第2話

 次の日、真理子は学校を休んだ。桐原さんはお休みです、と先生がアナウンスした途端、教室内はご学友の麗しき同情の声で満たされた。私の経験上、この学校に限っては「同情」が本当に心からの同情なので感心してしまう。みんな眉間にしわを寄せて真理子の病状を案じている。これは演技でもなんでもなく、本当に心からクラスメイトを心配しているのだ。私はこの事実をを信じられるまでに一年を要した。とにかくみんな「すごく」育ちがいい。

 類子などを見ていると、例えお嬢様でも裏表があることは分かる。だいたいこんなに純真だったら今の社会で生きていけない。私が一年間観察して掴んだ結論によれば、お嬢様方は非常に巧みに、そして無意識に裏表を使い分けている。

 一般的に、本音を吐けるのは自分の安心できる領域においてのみだと思う。つまり家族や気心の知れた仲間内。でもそこだって少なからず嘘で取り繕うものだ。下手すると自分自身に対して演技をしていることもある。

 それに対してお嬢様方は、この学園を一種の聖域として考えている節がある。世の中でここだけは、正論が正論としてまかり通るべき場所なのだという強い信念を感じる。一応ミッション系の学校なのでその影響もあるだろう。でも半分以上はキリスト教徒ではないし、多感な年頃の女子が単純に教えに従うのかどうかも怪しい。

 それでまあ、私の偏見に満ちた理屈による、偏見に満ちた結論を申し上げると、麗しき乙女たちは自主的にこの美しき架空の、正しくて素直な世界を形成しているということだ。そしてそれを可能にしているのが、彼女たちの育ちのよさなのだ。言葉で表すのが難しいけれど、無意識的な上品さとでも言えばいいのか。実際に直面するとかなり圧倒的な迫力を持っている。

 ぐは。なんでこんなに力説してしまったのだろう。疲れた。ただ私は、この環境に置かれて、自分を納得させるためにこのような解釈が必要だった。つまり私は一般人なのだ。なぜこの高校にいるかと言うと、祖母と母がここの卒業生だからだ。とても優しくて頭が良い、尊敬している祖母の頼みだったし、いつもフワフワしている母が珍しく自分の希望を言った。姉は成績が割りと良かったから他の学校も視野に入れていたようだが、母の涙にあって撃沈した。私は成績的に、それほどいろんな高校を選べる立場ではなかったし、制服が素敵だったから特にこだわりもなく決めた。そして入ってみてびっくりした。姉が平気な顔でみんなのお姉様をやってるのを見てげっそりした。

 そういうわけで私はあまりこの学校になじめていない。この学校は嫌いではないし、クラスメイトはむしろ愛すべき人達だけれど、あまりに世界が違う。友人は所属している柔道部に数人だけ。だから真理子は貴重な存在だ。私とお嬢様世界の唯一の接点と言える。ただ、真理子はお嬢様世界の中でも変人の部類のようで、それがますますわたしを混乱させている。


 授業がすべて終わったあとピッタリに、類子が教室にやって来た。

「佐奈さん、今日は部活はありますか?」

「今日から試験期間じゃない。よって部活もありません」

 まあよかったと言って類子が喜ぶ。嫌な予感がする。

「ではわたしの家で、試験勉強をしましょう。姉もお待ちしています」

「え。でも真理子は今臥せっているんでしょう? 持ち直してからにしようよ」

 真理子には悪いけど、病人の横で勉強というのもいまいちはかどらないと思う。

「いいえ。お約束通り佐奈さんに来ていただきます。手ぶらで帰ったらわたしが姉に叱られます」

 手ぶらって。私はお土産か。類子の熱い視線に押される。吸い込まれそうにきれいな目だ。私はこういうのに弱い。 

「わかったわよ。行くよ、行きます。でも真理子の調子はどうなの?」

「佐奈さんが来てくださったらきっと姉も喜びます。そして元気になります。姉の場合、気力というのが重要なんです」

 類子が力を込めて言った。

「そうだよね……。恐ろしいほど気力の人だもんね……」

 逆を言えば、真理子をがっかりさせると病状が悪化しそうで怖い。病は気からと言うけれど、真理子の場合は気力によってすべてが支配されている感じだ。

 類子と一緒に廊下を歩くと、一年生に次々と挨拶される。ちょっと面倒くさいが、笑顔の迫力に押されてこちらもにこやかに返事を返す。それを見て類子が苦笑しながら言った。

「佐奈さん、下級生に慕われているんですから。そんなに面倒くさそうに……」

「え? やっぱり分かる? まずいね。ちょっと戸惑っちゃうのよ。なんで私のような者を」

 とは言うものの少しは分かっている。私は背が高くて男っぽいので、姉と同じくお姉様役に適しているのだ。真性お嬢様の中では異色の平民で、飾らない感じが割りと周囲に受けている。飾らないのではなくて「飾れない」というのが正しい。 

