第59話 大盤振る舞い
「おれは戻る……この通路に見覚えがある」神原浄が地面を見て言った。坂下らの残した青いライトが落ちていた。
「おそらく、あの鍾乳洞にもつながっている……」
天井には、古い木材が組み合わされた梁が見えた。神原にしか見えない天井だ。建物の霊。何十年もの昔、誰かが書いた墨の落書きがあった。
眼鏡を失った佐々木は、一刻も早く外に出たいという意志を体全体で示していた。らせん階段を必死で指さした。
「これを登れば外に出られる。奥には何があるか分からない。窪田がいるかも知れない。怪物が今、こっちに向かっているんだ! 猟銃を無くした。私たちには武器がない。あの化け物に対抗する手段もない」
「分かってる。……だが、やることがあるんだ」
神原は、地面を覆う白い繊維を見て言った。霊に取りつく触手だった。線虫のようにびくんびくんと動いていた。ねばつく粘液を垂らしつつ移動する様は、カタツムリのようだ。少しずつ少しずつ、この異様な生き物は町を侵食してきたのだ。
故郷を汚し、犯してきた邪霊の触手だ。
神原は、この元を辿れば霊たちが捕らわれている場所に行けると思えた。
「ユズルを助けたい」
「誰だ? それは」
「覚えてるだろ。おれたちについてきた少年の霊だよ」
「そんな者はいない。きみだけに見えた存在だ。いるかいないか分からない者の為に、命を無駄にするな」
「そうかも知れない。だが、おれは戻らなきゃならない」
神原の目には、霊的な風景とも言うべき、薄ぼんやりした通路が見えていた。青いライトを照らすと、ずいぶん先まで見えた。はるか昔の人間の想念が壁に残っているようで、通路がはっきりと反射した。そして、神原の脳裏にはユズルがあの触手に絡め取られ、怪物の餌食になるのを待っているのが見える。
あのヤンキーの少年の霊が、将来は白バイ警官になりたいと言ってたのが思い出される。それはもちろん無理だとしても、……助けてやりたい。こんな虫唾が走る場所からは解放してやりたい。
「そもそも、おれがここに来たのは、そうする為だったんだ」
「何の為だって? 私の娘の足をいっしょに探してくれようと……だったじゃないか」
「それもあるが、目的は町を救うことだったんだ」
「そんな大義……ご立派だが、いまヒーローにならなくたっていい。私は出直そうと言ってるんだ」
「いいから。説明してる時間はない。佐々木と女刑事さんは、外に逃げろ」
「目の前に地上へ上る階段があるのに、奥へ行くバカはいない! あたしはこっちへ行くわよ」葉月道子が半狂乱になって叫び、らせん階段を上り始めた。戸惑いながらも佐々木も従った。眼鏡がないので、足取りはおぼつかない。
「とても付き合いきれない。だが、行くなら気をつけろよ、神原」
「分かってる。何とかする。何とかなるさ」
「正気じゃない……私だって、好美の足を……」
「残念だが、好美ちゃんの左足は戻らない」
「くそっ……残念だ……きみは私の良き友人で……」
神原は佐々木の背中を叩いた。
「しんみりと、喋っている時間は無い。急げ!」
神原は友人に背を向けて、暗闇に進んだ。
神原浄は暗闇の向こう、T字路を何人かの影がよぎるのを見た。坂下の部下たちだ。この通路は集水抗ともつながっており、トロッコのあるホームへつながるようだ。男たちは一列になって進んでいる。通路が狭いようだ。
神原は列の最後の男に、背中から近づいた。
「あれ~?」長髪の男が気配に気づき、振り向いてあんぐりと口を開けた。
そのタイミングで、神原は石つぶてを投げつけた。
石はもともと並びの悪い飯野の前歯を何本か砕いた。飯野は、神原から奪った銃を抱えていたが、悲鳴を上げて倒れた拍子にそれを落とした。弾丸が歯のようにぽろぽろと地面に落ちた。
「何だ、どうした?」
坂下と数名が顔面を潰された飯野の泣き声に気づいた。だが、すでに神原は飯野からゾンの猟銃を取り返していた。地面の弾丸をすばやく拾って装填した。
「往生際の悪いやつだな!」
坂下の隣の男が、神原に気づくと持っていた銃を構えた。神原に銃口を真っ直ぐに向け……
がちりと引き金が鳴った。
が、弾は出ない。
「安全装置だ。知らないのか!」
代わって、神原の銃口が火を噴き、無知が災いした配達員を吹き飛ばした。
「やっちまえ! たった一人だ」
配達員たちが、地面に落ちている鉄棒やそれぞれ武器になるものを拾った。坂下の部下が神原にじわじわと近づく。
