ワガママなお嬢様をエスコートしながらインドに行くとか正気の沙汰じゃない
ぺしみん
第1話
真理子が眠たい目をしている。ちょっと変な感じにトローンとしている。今日はちょっとおかしい。今日も、と言ったほうがいいか。
「真理子。ちょっと真理子、大丈夫?」
反応が悪い。肩をゆすぶってもぼんやりしている。私は心配になってほっぺたをピシピシ叩いてみた。
「いたいいたい。佐奈ちゃん、どうして?」
真理子がようやく意識を取り戻したようだ。今度は涙目になって私をじっと見詰める。
「どうしてじゃないわよ。あんたボーっとして。なんか変な感じだったわよ」
そう言われて真理子が何か考えている。ほっぺたに手をあててぼんやりと。急速にまた目が眠たくなっていく。
「ちょっと! 起きなさいよ真理子」
今度は机につっぷして本格的に眠りの世界に行ってしまった。頭をチョップしてみたけれど反応なし。そこで私はあきらめる。来週からテストが始まるのに真理子にかまってばかりいられない。授業に集中しなければ。
恐ろしいことに真理子は五、六時間目もずっと寝ていた。休み時間に起きる事も無かった。五時間目の国語の教科書を出したまま、六時間目の英語の授業に突入した。英語はフェミニスト古谷先生だったけれど、真理子のあまりの眠りっぷりに注意をする気が失せたようで苦笑いしていた。真理子は体が弱くて学校をしょっちゅう休んでいるから、大目に見てくださったのだろう。それに真理子は数々の奇行で知られている。先生方も触らぬ神にたたりなしと思っているのかもしれない。
六時間目が終わってホームルームも終わって、まだ寝ている。さすがにほっといて帰るわけにもいかないので無理やり起こすことにする。だけどどうやって起こしたものか。あまりに深く寝ているようなので、無理やり起こしたら真理子の体に障る気もする。そして眠っている真理子はとてもかわいらしく、起こすのがもったいないような気もする。眠れる森の美少女には、王子様以外の人間が手を触れてはいけない。そういうわけで私は、ほとんど人のいなくなった教室で真理子の寝顔をぼんやりと眺めていた。
「今日はこれを使いましょう」
背後から類子の声がした。類子は真理子の妹だ。一学年下の一年生。水の入ったコップとスポイトを手に持っている。
「そんなのどこから持ってきたの」
私は言った。
「いいからいいから」
類子が楽しそうにスポイトでコップの水を吸い上げた。
類子がスポイトでゆっくりと水をたらす。まずは頭のてっぺんに数滴。反応なし。私と類子は顔を見合わせて笑う。次は耳に数滴。全然反応しない。すごいなあ。寝耳に水っていうコトワザ意味ねーな。寝息は立てているので、真理子が生きているのは確かだ。類子が調子に乗って首筋やらおでこやらに水をたらしていく。どんどん濡れていくだけで真理子はいまだ深い眠りの中。
「すごいわ……」
類子がなぜかとても嬉しそうな顔をする。
「五時間目からちょっと変だったけど、ほんとに大丈夫かな」
私は言った。
「大丈夫です。こう見えて姉はけっこうたくましいですから」
類子が今度は鼻の穴に水をたらそうとする。私は止めようとしたが、大丈夫と言って類子が強行した。真理子は顔を横にして眠っているので、類子はスポイトを鼻に突っ込むようにして無理やり水を入れた。これはひどい。
水を注ぎ込んだ瞬間にゴホゴホとむせて真理子が目を覚ました。これ以上嫌な目覚めもそうないだろう。水が気管に入ってしまったのか、真理子が苦しそうにしている。
「お姉様大丈夫? 佐奈さんひどいです。お姉様がかわいそう」
いつの間にかスポイトが私の手に握らされている。びっくりして机に投げ出してしまった。
「違う違う、類子だからね! わたしは止めなさいって言ったのよ!」
私達の言葉が耳に届いているのかいないのか、真理子はいまだゴホゴホ言っている。かわいそうに、と言って類子が真理子の背中をさすってあげている。ひどい妹だ。
「お昼ごはん?」
真理子が寝ぼけたことを言った。
「もう今日の学校は終わったわよ。お昼休みもとっくに終わってる」
私は言った。
そう? と言って、真理子が立ち上がろうとして盛大にすっころんだ。足に力が入らなかったらしい。教室の床に仰向けになってじっと天井を見詰めている。怖い。
「お姉様? 大丈夫?」
類子が姉の顔を覗き込んで言った。
「あれ? わたし立ってる?」
いやいや思いっきり寝てますよ。しょうがないので手をひっぱって真理子を起こす。立ち上がっても真理子は不思議そうな顔をしている。まるで生まれて初めて立ち上がったみたいに。どういう仕組みで自分が立っているのかしら? とでも言いたそうな顔をしている。
