第43話 セントエルモの火

 神原浄は無我夢中で、トンネル内に張り巡らされている白い触手を踏みつけて進んだ。放置された犠牲者たちを見て、それが誰の仕業かに思い至った。今まさに背に迫る乱杭歯の巨大な怪物が、川辺に近づいたものを誘いこんで食い殺したのだ。

 そして、尚且つ怪物は死んだ後も、かれらを苦しめているのだった。

 ……この触手のようなものは何なのか――あの怪物と関わりがあるのか――様々な疑問が浮かぶが、いまはその答えを探しているヒマはない。

 神原と佐々木は怪物から逃げるのに精一杯だった。

「神原刑事! 佐々木さん、止まりなさ……」

 警官二人は、真正面に迫る巨大な獣の姿にようやく気づいた。

「何だ、ありゃ……」

 迫り来る黒い獣の姿に呆然とした警官らは、向かってきた神原と佐々木に勢いよくぶつかった。四人はお互いに絡み合いながら泥水に崩れた。

 田原は汚泥を飲みつつもすぐさま立ち上がり、その瞬間にも――神原か佐々木のどちらかを拘留すべきか、それとも両方か、そしてトンネル内を勢いよく駆けてくる異様な獣の正体を見極めるのが先か、迷っていたが

――その決断は、出来なかった。

 その怪物は、並み大抵の動物よりも素早かった。怪物はその巨大な顎をもって、田原の頭をまるでペンチがネジを挟むように、直角に折り取った。制帽が文字通り吹っ飛んだ。

 数本の枝がまとめて折れるような音がし、残された胴体は突然頭を失ったことにうろたえるかのごとく、びくびくと痙攣しつつもゴミの海に落ちた。

 ぎゃあああーーッ!

 神原には、その悲鳴を誰が発したのか分からなかった。トンネル内には体を損壊した霊たちの呻き声も満ちていたからだ。

「逃げろ! 逃げるんだ」

 佐々木が誰を見ることなく叫んでいる。

 おそらく、自分自身に叫んでいるのだ。

 同僚の体(首なし)が川底へ沈むのを見た高倉は、警官としての勘が働いたのか拳銃を取り出した。ピストルをそのまま怪物の頭に向けた。粗暴な性格が幸いしてか、元もとケンカっ早いのか、引き金をひくことにためらいがなかった。トンネル内に一発の弾丸の発射音がこだまする。

 しかし、次の瞬間には、黒い獣がかじり取った警官の頭を顎で砕きつつ、高倉を全身で突き飛ばした。高倉が発した弾丸は、牙に当たって跳ね返り、怪物の体に毛ほどのダメージも与えられなかった。

 怪物は世界最高ランクのボクサーに匹敵する――いや、それ以上の強烈なパンチを繰り出した。高倉は、ダンプに撥ねられたかのように軽がると宙を舞い、壁に激突した。

 神原の耳に何かが潰れるような音がした。

 高倉のだらんと開いた顎から血が滝のように流れ落ちる。しばらく壁に引っ付いていた大きな体が着水し、汚泥にずぶずぶと沈んでいく。まだかろうじて意識があった高倉は目を見開き、自分を傷つけた正体を見た。

 拳銃を向けた判断は、正解だったのに……。 

 怪物は弾丸によって折れた牙をこそげ落とすように壁に頭をこすりつけた。壁にいくつか深いあぎとが残る。怪物は何が気に入らないのか、苛々と自身の毛並みをぼりぼり掻いた。見間違いか、その中から小さな骨がばらばらと落ちたように見えた。

