10

※※※※

あいつは——

何かを希求していたのか


千代子が行きたい場所


やりたいこと


欲しいもの


好きな娯楽


その一切を知りたいと思って


余さず与えようと決めて


だって僕は

こんなにも多くを受け取ってしまったから


僕は千代子に

全て捧げる責務があるんだ


その決心を思い出せ


あの日

身体の間接に油を注されたように

感性の脈動が明確になった

僕の第二の生誕の瞬間

前にも後にも一度きりの受肉


その時


あいつは


何を願った


行きたい場所


やりたいこと


欲しいもの


好きな娯楽


そうだ


もうすぐ


“誕生日”だった

※※※※




「透明人間の話はやめようぜ、おっさん」



 古和気こわけ三花さんげは声を潜めて暗宮を押し止めた。 

「頼むぜ、組長おやじに知れたらマズいんだ」

 

 古和気は東龍とうりゅう日比ひひ組の構成員である。まだ若く、青い坊主頭と鼻のピアスで精一杯凄んでいることが窺えるが、眉尻を下げて懇願するその姿からは、ひと欠片かけらの威厳も感じない。

 暗宮は基本的に、法から外れた人間に温情を与えない。そんな彼が古和気に心を許されるようになったのは、どう見ても奪い・騙し・喰らい合う世界でやっていけるとは思えないこの青年に、付き纏っては足を洗うよう説得し続けた結果である。

「まあそう言うなって。今まで何度も面倒見てやってきたンだから、たまには恩の一つでも返せや」

 しかし今、暗宮は古和気の“組員”としての立場を利用しようとしている。三絵図商店街を前にすると、何故裏社会が手を引いていくのか。「極道に詳しい情報屋」が役に立たないと分かった以上、「極道本人」に直接訊こうという魂胆である。



 暗宮は、焦っていた。


 彩戸の行動が、客観的に証明できない。

 彼が行った捜査の痕跡が、一切残っていない。


 人の記憶を操作できるか?

 この問への答えは、「部分的にイエス」だ。


 人は、自ら記憶を封じ込めてしまうことがある。

 思い出したら、自分を保てなくなる何か。

 崩壊を避ける為の防衛本能。

 だからある特定の記憶を、何らかの苦痛と結び付け、思い出す事を忌避するように、誘導することで実現できる。


 「一人の人間に」、「たっぷりと時間と労力を掛けて行えば」という条件付きなら。


 今回彩戸は、「無作為に選んだ複数の同僚に」話を聞いた。

 その「インタビュー」から、轍の聞き込みまで、どう長く見ても一週間程。

 その間に全員を特定し、一人ずつ記憶処理を施す。

 漏れが許されぬ完璧な仕事。


——不可能だ。


 それが暗宮の結論だ。

 そうなると、彼には考えが及ばない方法がある、そう考えるしか無くなるわけで。

 彼がどれだけ頭を捻れど、時間の無駄だと言い切れてしまう。

 

 よって、彼はまた足で稼ぐ。

 気になることを、知ってる奴に、片っ端から、聞いて回る。



「おっさん、他のことならなんでもやるよ。メシだってファミレスまでなら奢るし、罰ゲームなら、熱唱を動画サイトにアップすることもやってみせる。なんなら今度のブツの取引の予定を、うっかり漏らすのだってイケるぜ?」

「全部興味ねえな。俺が知りてえのは、てめえンとこの組がどうして、あんななんでもねえ場所にビビッてるかってことだけだ」

 相当危ない橋を提案したが、あえなく一蹴された古和気は、「そりゃないぜ」と頭を抱えた。彼の中では、組の利益を売り渡すことよりも、あの商店街について語る方が恐ろしいらしい。


「おい、おいおい聞け。いいか?バレなきゃいいんだよ。てめえが喋ったところでそれが証拠になるわけじゃねえから、裁判で証言とかはねえ。ただ方向性を見定めたいだけなんだよ」

「どうしてバレねえって分かる?今ここでこうしていることも、どこかの誰かにはお見通しかもしれねえんだ。俺は服従の姿勢を貫くぜ」

 

 古和気の首にはもう既に、何者かの首輪が付いている。

 

 ではそれは何者か?


