第49話 浄水場からの脱出

 窪田シゲオは見えなくなった。

 一瞬の出来事に、ふたりは唖然となった。

「信じられない。こんな川に身を投げるなんて。これがどこに続くのか知っているんだろうか。だとしたら、逃がしてしまった……くそ」

「追いかけるか?」

 佐々木豊の言葉に、神原浄は首を振った。

「冗談だろ。飛び込む気力なんてないよ」

「ひどい怪我だ」佐々木はぼろ布を神原の右腕に巻きつけた。もう汚れた布しか余ってないのだ。

 佐々木の手首の出血もひどい。

 ……だが、神原と佐々木は梁を登ることを選んだ。組み合わされたまま倒れた角材は、神原が踏みつけてもしっかりしていた。鍾乳洞の天井には、まだまだ梁が張り巡らされていた。江戸時代の職人が作ったのだろうか。墨で描かれた落書きがあった。年月を経てにじんで読めないが、卑猥なものもあった。

「その腕で登れるか?」

「佐々木こそ。不思議と平気だ。何とかやってみる」

 何度か滑りそうになったが、かろうじてふたりは鍾乳洞を登りきり、コンクリートで形成されたドロップシャフトのある部屋にたどり着いた。何本もの太い下水管を繋いでいるシャフトが交差している。

 鉄製のらせん階段があり、天井へ続いていた。ぎしぎしときしむが、まだ二人くらいは支えてくれそうだ。文明を感じさせる構造物がありがたく、ふたりは喜んだ。

 やがて神原と佐々木は、外の光が漏れる錆びたドアを見つけた。すっかり鍵も壊れていたが、神原は佐々木と力を合わせてドアをこじ開けた。ふたりは差しこんできた光に眼を細めた。

 雨空だったが、じゅうぶん眩しい。外気に触れたことで、ふたりを安堵感が包む。全身の力が抜けて、ふたりとも跪いた。体がぬるい雨に打たれることに安堵を覚える。

「ここは、どこだ……」

「サカガミ工場の浄水場そばだ」

「水が飲みたい」

「もう少しガマンだ。この浄水施設の水は……何が混じっているか分からん」

 神原は、遠くに霞む中央ビルを見て言った。女刑事がガラスの城と呼んだ建物だ。ふたりは、すぐ浄水施設につながる堀に立っていた。

「あんなに歩いたのに、サカガミの敷地から出られなかったのか!」

 佐々木が苦笑まじりに言った。

「窪田は工場の社員だった。だから、地下通路に通じていたんだな……」

 神原はいま自分たちが這い出てきた場所を見た。数分前まで、この下にいたとは信じられない。

「そして、動物実験の死体を処理するうちに、気がふれてしまったのか」

「あの化け物に食い殺されず、生きていられるなんて不思議だ」

「体がゾンビのようだった。化け物と同じ体を持っていることで、お互いを仲間だと思っているのかも知れない」

「薄気味悪い話だ。地獄から脱出できて良かったよ。あの高倉って警官を置いてけぼりにしてしまったのが残念きわまる。……どうしたんだ、神原?」

 神原は佐々木のように喜んではいなかった。ちょうど外へ飛び出そうとした矢先、誰かの声が聞こえたのだ。ユズルの悲鳴に思えた。このまま逃げ出していいものか後ろ髪ひかれる思いがした。

 いや、……声の主は女だった。

 目の隅に赤い姿が見えた。浄水場に、神原を見つめる女がいた。雨の中でも、その赤い色は落ちない。何かを呟く唇。

 赤い女。いつまでも赤い。

「逃げないで。待って。おいていかないで」

 神原には女がそう言ってるような気がした。二人はかろうじて地下から脱出出来たが、何も成し遂げてはいない。怪物たちと遭遇し、心残りを置いてきただけだ。


 きつい浄水場の傾斜をどうにか登り、フェンスの金網を越えた。それだけでくたくたになり、何度も雑草の中で休んだ。

 ベンチがあり、その傍らに蛇口があった。佐々木はしがみつくように、そこからがぶがぶと水を飲んだ。

 神原は、公衆電話を見つけた。スマホ時代にまだ残っていたのが有難かった。きっとサカガミの社員の一部が使うのだろう。財布は無くなっていたが、左ポケットには免許とテレホンカードが残っていた。テレホンカードをずっと何年も使ってなかったのが幸いだった。くしゃくしゃになった葉月の名刺から、彼女の携帯を鳴らした。

