第3話

 店のドアを開けるとカウンターの兄と目が合う。大きな声で「ただいま」と言うと、周囲の席から口々に「おかえりなさい」という声が聞こえる。私の家は喫茶店を経営している。祖父の代から続いているので歴史だけは誇ることができる。当然お客さんも年季が入っていて、地域の老人会の溜まり場みたいになっている。ほとんどが顔見知りで、私のことを孫のように思ってくれている人も多い。

「ブラックコーヒーを一杯」

 カウンターに座って兄に注文する。兄は声を出さずに頷いて準備してくれる。

「晩御飯はどうしようか?」

 兄が言った。

「え? みんなは?」

「父さん達は外で食べてくるって。今日もデートだよ」

 兄が困ったような顔をして言った。

「姉さんは?」

「合コンだって。さすが大学生だよね。こうも連日だとちょっと心配だけど」

 まるで父親のような感じで兄が言う。この兄は一昨年大学を卒業したばかりだけれど、すでに一家の大黒柱になっている。実質的に祖父の喫茶店を引き継いで、毎日忙しく働いている。

 店の中を見回すと、いつもの席に祖父が座ってお客さんと談笑している。私の顔を認めると、片手を挙げて小さく微笑んだ。

 祖父は粋な人だ。元々私の家はお米屋だったらしいのだが、祖父がそれを嫌って喫茶店にした。曽祖父を始め親戚縁者の反対がかなりあったらしい。それを押し切って祖父は、当時この町では珍しかった喫茶店を開いた。お店ができた時に祖母のおなかの中には私の父がいたので、店はちょうど父親と同じ年ということになる。

 当時のお米屋さんというのは町の大切な役割を担っていたようで、かなり裕福でもあったようだ。だから祖母もいいところのお嬢様で、女学校を卒業して祖父のところに嫁いできた。子供を身ごもったところで祖父がいきなり商売替えを決めて、相当不安だったのではないだろうか。目が覚めたらコーヒーのいい香りがして、毎日目が覚めるのが楽しかったよ、と父親はのんきに言っていたが。

 祖母は今インドにいる。仏教の勉強の為に旅立って、今一年目。これまでにもチベット、タイ、スリランカなどの仏教国に出かけている。パワフルで頭が良く、行動力がある。息子が六年かけて美大を卒業した年に、自分も大学に入って勉強を始めた。お父さんがフラフラしているのはわたしの血ね、と祖母が申し訳なさそうに言っていた。立派な祖父母の寵愛を一身に受けて、私の父はわがまま放題に育ち、楽天的で適当な遊び人になった。

 その父にくっついた母親も相当適当な人で、毎日夢を見るように過ごしている。娘達よりも、よっぽど少女と言った感じだ。父とはお見合いで結婚した。娘が欲しかった祖母に溺愛されて、母も相当甘やかされた。結婚当初から母は、夫である私の父親に付き添ってフラフラと遊んでいる。家事が苦手で、そのおかげで子供達は小さいころから、家事全般を自分達でこなせるようになった。まあ良い事かもしれない。反面教師を得たおかげで、子供たちはみな独立心が育ったように思う。

「眉間にシワがよってるよ。なにか考え事?」

 兄が私の顔を見て言った。

 ブラックコーヒーの横に、大盛りのスパゲティナポリタンが置かれる。これは店の名物で私の大好物でもある。

「家族のことを考えてた。兄さんにちょっと任せすぎだよね、みんな」

 私は言った。

「そんなことないよ。加奈も佐奈も手伝ってくれてるし、じいちゃんもいてくれるから。毎日楽しいよ」

「兄さんがそう言うならいいんだけど」

 ほんと、兄さんがいてくれてよかった。しかし、この底知れぬ優しさはどこから来るのだろう。祖父と良く似ている。兄は女姉妹二人より背が低くて、小柄な体格をしている。性格もおとなしくて人と争うことも無い。でも、こういう人こそ実は男らしい人だと私は思う。ちょっとジジくさいところがあるけれど、かっこいいと思う。容姿しか誇るものがない父親に似て、すっきりとした男前だし。そのせいでまあ、娘たちも男前になってしまっているのだが。

 肝心の母親のかわいらしさは唯一、兄に受け継がれている。姉妹に無い色気が兄にはあるようで、小さいころから女の子にモテていた。でも本人は引っ込み思案で自信がないのか、彼女ができたことが恐らく一度も無い。本人が作ろうと思えば作れると思うのだけれど。兄はいつも「僕はいいよ」と言って、いろんな事を遠慮してしまうのだ。

「兄さんとじいちゃんの夕飯は私が作るからね。もう店閉めるでしょ?」

 私は言った。

 うん、ありがとう、と言って兄は、お客さんにお代わりのコーヒーを注ぎに行った。このお代わりシステムは非常に儲からないシステムなのだけれど、祖父と兄が大切にしているサービスだ。

