ。「お姉様っ」と言って真理子が姉に駆け寄る。二人は店の真ん中ではっしと手を握り合った。なんだこれは。
兄がおもむろにCDプレイヤーの再生ボタンを押す。タンゴのせつないメロディーが流れ始め、お客さんが待ってましたとばかりに拍手した。二人はきびきびと踊り出す。店内の狭い通路へ器用に足を運び、くるくると回転し踊り続けている。……。よくやるよ。
「兄さん私ナポリタンね」
ヤケ食いしたい気分だ。しかし二人はダンスがうまい。金が取れる動きだ。真理子はお嬢様だからいいとして、姉はどこで習得したものやら。まさかこの為に練習したんじゃないだろうな。ちょっと宝塚みたいで見とれてしまう。これじゃあ客も増えるはずだ。五分間程きっちり踊って、二人は観客に盛大な拍手を受けた。
姉が息を弾ませながらカウンターの私の横に座った。
「ウィンナコーヒーね」
ハァハァいいながら額に汗が光っている。
「まさか毎日やってるわけじゃないよね」
私は言った。
「まさか。今日で三回目かな?」
二日にいっぺんぐらいやってるのか……。お客さんとの呼吸もばっちりだったな。
「ダンスなんてどこで習ったのよ」
「学校の体育よ。選択でダンス、人気あるでしょう。あんたは柔道なんか取っちゃってるけど」
部活も柔道なんだから十分じゃないの、と姉が憎まれ口を叩く。そういえばそうだった。なぎなたと柔道とダンスだったら、女子なら普通はダンスを選ぶか。
「でもまあ、素敵だったよダンス。真理子もあんなに動けるとは意外だったな」
私は言った。隅っこの席で真理子は、高田のおばあちゃんと楽しそうに編み物の続きをしている。
「あの子運動神経いいのよ。あんまり運動しないから分からないだろうけど。お嬢様方の中ではピカイチかもね」
姉が真理子の方を見ながら言った。
「なんだか体が弱いなんて嘘みたい。学校に行くと調子が悪くなるのかな」
「そうね。ご存知の通り真理子は気力の人だから。最近ウチで楽しんでるみたいだし、いい傾向だと思うよ」
コーヒーをぐいっと飲み干して姉が言った。確かにここのところ真理子は顔色も良い。このまま健康な状態が身につけばよいのだけれど。
夏休みの間は時が速く流れる。あっという間に七月が終わろうとしていた。相変わらず真理子は我が家に通い続け、最近ではウェイトレスの真似事までするようになった。お客さんはほとんどが常連さんなので特別注文を取る必要もないのだけれど、真理子に笑顔で給仕されるのが嬉しいらしい。とびきり美しいお嬢様の、心のこもったサービス。売り上げがじわじわ上がってるよ、と兄が言っていた。
うわさを聞きつけて町の人が、特に男性が我が家の喫茶店に足を運ぶようになった。普段は喫茶店でコーヒーを飲まないような人種が「久しぶり!」という感じで店に現れる。久しぶりもなにも十年ぶりくらいの人もいる。ちょっと店内を見回してから、真理子の姿を認めるとハッした表情になる。そのしぐさがみんな同じなので私は笑ってしまう。中にはオッと声を出すオヤジまでいた。どんな客にも真理子は一級品の笑顔を持って接する。商店街のジジイどもにはもったいないくらいの笑顔だ。
出されたコーヒーを飲んでハッとする人もいて、これは良いプロモーションだと思った。よこしまな目的でやって来たジジイ連中が、コーヒー豆を買って帰る事もある。真理子におかわりを注いでもらいほくほくしている感じの客が、コーヒーのおいしさに気が付いてさらに笑顔になる。健ちゃんうまかったよ、と兄に声をかけて店をあとにしていく。看板娘と兄の実力がうまくかみ合っているようだ。姉と私もいままで散々給仕してきたのだが、こんな現象は初めてだ。つまりこれは、わたしら姉妹にいかに色気が無かったかという証明だ。喫茶店に娘、二人もいるのに看板にならず。
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