 古和気は簡単に口を割りそうにない。死の危険性すら視野に入れ、命の懸かった沈黙を守る。少しの痛みや甘い益では、彼の心はなびかない。


「じゃあ、要らないな」


 ならばより近しい場所に、死に勝る痛みを喚起させるだけ。


 暗宮の出した冷たい声に、古和気は身体を硬直させる。

 その言葉の意味が分からない。その心が見通せない。分かっているのは暗宮の目が、奈落のように深く昏いこと。


「お前が“本当”を見ないなら、その目は要らない」


 暗宮は止まらない。


「“透明人間”が見えちまうなら、それは役立たずなだけだ。いや、むしろ見えない方がいいまである」


 暗宮は止まれない。


「じゃあ、その目は要らないよな?」


 暗宮は確かに聞いた。

 彩戸は確かに言った。

 それは決して消えない事実。

 事実が曲がることはない。

 そのルールは覆らない。

 透明人間などどこにもいない。

 過去を消すことなどできない。

 その存在を認める全てを許さない。


 否。


 許せない。


 それを認識してしまうのなら、見過ごせない欠陥である。

 そこで発生したマイナスを、暗宮進次はこぼす気は無い。


——必ずゼロに戻してやる。

「待って待って待って!分かった、分かったから!」


 電気椅子まで引き摺られる死刑囚のように、古和気は鬼気迫る命乞いをする。

 このまま意地を張って答えなければ、実行しかねない苛烈さがあった。

 危機察知能力が野生動物並みなのが、古和気三花の良いところである。


 古和気の認識は正しい。暗宮進次には時間が無いのである。


 彩戸広助が語った手掛かり。それが全て消えている。無かったことにされている。

 その為暗宮は、一躍いちやく最有力容疑者である。ここから先、自由には動けなくなるだろうし、実際ついさっき尾行を撒いてきたきたところである。

 このままでは、警察の上層部がこの事件を土中に葬るためのシャベルを手に入れてしまう。被害者と最後に会っており、真実を語らないばかりか怪物のせいにする。そんな狂人が報道されて、少ししたら忘れ去られる。

 容易に想像できる展開である。

 故に暗宮は手段を選んでいられない。いつ逮捕状を持った捜査官が現れるか分かったものじゃない。


「俺から聞いたってことは死んでも喋んねえでくれよ?」

「それでいいんだよ。最初っからそうしてくれ」

「うるせえ!こっちも首が落ちるかもしれねえって瀬戸際だ。それで、何を聞きたいんだ?知ってると思うが俺は下っ端だぜ?大した情報は持ち合わせてねえよ」

「とにかく、何があったかが重要だ。それすら分からないんじゃお話にならねえ」


 そうして古和気は、「俺にも分からねえんだよ」と言いながらも、ようやく重い口を開いてくれた。



「どこから話しゃあいいのか…あれはそう、近隣の脅威だった緒吾おわれ組が、あそこから手を引いたって噂が舞い込んだのが始まりだった筈だ」


 その時、日比組は活気づいたという。無理もない。対抗勢力の領土をノーリスクで手中に収めることができるのだから。

 三絵図商店街は、オイシイ土地認定されていたらしい。時化しけた場所だと思われていたのが、30年程前に突如羽振りが良くなり、安定してそこそこのショバ代が手に入る、そういった穴場へと変貌した。

 そんな場所を取れるチャンス、有無を言わさず飛びつくに決まっている。

 善は急げとばかりに、その日の内に三絵図商店街侵攻作戦は開始された。

 商店街内に事務所が構えられるような雑居ビルを見繕い、そのうちのワンフロアを丸々確保し、その足で商店街の運営委員に挨拶に行ったそうだ。

 その行動力自体は警察組織にも見習ってもらいたいものである。


「順調だった…と思う。少なくとも住民から大きな反対は無かった。というより、なんだか『どうでもいい』って感じだった」

「ヤクザがやっと居なくなったと思ったら、新手のご登場だぞ?『どうでもいい』ってのはどういう了見だ?」

「さあ…ただあいつらは商店街のルールを決めていて、それに従ってくれれば大人しく共存するって話だった。事を荒立てたくないようにも見えたな」


 そうして、最初の接触自体は和やかに済んだらしい。事務所も無事に立ち上げられ、日比組はおいしい話をものにした…筈だった。

「おかしくなったのは、うちのバカが取り決めを破ったあたりだ」

「その“取り決め”ってのは?」

「色々あったらしいけど、そいつが破ったのは、『最も恐ろしいものを名乗ってはいけない』みたいな感じのやつ」

「…なんだそりゃ?」

 急に宗教染みてきた。というより、子どもの間で流行るまじないの類だ。

 「後ろを振り返ってはいけない」や、「その間口を利いてはいけない」などといった、お決まりの禁止事項。怪談に添えられる花、それ以上の意味は無い筈である。

 商店街で重要規則として大真面目に運用されているなんてどうかしている。


「それは…『俺が一番怖い』みたいな意気がり方をしたら罰せられる、ってことか?」

「どんなペナルティがあるのかははっきりと教えられなかったらしくて、それにそのルール自体口頭で伝えられるのみだったみたいで、だからこそみんな軽く見てたんだと思う。それで、あの商店街でチンピラと揉めた時、組のやつが言っちまった」


——うちの組はここらでいっちゃん怖えぞ?