 怪物は顔を傷つけた相手――とどめを刺そうとするかのように高倉を見た。

 助け……

 顎が砕かれているのに、高倉がそう言ったように神原に聞こえた。

「何をするんだ!」

 佐々木が神原に叫んだ。

 あろうことか神原の足が怪物側へ向かっていた。好きこのんでUターンしたいワケではなかった。血まみれとなった高倉を放っておけず、思わず駆け寄ってしまったのだ。

「放っておけよ!」ユズルが言った。

 だが、神原はその忠告に従えず、高倉を粘る水面から引きずり出した。

「まだ、生きてる!」

 湿った筋肉質の体は重かったが、神原は必死で高倉を背負い、駆け出した。

 文字通り、死に物狂いで。

 いつもの体力なら、きっとこの巨体を背負うなんて無理なはずだったが、火事場の馬鹿力のようなものが働いた。

 振り返らず、必死に、何も考えずに駆けた。恐怖がガソリンとなって、神原の足を動かした。

 怪物が、神原を見た。

 獲物を捕られたと思ったのか、全身の毛を逆立てて吠えた。化け物の脚は長く、その一歩一歩が力強かった。踏みしめるたびに地面が揺れた。そして、暗闇の中でも眼が利くのか、その足取りに迷いがまるでない。目標を捕捉したサーチライトのように獣の目は神原を捉えていた。

 警官を抱える神原の行動に呆れつつ、佐々木は逃走経路を導いた。

「早くしろ! 早く!」

 ぜいぜいと息を切らせて、神原は佐々木の後を追う。背後にいるはずの怪物は、追ってきているはずなのに、なかなか神原に追いつけない。体躯が巨大すぎて、この狭すぎるトンネルでは走れないようだ。時おり、怪物の体毛が壁にこすれる音がする。

 神原と佐々木の前に十字路が立ちふさがった。

「どっちか分からない!」

 混乱する佐々木には、自分たちがどちらから来たのか、どちらに逃げるべきか判断つかなかった。

「今は、どちらでもいい!」

 神原は高倉を背負ったまま、少しでも明るい方向へ逃げた。

 ……だが、いきなり足元が深くなった。神原と佐々木はそのえぐられた川底に足を取られ、泥水の中に転んだ。

 神原が泥まみれの顔を上げると、化け物が十字路に迫っていた。

「くそ……」

 これまでか、と神原は思った。

 友人に従ってここへ来たことに後悔はなかったが、見たことない化け物に襲われるのは想像だにしなかった……。得体の知れない獣に噛み殺され、自分もトンネルの奥にいたような、体を損壊した霊たちと同じようになるのだろうか……。

 冗談じゃないと思ったが、すべきことは浮かばなかった。

 体中が恐怖に痺れて、何も出来ない。

「おい、くそったれ! こっちだぜ」

 その時、ヤンキー少年の霊が化け物に向かって叫んだ。

 驚くべきことに怪物は、神原にしか聞こえないはずのその声に反応した。化け物はユズルに向かって怒号を上げると標的を変えた。

 獣の体からうっすらと青白い霞が、まるで蒸気のように噴き出した。

 あれは?

 蒸気は、セントエルモの火のように怪物を包んで燃えていた。オーラのように。怪物の生命力をそのまま表しているようだった。怪物の醜い体と相反するように美しい。

「かかってこいよ! バケモンが」

 怒れる獣はいびつな牙の並んだ大口を開け、神原たちとは反対側の通路にいた少年の胴体にかぶりついた。

 霊であるはずのユズルの姿を牙が捉えた。

 ユズルが断末魔の悲鳴を上げる。

 一度、シンナー中毒か何かで死んだはずなのに、少年は二たび痛みを受けていた。

「いやだぁーっ、助けてくれーッ」

 ユズルと神原の目が合った。まるでブルドーザーに挑んだ子供用自転車のように、少年の胴体は無残に砕かれようとしていた。

「助けてーっ! 痛い! 痛いよーッ」

 神原は、どうすべきか迷った。たとえ怪物に近づけても、ユズルの体を助け出すことが出来ると思えなかった。霊の体は、霧のように掴みどころが無いはずだ。意識を失った高倉を捨てることも出来ない。

 ……なぜ、あの獣は霊に触れられるのか。

 何なんだ、あの怪物は。

「何をやってるんだ!」

 佐々木が、神原の肩を乱暴に掴んだ。「逃げるんだ、神原!」

「ユズルが……喰われそうなんだ。何とかしないと!」

「そんな男は、いない! 幻だ!」

「いるんだ、少年が。おれには見えるんだ!」

「いい加減にしろ。巻き添えになるつもりか。逃げるんだよ!」

 怪物は少年の体を、先ほどの田原警官にしたように折り切ると床に捨てた。ユズルの下半身はトンネルの奥に、上半身は足元の白い触手にからめ取られた。

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