16

※※※※

もうじき

あの日が来る


「あの日」?


何の日だ?


じきに来ることは分かる


だが一体何が?


急がなければならない


何をしなければならない?


約束したんだ


誰とした?


僕には

そんな相手はいなかった


違う

のだ


ではない


本当にそうか?


何を忘れている?


何を思い出したくないんだ?


このままでいい

その筈だ


変わらない


諦めればいい


駄目だ

僕だけの問題じゃない


一体

僕は

何がしたい


ぬるま湯のような

諦念から抜けてまで


何を

思い出したいんだ?

※※※※




「残念ながら、透明人間の正体ではないッス」



「ああそうかよ、言ってろ」

 彩戸広助の言葉を、暗宮進次は興味無さげに聞き流した。

 暗宮は自分のことを、今ほど馬鹿だと思ったことは無い。

 たった一人に、いいように踊らされ続けていた。

 考えてみれば当然の結論に対し、何故か盲目になっていた。答えは最もシンプルだったのに。

 本当にもう、心の底から馬鹿馬鹿しい。

 暗宮の推理の根本が、一つひっくり返ってしまった。

 案内人が敵だったとは、迷子にもなる筈である。なんだかんだ、暗宮はこの後輩の能力を信用していた。どうも暗宮の信は、裏切られる傾向にある。

 ここまで本当に無駄な時間を過ごしていた。暗宮にはその自覚がある。

 彩戸の証言を取っ払うだけで、いらない謎が幾つも消せた。


 彩戸は最初から、噂話の聴取などしていない。

 暗宮に伝えたのは、彩戸が彼を誘導するのに、都合の良い情報だけだ。

 彩戸は自分から消えた。暗宮より優先されて消されたのではなく、身を隠しただけだ。

 機密の筈の公安の情報も、悪ふざけで出て来たなら肯ける。本物の情報に噓くさく脚色して、暗宮をおちょくっていたのだ。

 彩戸は監視役だった。3年前の事件を調べ、暴走し始めた暗宮を、最も身近で見張る看守。


 やはり思った通り、こいつは混乱する誰かを見て、面白がるのが似合っている。


 それにしても——

「まさかこいつにしてやられるとは」

 無意識に漏らしてしまったのかと、僅かに困惑し身震いする。声の方へ視線を上げると、こちらを見下ろす目と目が合った。黒の中で光るそれは、ニイィと意地悪く弧を描く。

「的中ッスか?ッスよねえ?先パイ分かりやす過ぎるんス。分かりやすく、オレを見下してましたッスよねぇえ?」

「はっ、被害妄想か?自意識過剰なんじゃねえか?思ったより繊細なんだな?」

「そうやってやり過ごせる段階は、もう終わってるんスよ。先パイはデッドラインを踏み越えたんス。つまり今のアンタは死人ッス。能無しなのに、手柄に前のめりになるからこうなるんスよ」

 随分と言いたい放題だ。何か恨まれるようなことをしただろうか?身に覚えのない暗宮は頭を抱えようとする…が、両手足が縛られているのでそれも叶わなかった。

「てめえのそれは、趣味ではなく仕事だってことか?」

「先パイと違って、公私はきっちりと分けられるタイプッス。仕事はこなしつつ、楽しめるところで楽しむのがオレッスよ」

「その割には、俺への攻撃に執着しているようだが?」

「…何の話ッスか?」

「とぼけんなよ、俺を煙に巻くだけなら、不要なプロセスが多すぎる」

 そう、彩戸が消えなければ、暗宮は捜査を打ち止めていたかもしれない。少なくとも、彩戸の目にはそう見えていた筈だ。新たに謎を増やして、暗宮を奮起させた理由が分からない。



「…お前があんなことするをからだよ」

 


 瞬間、彩戸の声が冷めた。


 平時の軽妙な口調は消え、目は直線的に、鋭角的に暗宮を刺し貫く。

 一見無表情なその貌には、怒りと失望が入り混じっていた。


「我々を挑発しただろう?だから上から命令が下った。『こちらからも明確に動いて見せ、その反応次第では始末しろ』と。俺は違うって言った。お前はただ馬鹿なだけだって。自分で何してるのか分かってないだけだって。でも、切羽詰まっていたのは我々も同じだった。お前は、結局引き返すことなくここまで来てしまった」


 暗宮にはうんざりである、彩戸の態度はそう言っているようだった。

 彼の怒りの原因は理解出来ない。が、同時に彼の話から分かったこともある。

「目立って見せて、出方を窺う。成程、俺達は奇しくも同じことを考えていたワケだ。気が合うなあ、ええ?おい」

 彩戸は、深い、ただ深い溜息をつき、面倒そうに暗宮を見やる。

「変わらないな。そうやってこっちをたかぶらせて、それで引き出せると思ってる。有利になると思ってる。それが通じる場所じゃないんだ、いい加減理解しろ」

 今度は憐れむような目で暗宮を見る。


「お前には何でも喋ってやる。それで精々悦に浸ればいい。『本当のことが知れた』などと。だけど全部が、全くの、無意味だ。お前は誰も裁けない。お前は何も暴けない。何故ならお前は、ここに居るのだから」