「いつにもまして真理子変だけど」
私は類子に向かって言った。類子も相当変だけれど、この姉に比べればずいぶんましだ。
「うーん。あっそうだ。お姉様、風邪気味だったからお薬飲んだんじゃない?」
「どうなのよ真理子」
きょとんとしているがようやく目が覚めたようだ。床に座ったまま、真理子が自分のかばんの中をごそごそやりだした。
「これ、わたしのお弁当箱」
そうだね。
「わたしお昼休みに、お昼ご飯食べました」
なんだこのしゃべり方は。
「それでそのあと、この風邪薬飲みました」
「お姉様、これ全部飲んだの?」
風邪薬の包みが三つ空になっている。成人、一回につき一袋としっかり書いてあるのに。
「なんで三つも飲んだのよ」
私と類子が口をそろえて言う。真理子はいつもこういうことをやる。
「よく効くかと思って」
危ないなぁ。これで体が弱いのだから始末に終えない。
真理子がフワフワと歩くのが気が気でない。危なっかしいので、階段は私と類子で両脇から支えて降りた。
「なんだか楽しいわ」
真理子が嬉しそうに言う。あんまり嬉しそうなので私も怒る気が失せてしまう。薬のせいだと思うけど、うっとりとした表情がとても美しい。
「ほらお姫様。下駄箱につきましたよ」
まだふらふらしているので真理子の手を引いて先導した。しょうがないから靴も出してあげる。すっかり召使をやってしまった。
校舎から正門まで少し距離がある。私が肩を貸して、類子が姉の手を引く。真理子の痛ましい姿を見て、ご学友の方々が声をかけてくださる。
「桐原様? どうかなさって?」
「ええ、少し体調が……」
真理子が苦しそうに答える。苦しいのは鼻に水を入れられたからで、フラフラしているのは風邪薬を飲みすぎたせいなのだが。
「お姉様大丈夫ですか?」
下級生が駆け寄って来る。
「心配をかけてごめんなさい。大したことは無いの」
青ざめた顔で無理に笑って答える真理子。コホコホと上品にむせた。周りの人間はそれを心配そうに見守っている。今むせたのは、気管に入っている水が抜けていないからだ。妹に鼻から入れられた水だ。
真理子はわりと人気がある。長い髪に整った顔立ち。家柄も良い。それでもって病弱。まるで昔の少女漫画に出てきそうなキャラだ。そして我々が通うこの高校は、まぎれも無くお嬢様学校なので真理子を疑う者はどこにもいない。
「それでは……ごきげんよう」
類子が周囲の人に申し訳なさそうに言った。
「ごきげんよう。お姉様、お大事になさってください」
こういう会話が普通に成り立つ。類子も本気で心配そうな顔をしている。これは演技と言うよりも、もはや先ほどのことを忘れているといったほうがいい。やんちゃとはいえ、類子もれっきとしたお嬢様なのだ。
正門を出たところに桐原家の車が待機している。真理子を中に押し込んでドアを閉めた。
「佐奈さん乗っていってください」
類子が言ってくれる。
「ありがとう。でもいいよ。真理子調子悪そうだし」
「姉はいつも調子が悪いんですから。それよりも家でお茶をしましょうよ」
類子はお嬢様のくせに時々口が悪い。
「……。じゃあちょっとおじゃましようかな」
そう言って車に乗り込むと、類子が手を叩いて「嬉しいです」と言った。ここらへんの呼吸が一般市民と違うんだよなあ。
桐原家までけっこう距離がある。三十分車に乗っているうちに、本当に真理子の体調が悪くなってきた。だから言わんこっちゃ無い。
「真理子もうちょっとで着くからね。すぐにベッドで横になれるよ」
私は言った。
「わたしも、お茶したいです」
真理子がフゥフゥと苦しそうに息をしながら言う。
「あんたちょっと熱が出てきてるじゃない。薬の副作用かもしれないし。安静にしないと」
「わたし、ちょっとお茶を飲みます」
ちょっと飲みます、じゃないよ。しかしこうなると真理子はしつこい。ほんとに高校二年生かよ。わがままだなぁ。
「それじゃあ姉様のお部屋でお茶にしましょうね? それでいいですよね?」
類子がなだめるように言う。
「わたし、お茶飲みます」
そう言って真理子は力尽きた。頭がガクッとさがったので一瞬死んだかと思った。最後の言葉が「お茶飲みます」じゃ、ちょっと浮かばれない。
私のひざに頭を乗せて目をつむっている真理子。苦しいからか眉間にしわがよっているけど、寝顔がまた美しい。悩みなど無く健やかに育つとこういう顔になるのだろうか。そっと頭をなでていたら類子の視線を感じた。
