第2話 幼なじみ

 中学時代の大吾の自宅は、市営のボロい集合住宅。いわゆる団地だった。

 父親はシロアリの研究、母親は病院で事務の仕事をしている。兄弟はおらず、学校から帰っても大吾は一人だった。

 父親いわく、当時の斎川市には賃貸で入れるような物件がなく、家族で住める家はここしかなかったのだという。現代ではこの市営住宅は老朽化で取り壊されている。大吾の親が家を建て、実家は別のところにある。

 だから大吾にとっては、もはや触れることのできない思い出の実家なわけで、家に帰った後、まじまじと様子を確認した。

 色あせたキッチン、前居住者のタバコで黒ずんだ壁紙。大吾の部屋は四畳の和室でとても狭い。そこに勉強机と布団を詰め込んでいる。当時はこれでも、ここに居れば不良たちの攻撃を受けずに済む、という意味では落ち着ける場所だった。

 リビングにあるカレンダーや、電源がつけっぱなしのウインドウズXPのパソコンを確認するに、日付は2004年5月。ゴールデンウィークが終わった頃だった。当時の大吾はまだ携帯電話を持っていなかったので、日付を知るにはそれしかなかった。

 その他、くすんだように見えるブラウン管テレビや唯一の連絡手段だった固定電話など、現代ではもう使われていないものが、実家にはそのままあった。

 間違いなく、僕は中学時代にタイムリープしてしまったらしい……

 大吾はリビングの、いつも自分の席だった一番奥のテーブルに座り、頭を抱えた。

 現場監督として働いていた頃、過去に戻ってやり直せたらなあ、と思ったことは何度もあった。しかしこの中学時代だけは別だ。どうあがいても、大吾は不良たちの暴力に勝てるような男ではない。親ガチャならぬ出身地ガチャを外したのだ(親はいい人だったと今でも思っている)。せめて高校時代にしてくれればよかったのに。あと二年もの間、この暴力的な世界で耐えなければならないのかと思うと、大吾は恐怖に震えた。

 ふと、大吾はベランダに出た。

 五階の部屋なので、かなりの高さがある。手入れはされておらず、大吾が小学生の時に理科の授業で育てた朝顔の植木鉢が、何も入れられず残っていた。

下の駐車場まで飛び降りて死ねば、もう一度現代に戻れるのだろうか。

でも、そうしたら、今この時代にいる僕の親は悲しむだろうな。特別仲が良い訳でもなかったが、愛情こめて育ててくれている親を裏切るのは癪だった。だからどんなに辛い仕打ちを受けても、自殺しようとは思わなかったのだ。

ベランダの手すりに手をついて、下を見ていると、中学時代何度もそういうことを考えて、自殺を思いとどまったことを思い出した。そして今も、あの頃と同じように、大吾は自殺できずにいた。


「あっ、大ちゃん!」


 ふとその時、隣のベランダから女の子の声が聞こえた。

 ベランダの間には仕切りがあるものの、破れてしまっており、お互い丸見えだった。

 そこにいたのは――大吾の中学時代唯一の良心。

 雛形結衣だった。

 大吾と同い年で、幼い頃からよく遊んでいた。いわゆる幼なじみ。

 背はとても小さく、丸顔で短い髪で、時折小学生に間違われるほど子供っぽかった。話して見るとよく笑い、とても人懐っこいので、もともと無愛想な大吾でも仲良くなれた。

 結衣は誰とでも分け隔てなく話すのであまり気にしていなかったようだが、大吾は結衣の胸が少しずつ丸みを帯びていった小学校高学年くらいから、女子と馴れ馴れしく話すのは恥ずかしいことだ、と思い始めて、一緒に遊ぶようなことはしていなかった。とはいえ学校ではない自宅で顔を合わせたら、ちょっと話すくらいの事はしていた。


「どうしたの? 誰か来た?」


 結衣は、大吾が駐車場の車を見ていたのだと勘違いしたらしく、そう言った。この子はとてもポジティブで、自殺なんて夢でも考えないような性格なので、大吾の様子を見てそう思ったらしい。


「う、ううん、なんでもないよ」

「そんなところにいるなんて珍しいね!」


 結衣はせっせと洗濯物を取り込んでいた。この子の家は母子家庭で、母親は看護師で帰りが遅いのだという。だからいつも、家では家事をしていた。大吾の家ではほとんど母親が家事をしていたので、ベランダで顔を合わせることもなかったのだ……今思えば、フルタイムで働き三人分の家事をしていた母親って、すごい人だったんだな。社会人になってからの大吾は、ろくに洗濯もしていなかった。仕事で疲れてその気力がなかったのだ。


「ねえ知ってる? C組の園田さん、彼氏できたんだって!」

「えっ、そうなの」

「東中の三年の男子なんだって。すごいよねー。どうやったら彼氏なんかできるのかな?」

「わ、わかんないよ、そんなの」

「あはは。じゃあねー」


 中学生男子と女子の会話などこの程度である。結衣は洗濯物を全てしまうと、さっさと部屋の中へ引き上げてしまった。

 ベランダに残った大吾は、さきほどの会話について、強いデジャヴュを覚えていた。

 細かいシチュエーションは違ったかもしれないが、あの頃も、結衣とC組の園田さんの彼氏について、会話をしたような気がした。

 園田さんのことは大吾も知っている。とても美人で、中学生にしては胸も大きかったから人気があった。もっとも大吾は学校でそのような話題を噂できるようなリア充グループにはおらず、ひたすらゲームやパソコンの話ばかりしていたのだが。

 大吾は必死で、中学時代のことを思い出そうとしたが、できなかった。

 園田さんの話を聞いた後、なにかとてもひどい事が起こったような気がしたのだ。

 しかし、思い出そうにも、中学時代の記憶はもやがかかったようで、はっきりと見えなかった。これが本当にタイムリープなら、記憶にある通り過ごせば明日も、明後日も同じような出来事が続くはず。予測ができれば、本当に嫌だったことは回避できるかもしれない。だが思い出せなければ、中学時代に味わった苦痛を、もう一度同じように味わうことになる。

 長い間、暗黒時代である中学の頃のことを忘れようと努力したせいで、逆に困った状況になっている。

 異世界転生ではなくても、タイムリープで楽しく昔を過ごせるならそれでよかったのだが。どうやらそれも難しそうだった。

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