思春、くちびる

カネコ撫子

思春、くちびる


 隣に座っているあの子は、昨日キスをしたらしい。

 いつも以上につややかな気がするのはそのせいだ。僕の胸を吸い尽くしてしまうぐらいの、大きくて柔らかそうな唇。

 クラスメイトの女子と妄想で遊んだ程度の経験しかない僕にとっても、あまり想像ができなかった。大人しそうなこの子が、本当に誰かとキスするなんて。


「………あ」


 昼休みの購買で、たまたま一緒になった。無視することもできたけど、僕も3カ月後には高校生。男子特有の見栄っ張りは捨てたつもりでいる。


「よう」


 声を掛けると彼女は少し驚いた顔をして、やがて僕から顔を背けた。無視されたわけじゃないけど、嫌な感じは否めない。


「なに買ったの?」


 あまり購買を使わない僕にとって、それは関心の一つにしか過ぎない質問だった。

 場を繋ぐことなんて考えてもいなかったし、彼女がこの場から立ち去っても何とも思わない。


「シャー芯」

「へぇ」


 だから、すごく素っ気ない返事にしかならない。ここで「0.5派なんだ?」とか言う方が気持ち悪い。

 彼女に目が行く。ピンクの小銭入れから100円玉を取り出している。購買のおばちゃんを見上げながら、ほんの少しだけ微笑んだ彼女は、やっぱりどこか色っぽい。

 この子は昨日キスしたらしい。その相手も気になるけど、気にならない。何よりどんな味がしたのか、と思ってしまう自分が少し嫌だった。


「君は何を買うの?」

「え、僕?」


 質問に質問で返してしまった。狼狽えたつもりはなかったのに、まさか聞き返されるとは思ってもいなかったから驚いただけだ。


「僕はスティックのり」

「いつも使ってるもんね」

「うん」


 授業でしか使わないけど、彼女の目にはそう映っていたらしい。別に間違いではないし、否定したところで話は弾まないから頷いて終わらせた。

 購買には僕たちしかいなかった。だから前に立って話していても急かされることはない。おばちゃんも暇してたみたいで、僕たちの様子をチラチラと伺っているように見えた。


「なら待ってるよ」

「あ、そう」


 それは平静を装ったただの照れ隠しだった。ドキッと胸が痛くなって、耳が熱くなっていく感覚。とあまり話し慣れていないせいか、素っ気ない返事で自分自身を誤魔化すことしかできない。そんな自分が嫌で仕方なかった。


 チェーン付きの財布から100円玉を取り出して、おばちゃんに差し出す。「男の子はそういうの好きだね」なんて笑われたけど、周りが使ってるから僕も使っているだけだ。

 スティックのりを学ランの胸ポケットにしまう。購買に背を向けると、彼女が後ろで手を組んで待っていた。


「戻ろうよ」

「うん」


 昼休みはまだ終わりそうにない。だから本当は図書室にでも行きたい気分だった。

 でも僕は彼女の隣を歩くことにした。ここから教室のある4階まで階段を登るだけ。不思議とそれでも良かった。


「でもホント好きだよね。男子って」

「何の話?」

「財布だよ。そういうの、カッコいいかな」


 別にカッコいいとは思っていない。ただ二人続けてバカにされた気分だったから、彼女に同調はしなかった。


「君がそれだけ大人だってことじゃないの?」


 ちょうど1階と2階の間にある踊り場に足を置いた。僕が一足先に進もうとすると、隣にいた彼女が居ないことに気づいた。でもその疑問はすぐに解決する。踊り場で一つ息を整えて、僕のことをうっすらと見上げていたからである。


