第63話 霊界の認識
悪夢を見ていたのは神原浄だけではなかった。
水口老人の意識もそこにあった。
(読者は覚えているだろうが、この物語は水口老人の語りで始まっている。)
偶然、水口老人は神原の悪夢を覗いていた。老人は、意識の奥底で危ないと叫んだ。
その声に神原浄は目覚めた。
神原は水口の叫びに反応し、窪田シゲオの攻撃を受けつつも、そこから逃げ出すことが出来た。その前に窪田の斧で額を深く切ってしまったが。倒れた神原は、窪田に地面に押さえつけられた。
神原は抵抗し、がむしゃらに窪田の肉を噛んだ。どこに噛み付いたのか分からなかったが、その肉を引き千切った。
飲み込むつもりなんてなかった。……だが、その断片が神原の喉を通った。飛び散った血を飲みこんでしまった。咳き込んでも、すべてを吐き出せなかった。
それが神原浄の変容にきっかけを与えてしまったのだ……。
死体の肉を得て、腐った血を飲み、体が死者の魂を受け入れるようになった。
瞳が違う次元に反応するようになった。脳が霊界を認識し、新たな概念を処理するようになったのだ。
死者たちの姿が見えるようになった。
これが、きっかけだ。
本来ならば死に至る深手を負ったにも関わらず、神原は生き延びた。……と、いうよりも死体のまま彷徨うこととなった。
そして、商店街まで辿り着いた。
意識を失い、同時にそのとき記憶も失った。
身を震わす寒さが甦る。
遠くで野犬の遠吠えが聞こえた。
そして、目覚めたときには片足を失った及川好美と出会ったのだ……。
神原浄は、すべてに合点した。
視野が涙でにじんだ。ここに来たのは文字通り宿命だったような気がした。三鷹事件をはじめとする、陰惨な殺人事件の記憶から逃れるために故郷に戻ったはずなのに、そうと知らず町の暗黒に足を踏み入れてしまった自身の宿命にやりきれなくなった……。
知らず足元がふらついた。
だが、意思の力で食いしばった。
神原を見つめ続ける目玉の存在、霊を喰う怪物、狂った死にぞこない全てを根こそぎにしなければならない。
神原が刑事だったとき、未解決で終わらせた事件の被害者たちの姿さえ、頭をかすめていく。
すべての悲しみを終わらせたい。
「新たな生態系を司る新種だ。地下世界において、新しい命を獲得して独自の生き方を選べる。普通の人間は、単に弱肉強食で、弱いものが強いものに食われる連鎖のみとしか認識してない。だけど、死を経験した後の生命のあり方について、霊物という新種の存在を通して、ぼくたちは独自の生態サイクルを証明できるんだ!」
窪田は高らかに宣言したが……
「もう、黙れ」神原はその演説を遮った。
「おまえが、ガムをぐちゃぐちゃ噛みながら喋るのに、こちらはいい加減うんざりしてたんだ」
神原はそう言って、ふたたび銃を構えた。
「ややや、やめろよ。あんたは仲間だ。このままここで一緒に暮らそう。あんたのことは好きになれそうにないが、人間関係なんてそんなもんだし。レヴィも今はあんたに歯を剥き出してるけど、いずれ慣れるさ。このまま町の地下を支配しよう! サカガミのように、町を裏から牛耳るんだ!」
窪田が壮大な妄想を神原にぶつけてきた。
「冗談じゃない。そこまで頭がおかしくなってない」
「……馬鹿だな、あんた」
「すべてを終わらせてもらおう。おれは自分に自信のない男だ。刑事としては落第級の弱さを持っていた。……だが、町の癌をそのままにしておくほど卑怯じゃない。この町の地下に巣食う得体の知れないものを退治し、おまえのペットを殺してやる。おれを辱めたおまえを撃ち殺し、おれも死ぬ。弾丸はちょうど三発だ。ひとつずつ撃ちこんでやるよ」神原は言った。
窪田はため息をついた。顔をうなだれ、目を上げたときは怒りの表情を浮かべていた。怪物を叩いて、命令した。
「れれれ、レヴィ、この死にぞこないを喰い殺せ!」
神原はためらいなく怪物の眉間に向けて発射した。だが、怪物は素早く、その弾丸はわずかに肩をそれただけだった。
怪物は馬鹿な獣ではなく、頭脳を持っていた。
銃の仕組みは理解できないながらもその危険を学んでいた。神原が引き金を引いた途端、その軌道を避けるように横へ飛んだのだ。そして、壁から勢いをつけて神原に飛び掛ろうとした。
神原は体勢を崩しつつも弾を込め直し、背を骨だらけの地面に固定した。怪物の影が神原を覆った。怪物が神原の悪夢に登場する三鷹事件の犯人の顔と重なった。世間では忘れられかけている事件だが、それは神原のトラウマとなって人生の中で心を蝕んだ。そんな存在が、今まさに神原に向かって落下する怪物と同化した。
「犬コロめ!」
神原は引き金を引いた。
弾丸が怪物の肩をえぐった。黒い皮と肉の断片が壁に飛び散った。
「くたばりやがれ!」
怪物は痛みに首を反らした。もんどりうって骨を散らした。
霊喰いレヴィは、今まで食してきた霊が自らの体の一部となっていることを知らなかった。魚は水を知らず、だ。体全体がぼんやりと青く光るのが神原に見られているのを知らなかった。霊の存在に対して、極度に敏感になった男の反応を知らなかった。
暗闇でも神原には怪物の姿全体が見えた。男には、致命傷となる場所が見えた。
「そら、もう一発くれてやるぞ!」
神原は、霊喰いに向けて最後の銃弾を放った。
弾丸が怪物の乱杭歯を吹っ飛ばした。大口の奥の喉を砕き、熱で焦がした。
怪物は、あまりの痛みに仰天すると同時に発狂し、吠え狂った。頭蓋が割れ、同時に片目を失った。首の骨がきしみ、延髄がしびれた。長い体があちこちにぶつかり、壁を砕いた。
怪物の体が膿の塊にぶつかり、目玉を裂き、触手の何本かを引きちぎった。巻き添えになった目玉が怒りに身を震わせた。気味の悪い汁がほとばしった。
ダメージは大きく、怪物はとうとう倒れた。
骨の海に沈んだ。
「ししし、しっかりしろ、レヴィ!」
窪田が斧を振りかぶって、神原に向かってきた。猟銃を盾に神原は応戦した。長斧が猟銃の銃身を折り切った。それでも神原は残りの銃床で防戦したが、やがて怒るゾンビ男に押され気味となった。体の半分は腐っているようなものなのに、信じられないパワーで襲いかかってくる。
……もう駄目だ。守りきれない。
そう思えた瞬間、窪田は何処からの衝撃を受けて横転した。誰かが発射した弾丸が命中したのだ。
神原の背後から佐々木豊が現れた。
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