第62話 町の癌

 神原浄は巻きつく触手をちぎり取り、高倉を解放したが、頬をいくら叩いても意識は戻らなかった。

 かろうじてまだ生きている……しかし、抱えて運べたとしても、はしごを登ったり濁流を泳いだりは、とても無理だ。地上ははるか先だ。

 どうすべきか見当つかなかった。神原は改めて蠢く触手の塊を見た。

 これこそ、水口老人の言っていたこの町の〝膿〟であろう。

 死体から魂を抜き取り、悲しみや怨念、苦悩を吸い取って生きている化け物だ。レヴィと呼ばれた霊喰いは、その部下に過ぎない。捨てられたペットのつぎはぎだらけの体に、この触手がとり憑き、動けるようにしたのだろう。あのレヴィは、捕らえた獲物のおこぼれを得て自らを補完しているのだ。

 警官の体に這い回る生き物がいた。

 あのレヴィと呼ばれていた怪物のミニチュア版だ。毛むくじゃらの不気味な胴の長い生き物。触手がへその緒のように巻きついており、きいきいと鳴きつつ警官の腕にかじりついていた。

 その異様が神原をぞっとさせた。

 思わず、神原は銃を構えた。そのミニチュア怪物を撃とうとしたが、残っているのはたった三発だ。ミニチュア怪物はよく見ると周囲にまだまだいた。三つの弾丸では、小さな化け物を全滅させるには足りない。それよりも大木のような目の前のものの方が重要だ。

 こいつが町の癌なのだ。

 膿の塊。

 この町の悪の元凶。

 放っておけば、どんどん大きくなるだろう……。

 このままにしておけるものとは思えなかった。これは癌であると同時に、心臓だ。そして、毛細血管のように悪の根が町に侵食しているのだ。文字通り、根こそぎにしなければならない。佐々木の言ったようにガソリンを持ってくるべきだった。

 神原のその敵意を感じたかのように、塊の中心がざわざわと動いた。まるでそれはまぶたのように開いた。こころなしか牙の並んだ鮫の口のように見えた。口の奥には眼球らしきものがあり、中央に瞳孔を思わせる黒い塊が現れた。触手が固く集まって、濃くなっているのだ。

 神原は、子どもの頃は様々な妖怪辞典を読み漁った。霊が見えるような自身の境遇が、そんな本にも載ってないか調べたのだ。そんな中に印象的な妖怪がいた。西洋にいる闇夜に徘徊する不気味な目玉の亡霊だ。ロンドン塔ほどもある大きな目玉がそこには描かれていた。

 目の前にいる触手の塊はそれを思い出させた。

 神原はその巨大な目玉に見据えられて、心底足元がすくんだ。目玉はまるで神原の心を支配するかのようだった。瞳孔には悪の意志というものが――そんな圧倒的なパワーがあるように思えた。誰しもこの異様な目に見つめられては、息も出来ず凍るしかありえない。

 動けなかった。

 手がぶるぶると震える。逃げ出したいという本能の訴えと、子供のように恐怖で泣き叫びたい誘惑が絡みあった。

 そう迷っている間に、馴染みとなった咆哮が聞こえた。

 レヴィだ。

 あの怪物が目玉の向こうに現れたのだ。めきめきと枝をかき分け、怪物が神原を見つけると吠えた。

「どうやって?」

 こんな瞬時に現れたのか。だが、怪物の登場が神原を正気に戻した。猟銃の重みを思い出し、消えかけた勇気を取り戻した。

「近道があるんだよ、バカ」

 怪物の背から窪田シゲオが言った。神原に飛びかかろうと踏んばる怪物をどうどうと制している。

「と、ととと、とっておきのものだったのに、見つかっちゃったか」窪田は口をもぐもぐさせて言った。

「……これが何か知ってるのか?」神原は目玉を指して言った。

「し、知るわけない。だけど、きれいだ。きっとレヴィと同じように、新しい生き物なんだよ」

「そうかも知れない。だが、きれいだとはとても思えない。不気味で、嫌な存在だ。膿みのように、あっても無駄なものだ。癌細胞だよ。切除手術が必要だ」

 神原は、きいきいと鳴く小さな獣たちを見た。

 ミニチュアの怪物たちは、レヴィの周りを嬉しそうに駆け回った。

「こいつらは共生しているってところか。おそらく、この将来はこの触手を他に広めていくのかも知れないな。おぞましい」

 神原はちょうど足元のそばにいた、そのうちの一匹を踏み潰した。発火するように青い霊気が死んだミニチュア怪物から上った。

 目玉が震え、不気味な不協和音を響かせた。

 怒っているのか。霊喰いも咆哮した。

 怒号を発した。言葉は無くとも、殺してやる殺してやる! と叫んでいるのが分かった。

 神原は、銃を構えた。「かかってこい!」

 これ以上、汚らしいものを見せつけられてたまるか。死なばもろともだ。

「馬鹿なやつだ!」

 窪田がなぜか霊喰いを制し、神原の銃口の先に立ちふさがった。

「どけ。窪田。おれが先に撃ちたいのは、おまえのペットだ!」

「あんたには、ここが何か分からないのか?」

「地獄の一丁目だろう?」

「これが何か、分からないのか?」窪田は部屋の中央の癌を指した。

「知りたくない。さっさと片付けたい。そのまま立っていても構わないが、おまえの頭も吹っ飛ぶぞ!」

「これは、霊物だ」

「れいぶつね。そりゃ、何のことだ?」

「覚えてないのか? あんたと同じさ……」

「ワケの分からんことを言うな」

「あ、あんたは死にかけている。ぼくと同じ動く死体だ。なぜそうなったか覚えてないのか? 死体を喰ったからさ。死体の肉や血を口にしたんだ。ホラー映画とかで、ゾンビに喰われた者はゾンビになっちゃうだろう? あれと同じで、死体のものを食したものは同じようになっちゃうのさ」

「おれは、そんなことしてない!」

「嘘だ。三日前にぼくに会ったじゃないか」

 ……そんな記憶はない。

「おまえなんか、地下に入るまで知らなかった!」

「そうかな。クビヌキ通りでぼくに出会ったのを覚えてないのか? 思い出せ、ぼくの斧を頭に受けたことを!」

 神原の額から血が一筋落ちた。ずっと治らなかった額の傷だ。血が目に入った瞬間、神原はずきりと頭に痛みを感じた。そして、あの電球またたく地下道で、見知らぬ男が立っていた断片を思い出した。

(……そういえば。)

 神原の脳裏にカメラのフラッシュが焚かれたように、数日前の記憶が蘇ってきた。 

 故郷に帰り、アテもなく彷徨っていた神原が商店街を離れ、知らずクビヌキ通りと呼ばれる地下道で体を休めたときの情景。

 暗闇から男が現れた。

 窪田だ。斧を持っている。

 三鷹事件――その悪夢を打ち破るかのように窪田が現れたのだ。窪田はレヴィに与えるための餌として神原を選び、斧を振り下ろそうとしていた。

 野犬の遠吠えが聞こえる……。

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