第58話 赤い女の恐怖

 窪田シゲオはさも残念そうにため息をついた。

「タイムオーバーだよ。三人のうち、誰から餌になるか、じ、ジャンケンポンで決めな。……おっと、手を縛られてちゃ無理かな。どちらにしろ、全員食べられちゃうがね。どうどう、レヴィ。ど、どどど、どうして暴れるんだ? あせるなあせるな。今すぐ喰わしてやるから」

 神原浄は、窪田を苦々しく思いながらも、黒く汚れたコンクリートの壁に赤がにじむのに気づいた。それは墨を塗れば半紙の裏が滲むように、やがてはっきりと人のかたちをとった。そのかたちは、ゆらりと神原を手招きした。

 ……まるで、何かを教えるような仕草。

 神原はそれに驚きつつ、佐々木豊と葉月道子に顔を寄せ、小声で言った。

「女がいる」

「……何だって? またか」葉月も佐々木と同じように眉根を寄せた。

「すぐそばに溝があるだろう? あの溝は人が潜れて、奥までつながっている。十メートルほど向こうに部屋があると言ってる」

「こんな手を縛られた状態で、あのヘドロに飛び込んで泳げと言うのか」

「冗談じゃないわよ」

「化け物に喰われるよりマシだろ。目と口を閉じて、サメかマグロのように、止まると死ぬと思って泳げ。おれの手は解けそうだ。きみらが飛び込めば、押してやれる」

「どうして、そんなことが分かった?」

「赤い女が、教えてくれた。そして、床に落ちてた金属片を拾って、縄を切った」

「女って、誰のこと?」

 赤い女が、さっさとしろと身振りした。女の顔にも焦りがあり、恐怖が浮かんでいた。女のすぐそばにいる怪物は霊をも引き裂く。それを赤い女は知っている。

(この赤い女も、レヴィと関わりがあるのだろうか?)

 女も怪物を恐れており、窪田の死角になる壁際で神原に囁いている。

 早くしろ、と。

「よし。レヴィ、ごちそうタイムだ。いいから、好きなのから食べろ!」

 怪物が歓喜に吠え、佐々木に向かって飛びついてきた。

 佐々木は深呼吸して、溝に飛びこんだ。間一髪で、怪物の牙を避けられた。葉月も争うように、後に続いた。目標が狂った怪物はそのまま壁に激突し、辺りを揺るがした。

「何、やってるんだレヴィ。バカだな! ははは」

 嬉しそうな窪田を尻目に、今度は神原が溝に飛びこんだ。全身をぬるつく冷水が包む。思わず目を開けたが、汚れた水が痛くなってすぐに閉じた。しかし、前を佐々木がもがいているのが分かり、神原は両手を使って友人を奥へ押しこんだ。

 途端、神原の足を何かが掴んだ。怪物が鼻面を溝に突っ込んで、噛み付いたのだ。しかし、溝は狭く、かろうじて神原は足首を失わずにすんだ。代わりに神原は思い切りその鼻面を蹴った。

 泥水が怪物の咆哮で振動するのが分かった。あんな生き物でも痛みを感じるのか。

「ざまあみろ」

 もがきながら、神原は思った。体を包むぬかるみ。まるで黒いヨーグルトの中を泳いでいるようだった。

 佐々木と葉月を両腕で押しながら、汚泥をかき回して進んだ。真水より重く、体のあちこちを引っ張るような感じがした。しかし、怪物に食い殺されるよりは、泥で窒息する方がマシだと思った。

 ゲホッ。げほげほ。

 ようやく水面に顔を上げられた。しかし、出口には鉄格子がはさまっていた。三人は水面から顔を上げながら、濁った水を吐き戻した。ひどい味だ。佐々木が空えずきする間、神原はふたりの背に回って縄を解いた。

