第57話 窪田の長広舌

 ずるずる、と奥から音がした。どんどん大きく近づいてくる。神原浄はパニックの波が押し寄せるのを感じた。

「やつが来た。神原、私の縄をほどけないか。やってみてくれ」

 佐々木豊も、音の正体に気づいた。

 神原は後手のまま、佐々木のロープを探り、解こうとしてみた。……だが、手が痺れている上に、見えない結び目をうまくほどけない。

「駄目だ。立ち上がれ」

「梯子を掴めない! 登れない!」

 神原と佐々木のパニックに反応したのか、葉月が目を覚ました。

「……ここはどこよ?」

「あんたも立ち上がれ。逃げるんだ」

「バカな男たち。また、あたしを縛ったのね。くそったれ」

「馬鹿言うな。三人全員を同時に縛れるわけないだろ。サカガミの社員たちの仕業だよ。坂下の指示だ」

「あの坂下が、どうして……」

 ここにいるの?――と、葉月がそれ以上、神原に質問することは出来なかった。重い足音に打ち消されたのだ。葉月はびくりと身を起こし、何が起こっているのか見極めようとした。

「何なの?」

「あの犯人だよ。見ただろう? 怪物だ。元凶だ。クビヌキ通りのバケモンだよ!」

 神原はやけっぱちにそう言いつつ、何とか縄を解こうとした。

 ……だが、長時間締めつけられた指が痺れてて、やっぱりうまく動かない。

「まさか、あたしたちがまとめて餌にされちゃうわけじゃないわよね?」

「ああ、もちろん。肉は、女の方が美味いだろうから、きみからさ。レディーファーストだ」

 葉月は半狂乱になって縄を解こうともがき始めた。同時に辺りの空気が変化しつつあるのを感じていた。湯にインスタントコーヒーを混ぜると途端に黒ずむように、雰囲気がただならぬものに濁っていく。背の届かない場所にある横穴から空気が吹き込んできた。

 ずん、ずん、と地面が揺れる。

 突然、神原の足もとを流れるものが現れた。ざざざっとさざ波のような音を立てて、その塊が奥へ向かう。その黒く蠢く絨毯に、葉月がぎゃあっと悲鳴を上げた。

 ゴキブリ、カマドウマ、ハサミムシやムカデ等の虫が列を組んで、迫り来るものから逃げ出している。まるで黒い絨毯だ。

 ……あの怪物は、虫たちさえも恐れるのか。

 ごつごつと羽のある虫が神原の体にぶつかった。何匹かは服の隙間に潜り込もうとした。葉月と佐々木は、言葉にならない声を上げてロープの中で身悶えている。しかし、信じられないことにどの虫も仲間とはぐれないように、やがてひとつのグループとなって奥へ消えていった。固まりのある嵐が過ぎ去った。

 彼らを主食としていたドブネズミやコウモリが消えたので、地下の生態系が狂ったのだ。

 静かになったと思った途端、頭上にふたつの目がぎらりと光った。穴の奥から、爆発のように蒸気が吹き出した。糞便の臭いの方がまだマシだと思えるほどの腐臭。

 葉月が金切り声を上げた。

 それに合わせるように怪物も吠えた。葉月の声はとても叶わず、獣のに打ち消された。互いの声が収まると、暗闇から足音が近づいてきた。金属を引きずる音とともに窪田が現れた。燐光に浮かぶその姿は、幽鬼を思わせた。窪田が怪物の首のあたりをさすると、獣はそれに従うように吠えるのをやめた。

「や、やめて……あたしは、死にたくない」

 葉月が目に見えて震えているのが神原に分かった。頬はべったりと涙で濡れている。得体の知れない巨大な黒い怪物と、その隣にいる半壊した男の姿を見て、自分がどこへ突き落とされたのか改めて気づいたのだ。

 血まみれの斧が不気味さをプラス。

 辿り着いたのが〝地獄〟と気づいた者は、誰でも震えて泣くものだ。

「……み、見た顔だ。生きてたのか」

 窪田が怪物の背に乗って言った。

「お、おおお、女のお客さんは久しぶりだ」

 嬉しそうに窪田が、ぱちぱちと拍手した(葉月は、呆然とその仕草を見た)。あいかわらず、窪田はくちゃくちゃとガムを噛んでいる。

「……窪田、ずいぶんと化け物と仲がいいんだな。いつも一緒。殺人も一緒か」

 三人は縛られた状態からも、徐々に怪物から距離を置くように離れた。

「い、言っただろ。れれれ、レヴィはぼくの言うことなら、何でも聞くんだ」

 怪物が呻き声を上げた。窪田がどうどうと言って、レヴィと名付けた化け物の背を撫でる。怪物は値踏みするように神原と佐々木、葉月を見て、だらだらと滝のようなよだれを垂らした。その様子は、おあづけを食らう犬と変わらなかった。

