第44話 トロッコ列車坑
怪物が、次の獲物を求めて目を爛々と光らせた。
「まずいぞ」
神原浄と目があった。怪物は、千切れたユズルを踏みつけて進み来る。
怪物はただの獣ではなく、どこか知性を感じさせた。神原を睨みつけるその眼には、単にテリトリーを犯されて怒っているだけでなく、相手を心底屈服させたいという汚れた欲望に満ちているようだった。
遠くから何かが流れこんでくる音が聞こえた。
怪物と神原たちの間を仕切るかのように土砂が床を覆った。トンネルの奥から放流されたようだ。十字路がたちまち泥水に満ちあふれた。
神原の膝までが、あっという間に濡れた。
怪物はその勢いに慣れた感じで足を踏ん張った。ずっとここに住んでいることを、その仕草が感じさせた。しかし、わずかながらスキが生まれ、神原はそれを機に怪物から離れた……が、思いついたようにウイスキーの瓶を手に取ると、ハンカチをねじって押しこんだ。
「これでも喰らいやがれ!」
警官を背負いながらだと難しかったが、必死だと何とかなるものだ。ライターでウイスキーに火をつけると、化け物に向かって投げ入れた。即席の火炎ビンは怪物のすぐそばで砕け割れると、炎の粉末をはじき飛ばした。思わぬ抵抗に黒い獣が怒声を上げた。
しかし、怪物の体に燃え広がることを期待した神原の思いも空しく、その炎は土砂のなかに消えてしまった。
……だが、距離を稼ぐことは出来た。二人は、振り向くことなく全力で駆けた。神原はわずかに先を行く佐々木豊に従った。体をあちこちにぶつけながらもふたりは疾走した。
しかし……、
「くそ。間に合わなかった!」
記憶にある通路にたどり着いたが、そこは泥水であふれていた。いつの間にか川が満ち、退路を覆ってしまったのだ。
外に出る為には、汚泥を潜って泳ぐしかない。
とても、不可能だ。
「マンホールはどこだ?」
すぐそばに地上への出口があった。神原は飛びつき、鉄の蓋を開けようとしたが、びくともしなかった。地上側から鍵が閉まっているのだ。
「どうする?」
「逃げられない!」
天井には他に出口が無かった。神原と佐々木は、お互いの顔を見合わせた。どちらにも絶望が浮かんでおり、真っ青だ。地面が小刻みに揺れた。最悪が近づいているのが分かった。怪物が来るのが早いか、このトンネルが土砂で埋まるのが早いか……。石混じりの泥流が二人の腰までを濡らした。
神原は、ぐるぐると懐中電灯を振り回し、通路の脇にかろうじて人が通れる隙間を見つけた。
「あれを通り抜けよう。やつの図体じゃ、入りこめないはずだ!」
佐々木も頷き、神原の後に従った。肩を痛めるのも構わず、勢いよくコンクリートの隙間に飛びこんだ。高倉の体を引きずって進んだ。その狭さは自ら怪物の口に飛び込んだように錯覚させられた。嫌でも閉所恐怖を呼び、体が何倍にも縮むように身がすくむ。
「急げ! 急ぐんだ」
背後に溶岩のような熱が追ってくるのを感じた。廃水がここまで流れこんできたのだ。まるで熱湯のように熱い。工場廃水が、浄水場の配水と合流してるのだ。
神原と佐々木はその渦に巻きこまれた。前のめりに押され、喉まで泥水があふれた。石つぶてがこめかみに当たり、神原はその痛みに思わず高倉を握っていた手を開いた。
視野が暗くなる。神原は泥水に流されるまま気を失った……。
「……起き……」
「頼む……」
「……目を……」
軽く神原浄の頬を叩く者がいた。佐々木豊が神原の体を揺すっていた。
「大丈夫か?」
神原は意識を取り戻した。それと同時に喉の奥に不快感を感じ、砂混じりの胃液を吐いた。
「良かった。意識が戻らなかったら、どうしようかと思ったよ」
佐々木が言った。
「生きてるのか? 信じられない」酸っぱさの名残にむせて、神原が言った。
「ああ、私たちは助かったんだ」
舌の裏の小石をかき出すと、神原は辺りを見回した。いまだ暗い……ということは、まだ地下にいるのだ。