「わたしはご一緒できて鼻が高いです」

 類子が楽しそうに言った。

「そういや類子は本当に鼻が高いよね。きれいな顔してるよ」

「まあやだ。嬉しい」

 類子が真っ赤になってバシッとわたしの肩を叩いた。すごい痛い。難しいなぁ。冗談の加減もなかなか分からない。

 例によって校門に車が止まっている。お呼ばれしているので遠慮なく車に乗り込む。私も贅沢になったものだ。運転手さんが優しく目で挨拶してくれる。けっこうお歳だけれどがっしりとした体格。前から思ってたけどこの人、武道とかをやっていそうだ。類子が運転手さんに「お願いします」と言って、かろやかに車が動き出した。

「そういや運転手さんもいるのに、電車通勤してるときもあるよね?」

 私は類子を見て言った。

「それはお友達と時間を過ごすためです。私はクラスの方や合唱部の友人と帰ったりします。寄り道をしたりして。姉は佐奈さんと帰るためですよ。その為に美術部にも入ったわけですし」

「え。それで美術部に入ったの? 確かに部活終わったらよく一緒になるけど。たまたまだと思ってた……」

「姉は元々絵は描いていたので、それだけと言うわけでもないでしょうけど。佐奈さんと一緒に帰ることが張り合いになっている事は確かです」

 愛されてるなぁ。ちょっとぐっと来たぞ。もう少し真理子に優しくしたほうがいいかな。いや、私は何を考えてるんだ。


 車が桐原家の門の前についた。大豪邸と言うほどの規模ではないけれど、たいそう立派な家だ。テレビで見た芸能人の家とかに似ている。階段を上がって真理子の部屋に入ると、ベッドから体を起こして真理子は本を読んでいた。類子は勉強の準備をしてきますと言って、一旦部屋を出て行った。

 真理子がこちらを見て静かに本を閉じる。薄緑色のシルクの寝間着がとても似合っている。

「来てくださったのね。お待ちしてました」

 真理子がにっこり微笑んで言った。

「だいぶ調子がいいみたいじゃない。顔色もいいみたいだし」

 私は言った。

「それは佐奈ちゃんが来てくれたからよ」

 確かに白い顔にたった今、血が通い始めたような絶妙なな色合いをしている。来てよかった。というか、来なかったらどうなってたんだ。あぶねえ。

 類子がもどってきて、真理子はそのままでみんなで勉強を始めた。このシチュエーションはアルプスの少女ハイジを連想させる。もちろん真理子がクララだ。わたしはベッドに寄りかかりながら教科書を開いたりして、ちょっと切ない感じがある。ついつい病床の君を励まそうとして、馬鹿なことを言っておどけてしまったりする。ぜんぜん勉強がはかどらない。まあ、真理子が楽しそうだったからいいか。

 外が暗くなってきたので私は帰ることにした。引き止められて泊まっていけとも言われたが、ありがたくお断りする。お嬢様方といるとどうしても庶民は気疲れしてしまう。楽しいことは楽しいのだけれど。

 電車に乗ってつり革にぶら下がる。これが本来の私の姿だ。今日運転手付きの車に乗ったことを思い出して、少し笑ってしまう。お友達と帰るためにわざわざ電車に乗る人間もいるのだ。私は嫌でも満員電車に乗って毎日通学しなければならない。別に不満は無い。それぞれ違う世界があるんだなあと思う。

 駅から家までバスに乗るか迷う。三十分歩けばバス代を二百円節約できる。その分がそのまま私の小遣いに加算されるのだ。いきなりみみっちい話だけれど、これが私の生活だ。結局歩くことにして二百円浮いた。とても嬉しい。これはお嬢様方には得られない喜びだろう。別に自慢するほどのことではないが。……ほんとに自慢するほどのことじゃないなあ。

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