 彩戸はそう言って、来ていたロングコートの内側から、黒く小さい何かを取り出す。

「我々が暴力的手段に訴えることを予測したところまでは、まあ及第点。だけどその対策が最悪だ。こんなもので全てに対処できるとでも?いいや、そもそも抜かせて貰えるとでも?武器も碌に持てないこの国の兵士として、我々がどれだけの死線を超えてきたか。その意味を理解出来る想像力すらないのか?」

 「本当に、最悪だ」そう言って彩戸がこれ見よがしにぶら下げているのは、暗宮の“お守り”、SKURA M360J、日本警察御用達の回転式拳銃リボルバーである。

 ルールを曲げるのは言語道断だ。言語道断だが、対策も無しに敵の本拠地に乗り込める程、暗宮は勇者ではなかった。その為に無理を通して、非合法の手段で手に入れたものだ。

「警察内部にも、『銃を持ち出していない』と思わせるために、わざわざ刑事時代の伝手を使って、業者に渡りをつけて…」


 そこでこちらに銃口を向けて、引鉄ひきがねに指を掛ける。


「なあんで、なぁぁぁあああんで!そこでケチるんスかあ!?9mmミリ5発って、そりゃあないでしょ!威力を上げるよう改造をお願いしてたみたいッスけど、じゃあ大人しくPDWでも買えばいいじゃないッスか!!そこまでいかなくてもUZIとかFMGとか!ナメてんすかあ!?ああ、そう言えば先パイはナメてたッスね」

「安全性が良いんだよ。道具くらいは、信頼したいもんでな」

「ご存知ないッスかあ?リボルバーでも、持ち方間違えたら指が吹っ飛びますし、遅発のせいで大惨事になったりするッスよ?」


 弾丸の出口が額に近づく。指に力が込められていく。

「それに先パイ、9mmだと、人はなかなか死なない、どころか動きを止めないッスよ。実感してみるッス?」

「おいおい…まだ…撃つなよ…?聞きたいことが…、あるんじゃあ…ないのか…?」

 冷や汗を流しながら、暗宮は不敵に笑って見せる。

 実際のところ、絶体絶命である。プランはもう何も残っていない。

 彩戸は、そこで噴き出すように笑って、銃口を下げる。

「クックッ…先パイ、面白過ぎッスよ。命乞いすらカッコつけないといけないんスか。まあ、まだ撃ちませんよ。まだ、ね。オレは無駄だと思ってますが、先パイへの尋問——いや、拷問かな?——はまだ残ってますから」

 暗宮はホッと息を吐く。実際、今起こした撃鉄を打たれていたら、そこで完全に詰みだった。

「お前、さっき何でも教えてくれるって言ったよな?」

「言ったッスねえ…それが何スか?」

「てめえらは、“吟遊”か?」

 そこで彩戸は、少し虚を突かれたような、感心したような表情を見せた。

「どうしてそう思うッス?」

「手口がな、見えてきたんだよ。人の口には戸が立てられない。だから、その流通を管理しちまおうってことだろう?」

 人一人が消えた事件。

 何の説明も無しに、「そんなことはありませんでした」は通らない。

 だから、分かりやすいストーリーを与える。

 

——透明人間に連れ去られました。

 

 カバーストーリー一つで、人の興味をコントロールできる。その事件はもう、馬鹿馬鹿しい話としてしか語られない。

 どんなに強引でも正体が語られれば、人の好奇心を抑制できる。

 理由付けが阿保臭くあるほど、追究者を萎えさせる。

 “正体不明の何か”より、“透明人間”であるほうが、“実際”を隠蔽するのに好都合。


 不可視不定形の怪異にも、名前と形を与えれば、掌握したと錯覚できる。

 

 錯覚させられる。

 

 何も分かっていないのに、全てを知った気になってしまう。


「“吟遊”なんて名前も、それをわざわざ人口に膾炙させているのも、むしろ見えなくするためだ。噂話として広めときゃあ、信じるのは頭のおかしいやつだけだ。他のまともな人間は、それを一笑に付す。そして、実際にそういった存在の影を見ても、噓っぽく見えてしまう。そりゃそうだ。昨日読んだ絵本とドンピシャな展開が起こったところで、素直に受け取れることなど出来やしない。夢でも見たと思うか、絵本に影響された自分を嗤うか。どちらかだろう」

 だからあの時、彩戸は暗宮の前でその名を出した。

 同時に、「公安」という真に迫った「謎の組織」も登場させた。

 暗宮の意識は、見事にそちらに釣り上げられた。


 彩戸は緩慢な動作で、見せつけるように手を叩いた。

「ブゥラボー!流石先パイッス。見事!我々の本質の一端に辿り着いたッス!」

 そうして暗宮に向き直ると——


「で、だからどうした?」


 またもや纏う大気を凍てつかせる。


「アンタはこれから死ぬんだ。さっきの上司の様子を見たか?生まれてきたことすら後悔させる勢いだぞ?」

 暗宮には、ここを打開する手段が無い。

 この場で得た情報を、持ち出す術がない。

 ここで、全てが終わってしまう。

「さっき言ってたな?アンタを馬鹿にするためのような動きが多いって。その通りだ。オレはアンタが大っっっっっっっ嫌いなんだよ。アンタみたいな、真実を暴くことしか出来ない分際で、現実に向き合おうとしない愚鈍で下劣な、二酸化炭素排出機。見てるだけで吐き気がする。聞いてるだけで内耳まで腐る。“丹畝の猟犬”だって?成程お似合いだ。決められた行動だけは得意な、三流以下の脳死野郎め」