神原は近づくと二の舞になるぞと、撃たれて倒れた配達員を指し示した。
「元刑事さんのしつこさには呆れるよ。しかし、しぶとい。直接、手を下すしかないようだな」
坂下がやれやれとため息混じりに言い、よっこらしょといった風に猟銃を構えた。さすがに神原は直撃を避けて、柱の陰に身を隠した。
「やれるのか、坂下? 今までの殺人は、全部あの怪物に任していたんだろう? 人を見殺しにしてきただけの配達員たちにおれが殺せるのか」
「あんたのことがバレたら、それこそ終わりだ。それに比べれば、屁でもない!」
坂下が引き金を引いた。驚くべきことにこの老体には銃の才能があって、神原のすぐそばに弾丸が当たった。うかつに動くと、命中させられるかも知れない。
しかし、やがて遠くから、あの怪物の吠える声が聞こえてきた。
ずんずんと足音も……。
「もうすぐ、ここにあの怪物がやって来る。腹を空かした獣が、ここにいる人間たちを見分けられるのか? うかうかしてたら、全員あの化け物の餌だぜ?」
神原のその言葉にはさすがにゾッとしたようで、坂下をはじめ配達員らの動きが固まった。何人かは、「どうしよう?」「ヤバくない?」と呟いた。
「黙れ、おまえら。しっかりしろ」
坂下が部下たちを叱責し、小さな器械を胸から取り出した。何かのスイッチらしい。
「……何だ、それは?」
「あんたとお仲間を眠らせたクロロホルムのボンベを動かすスイッチだ。ここにいる全員が持ってる。社長が考えてくれたのさ。それくらいの用心はしている。怪物が近づいたら、振りまいて逃げる」
坂下の言ったクロロホルムが詰まっていると思われるボンベが壁にあった。人の高さほどあるものが地下ホームにいくつか並んでいた。
「この洞窟のすべての出入口にボンベを並べてある。いざというときは、自動的に噴出するような仕掛けも作ってある」
「あの巨体に、そんなのが効くかね?」
「少なくともやつは匂いに敏感で、今までは避けてきた」
「そうは言っても、ずいぶん頼りない武器じゃないか」
「うるさい……この先に、あんたの知らないマンホールがある。そこから地上に出れる。あんたを残してとんずらするさ」
神原を武器を構えた集団が囲もうとしていた。形勢は神原には不利だったが、がらがらと岩の崩れる音がして、全員がその方向を見た。
「あああ、あれ~? みんな、何やってんのぉ」
窪田シゲオが抜け穴から這い出てきた。穴は大きく、怪物も顔を出した。その背に窪田が乗っている(と、いうことは佐々木や葉月は逃げ切れたようだ)。
「ひいいーっ」
怪物を目の当たりにした飯野がみっともない叫び声を上げた。初めてではあるまいに、飯野は怪物を見慣れてなかったのか。飯野は、すぐ目の前に現れた獣をまるで追い払えるかのように、しっしっと手を振った。
「よよよ、よせ、余計な動きは……」
窪田が、飯野に注意しようとしたが……
怪物にそのジェスチャーはまるで通じず、飯野はあっさりと首をもぎ取られた。
ぐちゃっと鈍い音がして、さらに飯野の体が断片化した。鋭い爪が並んだ前足で切り裂かれたのだ。上半身は放物線を描き、下半身は踊るようにくるくる回った。まるで水飴のような飯野の魂をすするように怪物が飲み込んだ。
怪物はさも満足そうに喉を鳴らした。
うわあああ~っと、その場にいる配達員ぜんいんが叫んだ。
「窪田、化け物を何とかしろっ」坂下が真っ赤になって怒鳴った。
「れれれ、レヴィをバケモノ呼ばわりして、欲しくないなぁ」
「この腐れバカ、そんなこと言ってる場合か!」
坂下の言葉に、窪田がむっとした。
「……考えが、かかか、変わったよ」窪田が怪物の背に立ち上がって、にたりと笑った。
「こここ、今夜は、レヴィに大盤振る舞いだ!」そう言って、地面に飛んだ。
その意味に気づいて、坂下は青ざめた。
「悪かった、窪田。れ、レヴィを大人しくさせてくれ」
「いいい、嫌だ」
窪田はにっと唇を歪めると、闘牛を追い立てるように怪物の横腹を叩いた。それが合図だったかのように、霊喰いレヴィは高らかに咆哮した。
怪物が、馬のように地面を引っかいた。
鍵爪が岩に筋を引いた。さあ、やるぞという自信がみなぎっていた。汁の混じった鼻息を吹き出した。
神原はその様子を見て、地下に留まったことを後悔した。
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