第42話 レヴィ登場

 神原浄は佐々木豊の顔を見た。その顔に不安が浮かんでいるのが分かった。

「何の声だ?」佐々木にも聞こえたのだ。

「……分からない。まるで獣のようだった」

「こんな場所に、ドブネズミ以外の動物はいない」

「ライオンみたいだったぜ」ユズルが言った。

 確かに、動物の鳴き声のようだった。だが、神原には聞き覚えのある気がした。

 夜明けに聞いた野犬の遠吠えのような……。

 だが、金属を引き裂くようなそれには、聞いてはならない不吉さが混じっていた。西洋には聞くと早死にする妖怪の根があるという。まさにそんな感じだ。聞いたことを後悔させるような声だった。怒りと悲鳴がないまぜになった形容しがたい不気味な呻き声。

「……今のは?」

 何かに気づいた佐々木の目が、きょろきょろと辺りを見回していた。

 みしみしと闇の奥から何かが近づく音が聞こえた。顔を動かせるいくつかの霊たちが、その方向を見つめ、まともな言葉にならない声を上げた。

 ひいいーッ、ひいいいーッ。

 助けてぇ~助けてえええっ。

 恐怖の混じった悲鳴が、神原の耳を突き刺す。

「行くな、佐々木!」

 神原が退こうとするのとは裏腹に、佐々木はその正体を確かめようとトンネルの奥へ行こうとする。恐怖心にかられた神原は、佐々木の腕を掴んだ。

「駄目だ! 逃げるんだ、佐々木」

「ああ。だが、何がいるのか確かめたい」

「この世には、見なくてもいいものがあるんだ。あれが……それだよ」

「また霊のハナシか」

「そうじゃない。嫌な予感がする。あれは人間の声じゃない! 得体の知れない何かの声なんだ」

「もう、そういうのはいい。もしかしたら、警官の悲鳴かも知れない。トンネル内で反響して、不気味に聞こえたのかも……」

「そうじゃない! おれを信じてくれ」

 ユズルがぐいと神原の肩を引いた。

「こんな分からず屋のオヤジ、放っておけよ。神原のおっさん、おれと逃げよう!」

 意志が固いときの霊は、物を動かせるのだ。

 その勢いから少年の混乱が分かった。だが、神原もユズルと同感だった。心臓の鼓動が全身に聞こえる。パニックの曲に合わせて体中に嫌な脂汗が吹き出す。神原浄の本能が「逃げろ」と叫んでいた。

 従うべきだ。

 ……しかし、神原の制止を聞かず、佐々木はトンネルの奥に向かって言った。

「誰かいるのか?」

 その返事は唸り声だった。

 来てはならぬ場所に侵入したものたちを威嚇する、怒りの滲む声だった。辺りの霊が発する悲鳴の中でも、神原にはそれがはっきり聞こえた。

 ずしんと、予期しなかった地震が起こり、体がぐらついた。……いや、何か巨大で重いものが、いきなり目の前に現れたのだ。

 まるで形があるように、空気がばりばりっとひび割れた気がした。

 佐々木が向けた電灯の光に、今までそこには無かった壁が現れた。ぬめる剛毛に覆われており、ふたつの鈍く光る眼があった。神原は口をぱくぱくと開け、目の前のものを何とか形容しようとしたが、……出来なかった。

 電灯に照らされたそれは、神原と佐々木が今までに見たどんな獣にも似ておらず、全身泥にまみれた長い灰色の毛に包まれていた。天井に届きそうな巨大な体躯。体の一部が奥の闇に消えていて、全身が見えない。トンネル内を包む触手が化け物を歓迎するかのように波打った。

「バケモンだ」ユズルが言った。

「本当にいたんだ……信じらんねえ」

 ユズルの声に反応したかのように、獣は乱杭歯の並ぶ巨大な顎を開くと、爆発のように怒号を発した。辺りに漂っていた腐臭を吹き飛ばすように咆哮はトンネル内に轟き、神原と佐々木の体を恐怖で硬直させた。

 (逃げろ。)

 神原はそう呟いたが、声に反して体が動かない。

 佐々木が、悲鳴を発していた。何度も何度も嬌声を上げていた。本人も気づいていないらしく、神原もそれまで気づかなかった。

(逃げるんだ!)

 今まで見たことのない化け物の姿に全身が臆してうまく反応しない。

 獣の頭からは角が生えていた。いや、歯の数本が頭蓋を突き破って、まるで角のように外へ伸びているのだ。バビルサと呼ばれる豚の仲間には、そんな感じで歯が剥き出すのがいるが、怪物のそれは凶器のように飛び出していた。

 何本ものよだれが床に向けて筋を引いており、それを受けて床の触手が蠢いた。二本の前脚は熊のように太く、長い。後足は見えないが、太い体躯が蛇のようにのたくり体を支えている。心なしか、肉体と肉体をつなぐ鋼線が見えた。フランケンシュタインの怪物のように、肉塊がつながれてこの生き物が構成されているかのような……怪物が進むたびに泥水が泡立ち、地面がぐらぐら揺れた。

 まさに怪物という形容が相応しい。

 クビヌキ通りに現れるバケモンというのは、こいつか。

 どう見ても優しい生き物ではない。悪に形があるのなら、まさにこれだと思わせた。

「やめろ!」

 神原はかろうじて佐々木の肩をつかみ、悲鳴を上げるのを止めさせた。 

 獣も吼えるのを止め、神原たちの様子を探るかのように見つめた。そして、鼻息を鳴らすと、まるで闘牛のように片足を踏み鳴らし、汚泥を飛び散らした。牙と歯を剥き出している様子から、神原たちを歓迎していないのは明らかだ。

「……ふたりとも、動くな!」

 そのとき神原と佐々木の背から、声がした。

 その怪物にとって招かれざる客は、神原と佐々木だけではなかった。

「神原刑事、佐々木さん、面倒をかけないでください」

「これ以上、てこずらせると公務執行妨害で逮捕するぞ!」

 ふたりを追いかけてきた警官だった。

 高倉と田原だ。

 何で、こんな最悪のタイミングに現れるのか――神原は、二人を救いの神とは思わなかった。ただの足手まといだ。

 新たな闖入者の登場は、怪物の機嫌をさらに損ねたようだった。巨木のような足を何度も地面に打ちつけると、怒号を上げて一直線に佐々木に向かってきた。

 そこではじめて佐々木は、迫り来る脅威から逃げるために反応した。生命の危機を感じた本能か。くるりと振り返り、神原を荷物か何かであるように引っ張って逃げようとする。

 神原も従い、駆け出した。

 警官たちには生き物の様子が見えないらしい。いや、神原と佐々木の姿が陰となって、見えないのだ。怪物の姿も暗闇と同化しており、すぐ近くまでいかないと判別しがたい。もっとも、想像すらしてなかったに違いないが、警官二人は先ほどまで背を向け逃げていた中年男ふたりが、血相を変えて向かって来たことに驚いたようだった。

「止まれ! ふたりとも、そこで動くな!」高倉が言った。

 神原と佐々木は、警官ふたりが警棒を手にしたことに気づいたが、それには構わず逃げることに必死だった。

「逃げろ! お巡りさんたち、逃げるんだ!」神原が、真正面に近づいてきた高倉に言った。

「殺されるぞ!」

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