立ち上がろうとすると、体中の筋肉がみしみしと合唱した。ひどい目まいがして、神原は地面に跪いた。拳を握ろうとしても、びりびりと痺れて出来ない。天上の高さが分からないので、頭をぶつけないようそのまま座り込むことにした。
全身泥まみれの佐々木の傍らには、高倉警官の姿があった。顎の骨が砕けており、その痛々しい様子は正視できなかった。制服は真っ黒で、帽子や手錠といった官給品がすべて無くなっていた。
いや、拳銃があった。黒光りする武器がいまだ警官の手にしっかり握られていた。気を失っても、あの怪物に報いるつもりだったのだろうか。見上げた根性だ。
「お巡りさんは?」
「生きている。だが、意識は戻らない……」
胸に深い傷があった。傷口まわりが赤く染まっているのが、暗闇でも分かった。
神原がシャツの袖を破って汚れた傷口をふさいだ。だが、みるみるうちに赤くなる。ありったけの布切れを高倉に巻きつけた。
神原が高倉の口に手をかざした。薄い呼吸。長く保つように思えない。
あの時、どうしてこんなに重い男を運べたのか、神原には分からなかった。まさに火事場の馬鹿力だった。
……あの怪物から逃げ切れたのか?
神原の呟きに、佐々木が頷いた。
そこでようやく神原は安心して、全身から息を吐き出した。そして、すぐ大量に吸いこんだ。濁り腐った空気でさえもありがたかった。
「……ここはどこだろう?」
「地下のさらに奥だ。あの場所からさらに土砂で流されてしまった」
「どこかへ抜け出られそうかな?」
「分からない」佐々木が言った。「もう、この辺りは地図に載っていない。すっかり古い坑道へ紛れこんでしまった」
かろうじて懐中電灯が生きていた。予想外に広く、目をこらすと人工的な空間であることが分かった。天井や壁一面に、古いタイルが貼られている。ブリキで出来た看板が壁に貼られていた。着物の女性が印刷されており、明治か大正時代を感じさせた。
「町を横断するはずだった地下鉄だよ」佐々木が言った。
あやうく神原はプラットホームから、線路側へ落ちるところだった。目をこらすと、レールが敷かれているのが分かった。双方向の二車線で、何本もの柱で区切られており、一方はずいぶん先へ伸びている。片方は行き止まりだ。川の音が聞こえる。佐々木がここまで神原と高倉を運んでくれたらしい。
「レールはずいぶん狭いぞ。これじゃ、地下鉄車両は走れないと思うが……」
「ああ、トロッコ列車だよ。明治時代に金鉱用に掘られたもので、このトンネルを利用して昭和四十年代までに矢河原線が建設されるはずだったが、進路の先に貝塚があるのが見つかり、工事は一時中断になった。しかし、再開のメドが立たず放置されたんだ。もう二度と使われることはないだろう」
錆びたトロッコがあちこちで横転していた。ふたりはふらふらとホームに残された古いベンチに座りこんだが、すぐにぼきりと折れてしまった。その様子を見て、お互いが笑いあった。
全身を覆っていた恐怖の残滓が、笑い合ったことで少なくなった。
佐々木が、ペットボトルの水を神原に差し出した。
「持ち物のほとんどが流されてしまった。最後の一本だよ」
神原は震える手で受け取って、口をつけた。
こんなに水がうまいものだったとは!(最高級のワインのようだ)
神原は飲み干したい誘惑にかられながらも、一口二口だけで我慢した。回らない頭でも、いまボトルを空にすべきではないと思った。ポケットを探ると、チョコレートバーが残っていた。
「助かるよ」
震える手で袋を割き、佐々木と分けてその甘みを味わった。満腹にはならないが、幾分冷静さが戻ってきた。
「出口を探さなければ」佐々木が震える声で言った。「まだあいつの吠え声が聞こえる気がする」
「さっきのあのバケモンは、いったい何だったんだ……」
ようやく神原の頭でも、先ほど見た怪物について考えられるようになった。
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