 それが、歯車が狂いだした瞬間だった。


「そいつ、暫くして音信不通になったらしい」

「な…!?」


 たった、

 たったそれだけで、

 あの商店街に潜む“何か”の標的にされたと言うのか。


「しかし待て、それはいつ頃の話だ。そんな事件少なくとも、俺が捜査一課に居た時には聞かなかったぞ?」

「時期はあんたが言ってた殺人のすぐ後。でもヤクザが身内の失踪に、警察頼れるかよ。そいつの家族も何も言わず引っ越しちまって、結局捜索願いなんか出す奴いなかったんだよ」


 成程、道理である。それを契機に日比組は三絵図商店街から完全に手を——

「いや、やっぱりおかしい。てめえらみてえに『嘗められたら終わり』って商売してるところが、その程度でなんで引き下がる。決まりを破った奴がやられたんなら、それを守らせようとしている奴ら、つまり商店街の連中が怪しいってくらいの目星は付いているんだろ?どうしてそんな大人しくしてた?」

「大人しくなんてしてねえよ」


 日比組は極道である。暴力と恐怖が全ての支配機構。ならば当然、「恐ろしいもの」としての地位は脅かされてはならない。

 彼らは商店街会長宅に乗り込んだ。誰の差し金でどいつが動いたのかはっきりさせるために。

 その時の怯え切った会長の返答が——



——“フカシ”の判断を疑ってはならない



 という別の“決まり”だったという。


「不可視…?透明人間のことか?」

「さ、さあ、知らねえよ…」


 その頃から、組の中で“鬼”や“透明人間”の噂がまことしやかに語られ始める。

 脅かす側である筈の暴力団員達が、完全に「呑まれていた」。

 次は自分達かと戦々恐々としていたらしい。

 それでも、組長の息子で若頭の日比いさむは、追及の手を緩めようとはしなかった。

——ガキの遊びみてえなちゃちな決まりに、兄弟消されて堪るかい。ケツ捲ったら、男が廃るわ。

若頭カシラはそう大見得切って、商店街中でおどし回ってたってよ。犯人を嬲り殺して、埋めるか沈めるかしてやるとも言ってたって。その若頭カシラが——」


 消えた。

 足取り一つ残さずに。


「その時、商店街の連中が、事務所を見ながらヒソヒソ話してたのを聞いちまったんだと。そいつら、なんて言ってたと思う?」


——正体を追ってはならない

——“フカシ”の判断を疑ってはならない

——最も恐ろしいものを名乗ってはならない

——馬鹿だねえ

——恐ろしいねえ

——きっとあれにやられたんだ

——鬼に


——透明人間に



「もう、ダメだった。身内も身内だったから、カタギの誰かが通報してくれることも期待できない。自分達から泣きつくこともできない。こっちからは探ることもできない正体不明の何かに、ずっと怯えながらやっていかなくちゃならない。そんな状態で、そこら一帯の王様気取ることなんてできやしねえ。何が原因で“そいつ”の逆鱗に触れるか分かんねえ」


 日比組は逃げるように撤収したのだという。

 そして今も、あの商店街の話題は禁忌タブーとなっている。

 「沽券に関わるから」という理由だが、実際のところ、未だに恐れているのだ。



 “それ”について語った瞬間、どこかに連れ去られてしまうのではないか…と。



「だから、俺もおっさんも危ねえかもしれねえんだぜ?こんなところ、もし見られでもしたら…」

「馬鹿言うんじゃねえよ」

 「馬鹿言うんじゃねえ」と暗宮は繰り返す。

 幼子に言い聞かせるように。

 破れた夢を振り払うように。


「なんも分からねえだろ?」


 古和気はそう言って退散したが、その怪異譚は形を結んだ。


 方針は、決まった。


 まとが、見えた。


 失踪事件の引鉄ひきがねは、あの商店街の不文律。


 ならばそれを作った者は?

 一体如何なる勢力か?


 狙うのは、あの商店街の運営メンバーだ。


 規則が犯した過ちに対し、糾弾されるのは立法者。


 暗宮の鼻が言っている。


 失踪。

 殺人。

 化物。

 暗黙。

 律法。

 統制。

 監視。

 恐慌。


 あの場所には何かある。

 掘れば必ず、臓物をさらけ出す。


 だがそれには手土産が必要だ。

 この前の二の舞、それでは意味が無い。

 使い潰せる程に、時間に余裕は無い。


 武器が必要だ。

 問題は、どこで調達するか。


 一箇所だけ、当たるのを避けてきた「可能性」がある。

 そこは、これまでとは様相を異にする。

 死地たる虎穴。

 敵地たる楼閣。

 相応の覚悟を要する一歩。


 サンシ製薬。


 暗宮を追放した一味の一角。

 或いはその総本山。


——さあて、どこから突き崩してやろうか。


 暗宮は、震える手足を意識して押し進める。


 前へ前へ。

 

 静止の意向など、かすめた傍から置き去りにする。


 五体を伝わるのは怖気おぞけではなく——


 武者震いだと、


 暗宮は吠えた。

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