「これはこれは、神原刑事……今度はどんな御用かしら?」

 何かを食べる葉月の声が聞こえた。

「時間がないんだ。用件だけ言うから、クッキー食う手を休めて対処してくれ」

「ふうん?」それでも、ぽりぽりという音が聞こえた。

「お巡りさんの田原が死んだ。高倉さんも地下で瀕死の重傷だ。今は……もう生きているか分からない。サカガミ工場浄水場から地下へ行く場所がある。そこへ救急隊員を駆けつけさせてくれ」

「一体、何のことを言ってるの?」女刑事の声に警戒が加わった。

「救急隊員には、あんたもついていくんだ……銃を持ってな。可能な限り同僚をしこたま呼べ。全員にでかい銃を持たせろ。じゃなきゃ、大変なことになる」

「ふざけないで。説明して。何があったのよ」

「言っても信じてくれないだろうが、町の地下には人を喰う怪物……サカガミが生んだペットの成れの果てがいる。遺伝子改造された犬が巨大化した化け物で、人々を餌食にしているんだ。名前はレヴィ。あんたも見たチワワの奇形なんて及びもつかないデカいのが、堂々と下水で蠢いている。おれたちはそいつから命からがら逃げてきた。その怪物と飼い主が、今までの行方不明と殺人事件の犯人なんだ」

「おれたちって?」

「おれと佐々木だよ」

 佐々木って? と葉月が言った。被害者の名前を覚えてないのかと神原は怒鳴った。いや、無理もない。直接の被害者の名は及川だ。

「その……好美ちゃんの父親と何をしていたの?」

「地下へ潜っていたんだよ。詳しくはまた話す。そう出来ればな」

「地下へ? どうして?」

「じれったいな。さっさと医者を駆けつけさせてくれ」

「ちょっと待ってて。今、どこにいるの? そこを動かないで」 

 テレホンカードが切れたので、神原は受話器を叩きつけた。

「どうなる? 警察は動くかな」佐々木が言った。

「警察がおれの話を信じて、銃を持って立ち向かうとはとても思えない。……だが、怪我人がいるとなると救急隊員くらいは派遣するはずだ」

「あの怪物に格好の餌を与えるだけかも」

「そうなる前に、おれたちが何とかする必要があるな」

 神原は手近のセダンに近づいた。おそらくサカガミの社員が使っている車だ。周辺には他の車はない。社員も見えなかった。神原は頭ほどの大きさのブロックを手にして、フロントガラスを叩き割った。

「動かせるのか?」

 分からない、と言って神原は座席に潜り込んだ。エンジンフードを開け、前方に回って点火装置を調べた。プラグコードはすぐ見つかり、フェンスそばに落ちていた太い針金を感電しないようにバッテリーとイグニションコードにつないだ。

「なぜ、そんなことをする?」

「先にダッシュボードに電力を通さないとエンジンがかからない……映画のようにはいかない」

「よく知ってるな」

「きみと違って、学生時代は悪ガキだった」

 そう言って神原は、スターターの駆動装置から端子とバッテリーコードを引き抜き接触させた。ばちっと火花が出たと同時にエンジンがかかった。ハンドルのロックをどうにか解除し、神原は車を発進させた。

 サカガミ工場内を通過し、社員に顔を見られて通報されるのはまずかった。倉庫側に向かい、駐車場を越えて街路に出ようとした。

「裏口はないぞ」

 C倉庫の裏手に、幸いにも薄いフェンスを見つけた。

 神原は金網にセダンを突っ込ませて、強引に突破した。車体がへこみ、フロントガラスにひびが入った。どうせ他人の車だ。通り抜けようとしたとき、あのゼロ番に置かれたワゴン車がちらりと見えた。

 犬たちが悲しそうに神原たちを見送った。

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