 スパゲティを食べ終わって私は、二階の自分の部屋に向かう。金持ちの桐原家と違って、階段がぎしぎし言う木造の家だ。築何年経っているのか想像もつかない。昔ながらのお米屋の、店構えを改造して喫茶店にしているので、やけに天井が高くて無骨な作りになっている。屋根裏部屋もある。アンティークな雰囲気を出していると言えば聞こえがいいけれど、ただ古いだけだ。タダでさえ狭い庭をふさぐような形で、大きな蔵もある。蔵は家の半分くらいあるのに、ガラクタが詰まっているだけでまったく利用されていない。小さい頃は格好の遊び場だったけれど。


 夕飯はタケノコ尽くしにした。タケノコご飯にタケノコの入った豚汁。蕗とタケノコの煮物に三つ葉を添えて。兄が洋食のスペシャリストなので、比較されないように私は和食ばかり作るようになった。兄姉妹でいろいろ住み分けがあるのだ。ちなみに姉は和洋関係なく、酒のつまみを作るのが上手い。普通に料理をしても酒のつまみのようになる。両親が酒飲みなので、昔夜ご飯担当だった姉はそういうことになった。酒のつまみはご飯にも合うから私は好きだけど、最近姉は作りながら飲むので始末が悪い。

 兄と祖父が夕食を済ませた後、台所で洗い物をしてから居間でテレビを見てしまう。

「試験前なんでしょう。大丈夫?」

 兄が困った顔をして言ってくれる。この顔を見ると立ち上がらずにはいられない。その一言を待っていたような節もある。よっこらせと部屋に戻ろうとしたら、勝手口のドアが開いた。

「ただいまー」 

 姉が帰ってきた。顔を赤くして上機嫌だ。

「姉さん酒くさいよ」

 言い捨てて二階に上がろうとしたら、後ろから頭にチョップされた。

「痛っ。何すんのよ」

「佐奈ちゃんおみやげだよー。豚マン。一緒に食べよう」

 姉が言った。

「いらない。夕飯食べたばっかりだし」

「いいからいいから。ちょっとお茶入れてよ。みんなの分あるからね」

 こうなると姉はしつこいので、しょうがなく付き合うことにする。じいちゃんは今から豚饅頭なんて食べられないと思うので別にしておこう。

「でもすごいじゃん。これけっこう高い豚マンだよね」

 箱を開けて私は言った。

「うん。おいしそうでしょう」

 姉が自慢げな顔をして言った。大学生になってから姉はしょっちゅう飲み会に行っているが、その都度お土産を買ってきてくれる。まるで自分だけ楽しんだ罪滅ぼしのように。夜十二時までにしっかり帰ってくるし、かなり家族に気をつかっているようだ。せっかくだからもっと遊んでしまえばいいのに。酔いが冷めたあたりで、姉も兄にやんわり言われているのかもしれない。

 豚マンは予想通りとてもおいしかった。兄もおいしそうに食べている。その光景を嬉しそうに横目に見ながら、姉は頭をカクカクさせて眠そうにしている。ほとんど酔っ払い親父だ。本物の父親は外で飲んだら絶対家に帰ってこないけれど。

「二人は今日お泊りだって。季節がいいから伊豆半島を回ってくるってよ。季節がいいからっていうのが、父さんらしいなあ」

 父親から携帯にメールが届いたようで、兄がおかしそうに笑って言った。兄は心が広い。両親は気が向いたらフラッと外国にでも旅に出てしまう。いつ帰ってくるかも分からないので、私はなんとなく心が落ち着かない。寅さんじゃないんだから。

 姉がテーブルにほっぺたをつけて寝息を立て始めた。

「姉さん風邪引くよ」と言っても返事が無い。

 姉の荷物を持って手を引っ張り、半ば担ぐような形で階段を上って部屋まで送り届けた。あとは勝手にしてくれ。

 自分の部屋に戻るとおなかが一杯だし、眠くて勉強をする気がまるで起きない。

 明日からやろう。明日から、必ず。


 次の日。階段を降りると店内はすでにお年寄りで賑わっていた。

「おはようございます」と私はみんなに声をかけながらカウンターに座る。

 コーヒーとトースト、目玉焼きがすばやく出てくる。ウチのモーニングのメニューだ。これで三百円。兄が丹精込めて作った朝食を、みんなが嬉しそうに食べている。このおいしさで三百円はちょっと安すぎる。私は詳しくは知らないけれど、仕入れに関してもかなりの営業努力が払われているらしい。

 祖父と兄が夜、店を閉めた後、居間で静かに相談しているのをよく見かける。

「コンピューターで調べてくれ」と言うのが最近の祖父の口癖で、それに対して兄は「やっぱり自分の目で見たものじゃないと」とか言って、どちらが年長者なのか分からないような会話をしていた。 老人たちは朝が早い。朝の七時半なのに店内が込み合っている。モーニングの評判が良いのもあるけれど、お年寄りにとっては朝食を作るのもけっこうな苦労らしい。夫婦そろって毎日来てくれるお客さんもいる。たくさんの「行ってらっしゃい」の声に送り出されて、私は学校に向かう。