「類子も頭なでてあげようか」
笑ってわたしは言った。
「あ、ハイ。あの、あとでお願いします」
顔を赤らめて類子が小声で言った。ぐは。育ちがいいなあ。遠慮しておきます、とか冷静に言われると思ったのに。いや、育ちがいいというのとは違うのかな。素直すぎるというか。これは個人の資質というべきなのか。
無駄に頭を回転させていたらようやく桐原家に到着した。
思った以上に真理子の調子が悪く、ベッドに運んでから医者だ薬だと少しドタバタした。私は早々に退散しようかと思っていたが、類子の視線で常にキープされていたので帰るわけにはいかなかった。
処置が終わったあとで約束どおり、そのまま真理子の部屋でお茶にした。真理子はもはや動けないけれど、類子が三人分のお茶を入れた。こういう気遣いはさすがと思う。
「スポイトなんてどこから持ってきたのよ」
私は言った。
「え? スポイト? なんのことですか?」
類子がきまり悪そうに笑う。そうか、この線で攻めると傷つくかもな。
「真理子は相変わらず無軌道だねぇ。薬を大量に飲んだのは今回が初めてじゃないよね」
「姉は薬を集めるのが趣味みたいです。ピンク色の錠剤を見詰めてうっとりしていることがあります」
「それで気に入った薬を」
「はい。パッとたくさん飲んじゃったりして。別に自殺願望があるわけではないです」
それはよく分かる。真理子は基本的に性質が明るい。体が弱いのに、それに抵抗するかのように無茶をする。
「真理子の性格だと、薬を取り上げるわけにもいかないしね」
私は言った。
「一回やったことがあるんです。両親が心配して。そしたら普通の薬まで飲まなくなってしまって」
「あーそれは真理子らしいわ。ちゃんと自分のカードを切るよね。勝負してくるというか」
ふふっと笑って類子が姉の方に視線を向けた。真理子は少し青ざめた顔でベッドに横になっている。
「だからわたしも、あまり遠慮しないでいたずらしたりするんです」
そこは遠慮したほうがいいと思うぞ。
白い壁と高い天井。広い部屋の真ん中に大きなベッドが置かれていて、それに寄り添うように机と本棚が配置されている。真理子はベッドで過ごす時間が長いだろうから、すぐに手が届くような家具の配置になっているのだろう。鏡台はお姫様が使うような豪華な作り。飲み物やお菓子をこぼしたら掃除が大変そうなフカフカのじゅうたん。色々メルヘンチックだけれど重厚な感じの部屋だ。要するに金がかかっている。
「素敵な部屋だね、真理子」
返事は無い。真理子は静かに寝息を立て始めたようだ。
「じゃあそろそろおいとましようかな」
私が言うと、類子が残念そうな顔をした。
「佐奈さん、試験前にうちで勉強会をしませんか? 姉も喜びます」
美人に熱い視線で見つめられると断れない。
「じゃあそうしようか。でも私はあまり教えられないよ。成績悪いし」
大丈夫ですわたしが教えます、と類子が笑って言った。この姉妹は成績が良い。特に類子は学年トップクラスだ。真理子も頻繁に病欠しているくせに私より成績がいい。
「気分を害したなあ。でも本当に教えてもらおうかな」
「よろこんで。お待ちしております」
類子が無邪気に笑った。姉に似て笑顔が素晴らしい。この姉妹の美貌は本当に見飽きない。
車で送ってくれるというのを断って私は駅に向かった。
真理子は私の姉のお気に入りだった。姉が三年生の時、私たちは一年生。真理子は私の姉の、いわゆる学園内妹だった。真理子は「お姉様、お姉様」と言って姉に懐いていた。私の姉はさばさばした性格をしているので、ゆっくりした真理子とはわりとお似合いだった。私はまあその姉の本当の妹なわけだが、二人を見ていて良い姉妹だなあと思ったものだ。姉と私は別に仲が悪いわけではない。でも姉妹揃ってあっさりとした性格をしているので、真理子のような愛嬌のある身内は新鮮だった。あくまで学園内身内だけれど。
姉が高校を卒業して、今度は私が真理子の面倒を見るようになった。同じ歳なのに、どうしても私が姉のようなポジションになってしまう。今年真理子の妹の類子が入学してきて、関係がやや複雑化した。複雑と言っても愛憎絡むというわけではなくて、姉と妹という区別に関して分かりにくくなったという事だ。真理子は情緒不安定だし、類子も気分屋なので日によって力関係が変わったりする。三人でいると誰が上なのか下なのか、微妙なことになる。面白いと言えば面白いけれど、けっこう面倒くさい。
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