「なにそれ変なの。私は子どもだよ」

「ん、まぁ、真に受けないでよ」

「分かってるけど」


 それは分かっていない時の言い方だ。語気は強くて僕のことを突き飛ばしそうな勢いで隣に並ぶ。

 一段、また一段と足を上げる。この三年間で背が急激に伸びたから、段の高さが低くて歩きづらい。

 2階は一年生の教室がある。他の階に比べて声がよく響く。この時期になると調子に乗りやすくなるからかな。僕たちもそうだったのかと考えると、小っ恥ずかしい気分になる。

 あの頃は先輩がひどく大人に見えた。その立場になってみても、後輩たち一年生はまだまだ小学生みたいなモノだ。


「もうすぐ卒業だね」

「うん」

「あっという間だったなぁ。思ってたより」


 廊下を勢いよく駆ける後輩たちを見ながら、彼女はしみじみと言葉を絞り出した。そんなセンチメンタルな気分ではなかったけど、この子を見ていると触発される自分が居た。

 三年間で得た物は何だろうか。恋人ができたわけでもないし、男友達がすごく増えたわけでもない。卒業したら、きっと疎遠になるような付き合いしかしていないから。


「そうだね」


 寂しそうな横顔を見たくなかったから、生返事をして階段に足を乗せる。廊下を走ってた生徒への怒号が聞こえたから、長居したくはないし。


「待ってよ」


 僕に気づいた彼女は、男にはない特有の甘い匂いを振り撒きながら隣に並ぶ。言い方がすごく色っぽくて、ゴクリと喉が鳴った。

 特段可愛いと思ったことはないのに、キスをしたという事実が僕の目をおかしくする。いや、そもそも事実かどうかも分からない。ただの噂かもしれない。


「寂しくなるね」


 その言葉にどういう意図があるのかは分からない。ただ、僕の心を掻き乱すのには十分だった。

 上から降りてくる女子とすれ違っても、彼女みたいな甘い匂いはしない。気の所為せいとかじゃなくて、僕の嗅覚は驚くほどに反応しなかった。


「なにが?」

「君と離ればなれになること」


 胸は痛んだけど、すぐにおさまる。こんなにも分かりやすく揶揄からかわれるのも久しぶりな気がした。イラつきよりも、どことなく嬉しいと思う自分が居た。


「はいはい。そうだね」

「素っ気ないなぁ」

「別にそういうんじゃないよ」

「そう?」

「うん」


 そもそもそんなことを言い合える間柄じゃない。隣の席に座っているというだけで、普段からすごく喋るわけでもないのに。

 それなのに、彼女は僕のことを揶揄ってきた。やっぱり意図は分からない。かと言って、聞き返すのも気が引けた。


 2階と3階の間にある踊り場では、カップルらしき同級生が隅で話していた。そのうち男の方と目が合って少し気まずい。慌てて視線を逸らして、段差に足をかけた。


「あのままキスでもしそうだね」


 彼女も同じ思考に至ったらしく、空気を切る音とともに隣に並んだ。

 「それは自分のことじゃないの?」なんてストレートに言おうかとも思った。でも、僕の中に残っていた僅かな良心が「揶揄い返せ」と呼び掛けている。


「君に言われたくないんじゃない?」

「あー。そんなこと言うんだ」

「冗談だって」


 彼女は階段を駆け上がって、3階に着くと僕のことを見下ろしてきた。少し前傾姿勢になっているせいか、胸の膨らみが僕の視界によく入る。

 喉が鳴った。二度目。視線を逸らしても、ハッキリと意識してしまうソレのせいで、下腹部辺りを握られている感覚に陥った。

 3階は二年生の教室がある。さっきよりは静かに感じる。少しだけ。君の隣に並ぶと、僕を揶揄うように階段を登り始める。追いかけっこをしているつもりだろうか。


「君には言われたくなかったなぁ」

「どういう意味だよそれ」

「そのまんまの意味だよ」


 4階の目前にある踊り場で、彼女は立ち止まった。背中を見上げながら階段を上ると、同じクラスの女子たちが上から下りてきた。

 目を合わせると、そのうちの一人が中途半端な笑みを浮かべるだけで、特に会話もなくすれ違う。


 視線をズラす。目の前のこの子は、昨日誰かとキスしたらしい。

 トイレの前で女子たちが話していた噂話が頭の中を走り回る。ムカつくほどに僕の純心をくすぐるソレは、またも下腹部を刺激する。たかが噂話としても、想像してしまうのが男という生き物だ。

 僕に背を向けている彼女をただ見上げる。階段の途中で立ち止まっているとは言え、いま彼女の隣に並ぶとは得策じゃない気がした。


「どうしたの?」

「いや、なんでも」


 何事もなかったかのように、くるりと振り返ってそう言われたから、慌てて足を動かした。

 踊り場に上った頃には、彼女はすでに4階の目前に居た。結局、また見上げる形になってしまった。


「早いって」

「君が遅いだけ。早くおいでよ」


 僕を見下ろしながら、半身振り返って手招きする君を見るのはあまり良い気分じゃない。

 その表情、手つき、雰囲気。全てが僕にはない雰囲気をまとっていたから。

 あぁ、この子は僕よりも先に行ってしまったんだなと、心にガラスの破片が突き刺さる。子どもでしかない僕の胸を覗き込もうとする余裕が彼女にはある。


 全身を巡る血液がどくどくと脈を打っている。君の大きな瞳はソレすらも見透かしているみたいで、僕のことを見つめないでと吐き出しそうになった。


「先に行っちゃうよ」


 微笑みながら背中を向けた彼女は、そう言いながらも待ってくれている。優しい子であるのには違いないけれど、男心を意地悪につつくのはやめてくれないか。

 そうやって君は、僕よりも先に大人の階段を駆け上がっていくんだろう。これから先も、いずれ訪れる死までの間、ずっと。


「すぐ追いつくよ」


 今はただ、君とキスした相手がたまらなく羨ましく思えた。


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思春、くちびる カネコ撫子 @paripinojyoshiki

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