 満員バスと満員電車を乗り継ぎ、学校に到着すると、今日も真理子は休みだった。試験勉強も体に障ると思うので、正直勉強会は無しにしたほうが良いと思う。けれど真理子が納得しないだろう。案の定授業の後に類子が迎えに来て、姉がお待ちしていますとのことだった。そのまま桐原家に向う。それでまたアルプスの少女ハイジは、クララを励ますために奮闘してしまう。勉強はろくに進んでいないのにぐったりと疲れて家に帰った。

 試験日までの一週間はそんな感じで過ごした。さすがに試験前日だけは、真理子も体力を温存するために勉強会は無しになった。これ幸いと私も、本腰を入れて試験勉強に着手したけれど時すでに遅し。あたりまえか。結局いつものように一夜漬けをして、眠い目をこすりながら試験当日を迎えた。


 教室に入るとなんだかいつもと違う気がする。今日は試験日だから雰囲気が違っていて当然なのだが、それだけじゃない。よく見てみたら、真理子が背筋を伸ばして教科書を熟読していた。遅刻常習犯の真理子が朝から教室にいるだけで珍しい。その上しっかりと目が覚めているようで奇跡に近い。大概一時間目は夢の中にいるのが真理子のお約束のはずだ。

「おはよ」

 こちらは眠いので、やや無愛想なあいさつになった。

「おはよう! 佐奈ちゃん!」

 情熱のこもったまなざしを向けられる。目がきらきらしている。朝から暑苦しい。

「なんなのそのテンションは。まさか寝ぼけてる?」

「そんなことない! 元気一杯」

 鼻息荒く真理子が答える。やっぱりおかしいぞ。顔色がよすぎる。元気一杯なんて真理子らしくない。

「あんた……また薬やってるの?」

「分かる? 元気になる薬を飲んでみたの」

 いろんな意味で危険だな。真理子がいそいそとかばんから取り出したのは、高そうなドリンク剤の空ビンだった。

「それ……ユンケル? ちょっと違うね。なんか英語? とも違うか。なにこれ」

 ビンの形からして高級そうではあるが。

「これを毎日飲んで、癌が治った人もいるんですって」

 それは詐欺だろう。

「どこでこんなもの買ったのよ」

「お世話になっている占い師の方に分けてもらったの。普段は三万円だけど、特別に一万円にしていただいて」

 それはとても詐欺だろう。って高! でもビンを握りしめて嬉しそうにしている真理子につっこむことなんてできない。本当に元気になっちゃってるし。

「じゃあ絶好調ジャン。真理子良かったね」

 この際毒でないことだけを祈ろう。

「そう。絶好調」

 真理子がにっこり笑ったと同時に、赤い斑点がパタタっと教科書に落ちた。

「真理子鼻血出てる! ちょっと大丈夫?」

 怪しい薬を見た後なので、私は必要以上に慌ててしまった。クラスメイトの方々を巻き込んで、ちょっとした騒ぎになってしまった。


 ……みなさんの手厚い介抱のおかげで事なきを得た。真理子はティッシュを鼻に入れて、相変わらず元気一杯で教科書を読んでいる。ほんと怖いなぁ。いきなり倒れたりしないだろうな。私の視線に気が付いて真理子は、どうしたの? 何があったの? という顔をしておかしそうに笑う。鼻にティッシュが入っているのにこのかわいらしさ。いやこの場合、鼻にティッシュが入っているからかわいく見えるのだろうか。

 無駄なことを考えていたら先生が教室に入ってきて、教科書をしまってくださいと言った。気が付けば試験前の貴重なひとときを無駄にしてしまっている。私はもう鼻血も出ないよ。


 真理子は試験期間の四日間をあの怪しいドリンクで乗り切った。副作用が心配されたが、案の定真理子は試験のあと死んだように眠り続けた。類子の情報によると、そろそろ医者を呼ぶかと言う二日目にゾンビのように立ち上がり、おかゆを二杯食べたあと、また二日眠り続けたそうだ。そして目が覚めたときには学校は夏休みに入ろうとしていた。ある意味理想的な学生生活ではある。

 真理子は試験の結果も良くて、これが運動競技ならドーピングで訴えられると思う。普段そこそこまじめに授業を受けている私が馬鹿みたいだ。

 とはいえ私も赤点は免れた。真理子がお世話になっているという、例の占い師による試験の山が当たったのだ。占わせる人間もすごいが、占ってしまう占い師もどうかと思う。そしてそれを信じて山をはった自分が最も情けない。正直、数学などは授業も、ちんぷんかんぷんなので藁にもすがる思いだった。結果オーライと思うことにする。

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