第61話 ユズルの最期

 神原浄は空中へ投げ出された。触手が消えたと思ったら、通路がいきなり無くなったのだ。勢い余って、神原は数メートル下の泥の流れに落ちた。通路にあったボンベの何本かがいっしょに落ちてきて、神原の頭を打った。

 痛みに一瞬気を失い、そのまま神原は勢いに流された。

 放流中なのか、水の勢いが激しい。

 神原はそのまま意識を消さないよう、無我夢中で手足をバタつかせた。水面へ何とか顔を上げ、にがい空気を吸った。

 頭にぶつかったボンベの一本を見つけ、浮き輪代わりとした。浅瀬まで死に物狂いで泳ぎ切り、泥だらけで立ち上がった。辺りを確認する間もなく、わずかに明るい方向に足を向けた。

 地下なのに、明るい?

 神原は、目の前に現れた異様な物体に驚いた。

 ――それは一見、植物のようだった。そこだけぽっかりと広い空間があり、その中央に神原が今まで見たことのないものが浮かんでいた。

 大木というか、奇妙な塊だ。

 “脳”を思わせた。

 青白く不気味にぼんやりと光る枝の集まり――集合体と言った方がいいのか、あの霊を捕らえる触手が蠢きながら空中に集まっている。触手の先は壁を貫いていて、根のように張り巡らされているようだ。目の前にある巨大な塊は、トンネルを這っていたすべての源としてつながっていると思われた。

 触手は壁を埋め尽くす骸骨にも巻きついていた。重なるしゃれこうべの表情はいまだ苦悩しているように見えた。窪んだ眼窩のすべてが悲しみを思わせる。

 神原は床のぬめりに滑りかけた。

 床には、かつて人間だった断片が敷き詰められていた。頭蓋骨だけでなく、胸骨、脊柱、大腿骨。組み合わせれば何人もの骨格標本が出来上がるだろう。何人かの肋骨が、まるで草原のようだった。幾つかにはまだ頭や体といった肉が残っており、蠢いていた。動物もいた。あらゆる生き物の死骸が山となっていた。

 すべてが、苦しんでいた。

「神原の……おっさん」

 ユズルがいた。下半身を失って。

「おっさんの言った……とおりだったな」

 神原は、大丈夫かと言ってユズルに駆け寄った。霊に対して大丈夫かというのもこっけいな話だが、明らかにヤンキー少年の霊は弱っていた。もともと青白かった存在が、もはや霞のように薄い。

「いま何とかしてやる」

 神原はユズルに巻きつく触手を引き剥がしにかかった。それは実体があり、神原にも触れられた。神原はユズルに触れられないのに、その触手は半霊体というべきか存在があるのだ。

 毛虫か軟体動物のようで気色悪いが、そんなこと言ってられない。直接手で絡みつくものを一つ一つちぎった。触れるとぬめぬめするのに、同時にびりびりと痺れる。触れるたびに、心の奥底で警告が鳴るようだった。触れてはいけない生き物なのだ。

 物質と非物質の中間にあるようだった。

 霊喰いのように。

 そして、形あるもの無いもの、どちらをも苦しめることが出来る生き物なのだ。二つの次元をまたいで生きる、この世のものとは別種の生き物と思われた。

 ……誰が、こんなものをここへ連れてきたのか。

 きっとどこか最悪の宇宙から来たのだろう。そういうSFやファンタジーの方面には詳しくない神原は、この生き物がどこか別の世界から来たのだと思うことにした。

「……もう無理だよ。おれ、死ぬ」ユズルが言った。

「がんばれ、もう少しだ。ばか」

「おっさんが来て……嬉しかった」

「幽霊に言うのもおかしなハナシだが、気を張ってろ。意識を失うな。もう、おまえはとっくに死んでるんだ。安心しろ。これ以上はひどくならないさ」

 神原は少年を安心させるためにそんな冗談を言った。

 少年霊はふっと笑うと、「そうだな」と言った。

「……おっさんの言った通りだった。おれは死んでたんだな。あのでかい化け物に噛まれてすぐ分かったよ。だって、下半身が無くなったんだぜ? どんなバカでも気づくよな」

「ユズル、黙ってろ。余計なやつを呼びたくない」

「すまなかったな、おっさん。……こんな処までおれ、しゃしゃり出てきて。余計な手間かけさせちまった。いろいろ面倒なこと言って怒らせたけど、おっさんが話しかけてくれたときから、おれ嬉しかったんだ。それまで、誰も相手にしてくれなかったからさ」

「ユズル……」

「もうゴチャゴチャうっとおしいことは言わないぜ……。おれも自分が何なのか、はっきりしたからさ。……友だちもいなくなった。ミーコも、とっくのとうに誰かと結婚してると思う。みんなおれを置いてっちまったけど、最期のさいごに自分自身が分かっただけでも、めっけもんだということにしよう。……おれって、ちっぽけな嫌われもんだけど、それが分かっただけでもめっけもんだよ」

「おまえは嫌われ者なんかじゃない!」

 神原は叫んだ。おまえの為にここまで来た男がいるんだぞ、と叫んだ。

 おまえは、おれがこの数日で気を許せた数少ない人間のうちのひとりだ。

 ほとんどの霊は不気味で近寄りがたいものばかりだが、おまえだけは唯一正直で、無防備で、その図々しさから安心できる何かがあった。

 好美ちゃんを川で見つけたとき、おんぶしてやってた優しさをおれは見た。あれこそ、おまえ自身の素晴らしい人間性だとおれは思う。

 残念ながら他の同級生たちのような天寿をまっとう出来なかったが、おまえの魂はじゅうぶん、他の誰よりも誇らしく胸張れるものだと思う。

 おまえは自分を犠牲にしてまで、おれと佐々木をかばって、あの霊喰いの怪物から守ってくれた。

 おれはその恩を忘れない。

 おれはおまえを助けてやれる。

 ――そう神原は、触手を剥がしつつ言った。

「ありがとう、おっさん」ユズルはにっこりと笑った。はじめて会って、シンナーをせびられたときに比べてそれは輝くような笑顔だった。美しい笑顔だった。神原は、少年霊の姿がどんどん薄まるのに気づいた。

「……ユズル、逝くな」

「いいんだよ、神原のおっさん。おれは、助かったんだ。おれ、天国に行けるような気がするぜ。なんだか、まわりがまぶしいからよ。さすがにシンナーもタバコもねえかも知れないが、ガマンすることにするよ……じゃなきゃ、天国から追い出されるかも知れねえからな」

「待ってくれ!」

「生まれ変わりって信じるか? おれ、生まれ変わったら……今度はちゃんと勉強して、白バイに……」

 少年霊の姿が消えた。

 エネルギーを吸い取る相手がいなくなったせいか、神原の手にあった触手がぱらぱらと地に落ちた。

 神原も同様にくず折れ、しばらくその場でうなだれた。

 数秒のあいだ、泣きはらした。

 仮に少年の霊を救えたとしても、また商店街を彷徨う人生に戻らせるだけだった。それに比べれば……苦しみから救えたと思いたい。

 最期のさいごで少年の霊は救われたと信じ、神原はユズルの笑顔を思い出して立ち上がった。

 傍らに、高倉警官の姿が見えた。

 高倉は触手に巻きつかれて、土気色をしていた。この触手は、この世界にいるあらゆるものからエネルギーを吸うのだ。高倉は、あとわずかの生命力さえ触手らに絞られていた。

 神原は警官に近寄り、揺り起こそうとした。

「高倉さん! おい、しっかりしろ!」

 薄い息こそしていたが、高倉は目覚めない。

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