「に、逃げ切れた? くそっ! 眼鏡を無くした」佐々木が言った。

「まだだよ。先にこれをこじ開けなきゃ、外に出れない!」

 数センチしか離れていない天井は、鉄の鎖で固定されていた。三人は立ち泳ぎしながら、何とか鉄格子を持ち上げようとしたが、体をうまく支えられず力も入らない。

「それに別の通路が、こことつながってる。すぐに追いかけてくる」

「足が届かない!」

「暴れるな、葉月。こんなことしてる場合じゃないだろ。まだ、危険が去ったわけじゃない。窪田と怪物がやって来る!」

 葉月が涙と泥に濡れた顔を上げると、不吉な振動が床を通じて伝わってきた。耳を澄ますと、遠吠えが近づくのが分かった。耳をふさぎたくなる悪の声。

「三人で、この鉄の蓋を持ち上げるんだ」

「びくともしないわよ。鍵が動かない!」葉月が鉄格子の隙間から蝶番を動かそうとしたが、無駄だった。

「何とかしないと死ぬぞ。それとも泥をまた飲んで戻るか」

「冗談じゃないわ」

「蓋を固定するネジは錆びてるはずだ。全員で一箇所に力を込めて持ち上げるんだ!」

 三人はそれぞれ何とかして体を固定した。そして、天井を持ち上げようとした。機嫌の悪そうな地響きがどんどん近づいている。

「動かない!」

「もっと気合入れろ」

 せーの、の合言葉で三人は鉄の蓋を持ち上げようとした。だが、動かない。

「痛い。立っていられない……」突然、葉月の鼻からどろっと血が流れた。頭がぐらりと揺れ、鉄格子から手が離れて落ちた。油の浮いた泥水からぶくぶくと泡が立つ。

「刑事さんが気を失った。こんな時に!」

「しっかりしろ!」

 神原は、息を吸い込んで潜り、葉月の体を支えると持ち上げた。水を吸った中年女の体は重く、まとわりつく汚泥が改めて底へ引きずり込もうとする錯覚を覚える。年がら年中、菓子ばかり食ってるからだ。

「大丈夫か」

「早くしないと、化け物が来る!」

 神原と佐々木はふたりで蓋を持ち上げようとした。神原は葉月を抱えながらだったが、死に物狂いで天井を押した。骨がきしむ。肩が砕けそうだった。その甲斐あって少しずつ、蓋を固定していたネジがゆるんで宙に浮き出した。

「いいそ。そのまま!」

「早くしろっ。もっと力入れろ!」

 とうとう四方のネジが外れて、蝶番がねじれて切れた。二人は我先にと床に這い上がった。吠え声が幽鬼のように近づいてくる。巨大で重いものがあちこちぶつかっている音がする。神原は葉月の頬を何度か張った。黒い小石混じりの反吐を垂らして、葉月が目を覚ました。顔は鼻血まみれだ。

「た、確かに……」泥を吐きつつ、葉月が言った。

「何だって?」

「女がいたわ。全身、真っ赤な女が」臨死体験というやつか。葉月も一瞬だけ、死者の魂を見ることが出来たらしい。

「でも、信じないわよ。死にたくない……こんなところで」

「奇遇だな。同感だよ。お願いだから、足手まといにならずに立ってくれ!」

「明日も生きてたら、絶対あんたを殺してやる」

 ヒールを無くした葉月は、よろめきつつ立ち上がった。立ちくらみがひどいようだ。

「早く逃げましょう……」葉月は、それでも嗚咽混じりに言った。

 通路は三手に分かれていた。暗闇に続く通路が二つ。一方は怪物が来る道で、もう一方は何処へ続くか分からない暗闇。天井へ続くらせん階段があった。どこへ続くのか保障はないが、少しでも地上へ近づきたいのが三人の本音だったが……。

「待て! 神原、きみはどうするんだ」だが、奥へ進もうとしていた神原に気づき、佐々木が言った。

「おれは行かない。ここに残る」神原は言った。

「何だって? 正気なのか。いい加減にしてくれ」

 佐々木が心底、呆れたという顔をした。

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