 神原には、怪物の欲求が嫌でも分かった。どう見ても腹を減らしていた(高倉警官を食わなかったのか? それとも食ってもまだ足りないのか)。

「今まで、その怪物は何人くらいの人を食ったんだ?」

「し、知らない……いちいち数えないよ」

「そのバケモンは、あのサカガミの社員たちを襲ったりはしないのか?」

「れ、レヴィだってば。レヴィは、とてもとても頭が良いんだ。だ、だだだ、誰が餌を持ってきてくれるか、ちゃんと知ってるんだ。学習能力がずば抜けているんだ」

「人を襲い続ければ、いつか痛い目を見るということまでは分からないみたいだがな……」

 神原の皮肉に、窪田はふふんと笑った。

「じ、時間稼ぎはやめろ」

「死ぬ前に、すべてを知りたいだけだ」

「な、なるほど。レヴィを守っているのは、実はサカガミだよ。ただ、だだだ、ただでさえスキャンダルの多い会社だけど、もみ消す為には手段をいとわない。この町の殺人事件は、あの会社が、ももも、もみ消してきたんだ」

「その怪物が、私の娘の足を奪ったのか?」突然、佐々木が言った。

「あ、あああ、足?」

「及川好美。私の娘だ。頼む……それだけでも、教えてくれ」

「さあ、どうだか。わ、わわわ、分からないよ。と、時どき、レヴィはぼくの目を逃れて下水の外に出ちゃうんだ。そして、近くに寄った者をぱくりっとやっちゃうのさ。手とか足とか、一部だけかじりついて持ってくるときもある。猫が飼い主に捕らえたネズミを見せるときみたいな……生き物を襲う本能を止められないんだな」

「クズめ!」佐々木の怒りが、神原にも痛いほど分かった。

「殺人に対して平気な顔をしてるが、そうは言っても、証拠をおまえは消してきた。死体が運べないときは、その斧で傷口を偽装した。人に見つかるのはさすがにビビったのか、弱虫め」

「レヴィが見つかったら、誰かに取り上げられちゃうだろ! れれれ、レヴィにはぼくしか友だちがいないんだ」

「ふざけるな! 化け物を飼いならしているつもりか。この下衆め」

 佐々木の怒りの言葉に、窪田は片方の眉根を上げた。

「そう言うあんただって、動物は殺すだろう? テレビの料理番組に登場する分厚い、ととと、トンカツによだれを垂らしたことないのか? 何万円もする寿司をいつか食べてみたいと思ったことはないのか? 松坂牛のしゃぶしゃぶなんてどうだ? あああ、あのすべてが生き物だったと考えたことあんの? あのすべての生き物たちが、自分から食卓に並びたいと身を差し出したと思ったのかい? サカガミは、毎日、何千とペットを出荷していくけど、その数だけ今も、日本中の保健所じゃペットを預かってる。何日かは檻に閉じこめておくが、すすす、数日後には袋詰めされてガス室送りだ。何日も助けてくれ~、たたた、助けてえええと、泣き叫ぶ犬猫たちの悲鳴を聞いたことがあるか? 助けて助けて死にたくない、きっとご主人様がいつか助けに来てくれるさワンワン!ってね。 いいい、命はつねに奪われて、どこかを通ってサイクルする。ぼぼぼ、ぼくたちの体は、だだだ、だれかの死で支えられている。命は殺し殺されて、この世をぐるりぐるりと巡ってるんだ」

「ずいぶんと長広舌を振るうじゃないか」

「あああ、あんたらが死ぬ前に、ししし、真実を知って欲しくてね」

「分かってないな。おまえだってサカガミに飼われていることになるんだぞ。文字通り、人殺しの片棒を担いでいるんだ。その崩れた体に人の情けが残ってないのか」

「かかか、鏡が見られないことは分かっているさ」

 窪田が初めて悲しそうな表情をした。

「ぼ、ぼくの体もあちこちガタがきてる。どんどん腐って崩れていく。どうしてそうなるのか分からない。何が、ぼくを支えているのか……。魂か? 気力か? きっと、そうだな。安アパートで暮らしていたときよりも幸せだからな。な、何も食べなくてもお腹がすかないし、レヴィといつまでも遊んでいられる」

「脳はとっくに腐ってるようだ」

 佐々木が唾を吐いた。

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