 彩戸の瞳は昏い。

 ただただ深い、闇夜の海溝のように。

 憎悪だ。

 そこにあるのは、あらゆる色で塗り潰した結果、生じてしまった憎悪に他ならない。

「ドン・キホーテって知ってるか?あれは旧態依然とした騎士気取りが、小説と現実を混同し、無様な姿を繰り返し晒す話だ。騎士道だとか浪漫だとか、そういう因習を風刺したものなんだよ」

 「まさに今のアンタみたいな奴のことだ」と、彩戸は暗宮をそう評する。

「どうしてあんなことしたんだ。それだけは教えて貰う。どうして——」


「喋り過ぎだ、彩戸!」


 いつの間にか退室していた、一人目が戻ってきた。

「そいつに情報を与えるな!」

「えぇー、いいじゃないッスかぁ。『冥土の土産』ってヤツッスよぉ。」

 彩戸はいつも通り、軽薄な男に戻っていた。

「だとしてもだ。お前はいつだって余計な事をする。不要な行動は避けろ」

「はぁい」

 やる気なさげに返事をした彩戸は、暗宮を振り向いて人懐っこい笑みを浮かべ——

「ということで先パイ、名残惜しいッスが、ここでお別れッス」

 

 何の重さも感じさせない、死刑宣告を一方的に下した。


「精々何秒長生きできるか足搔いて下さいッス。あ、質問にはちゃんと答えるんスよぉー。どこまで知ってしまったのか。どこから知らないのか。どのレベルまで踏み荒らしたのか。正確に知る必要があるんスよ。なるべく素直にお願いするッス。ける時くらいは——」


——往生際良く、ね?


 「ではさよならー」と軽く手を挙げ、暗宮を置いて去っていく。


 暗宮は追うことも、声を出すことすらできない。


 何を言えばいいのか、分からない。




 死を前にして、何を。







 そこからは、全てが痛みに塗り潰される。

 

 彼らはどこを刺せば殺せるのかを理解している。

 どこなら死なさずに穴を開けられるのかを。


 何を求めるのか分かっている。

 何が厭なのかを分かっている。

 

 キリキリ


 キリキリ。

 

 再び目隠しをされ、その音しか頭に入らない。


 何をするのか、いつ襲い来るのか、備えることすらできない。


 カチカチ


 カチカチ。

 

 自分の絶叫が響き渡っている。

 

 なのに彼らが“道具”を用意する、その雑音が耳から離れない。


——…ん…い?


 “黒幕”とは、


 「名前」と同じように、


 無秩序を整頓する道具に過ぎない。


 作られた集団幻覚。居もしないもの。

 

 だがもし、存在したら?


 この混沌を演出する者が居たとして、


 そいつは、どこへ向かっているのか?


 粘っこい絶望が、釜から溢れる溶鉄のように、心身を蝕み爛れさせる。


 永遠に続く、逃げ場の無い断罪。


 どこにも落とせない、へばり付くような問の数々。


 こちらを観察する、不躾ぶしつけな視線。


 痛い。

 

 熱い。


 まだか。


 いつまで


 こんな


 ああ


 見られるのは、


 厭だ。


——せ…ぱい?


 まだ終わりは


 口の中に砂利が詰まる。


 胸の底に汚泥が居座る。


 それらが積もるほど体が重くなり、もう二度と立てないのだと思う。


 内側の、最も柔らかい部分を削られていくような不快。


 やめろ。


 見るな。


 俺の中から出ていけ。


 まだ苦しめるのか。


 また貶めるのか。


 だったら



 お前も——

「先輩!」



 そこで


 


 意識を引き戻した。


「先輩、何に心奪われているのか知らないですが、のめり込み過ぎです。一回こっちを見てください」

 声のする方を向けば、深い黒曜に、大きな瞳に吸い込まれる。

 その人形のような見目に、見惚れてしまう。

 黒の装いと白く儚げな肌の対比が、その存在を曖昧なものとしている。だが至近にある顔から吐き出される呼気、俺の顔を挟んだ両手袋越しの体温、それらが、彼女が幽霊や妖精ではないと示している。

 いつも通りのしかめ面。

 いや、よく見ると眉の端が歪んでおり、心配してくれているのだと分かる。


——何故、そんな機微まで分かった?


 「いつも通り」?


 まるでしばらく、行動を共にしていたみたいに。


 ああ、そうだ。


 俺はこいつと、事件を終わらせに来たんだ。


 こいつは探偵、


 日下真見。


 俺は


 日高創。



 そこで俺は、


 ようやく現状を思い出した。

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