第41話 霊を喰らう触手

「何だって? 神原、何を言ってるんだ」佐々木豊が、急に大声を出した神原浄に驚いた。

「……声が聞こえる」

 神原が耳をすます。

 壁を伝わってくる祈りのような声。まるで歌っているみたいだったが、美声とは言いがたかった。音程もズレてて、歌詞も安定しない。悲鳴だと勘違いする瞬間もある。胸騒ぎを助長し、心を落ち着かなくさせる。耳を覆いたくなる衝動をこらえて、神原たちは祈りの聞こえる方向に進んだ。

「さっきの警官か? 私たちを追いかけてきたのか。そうだとすると何て無防備なんだ……しかし、前方から聞こえるはずがない。回り道なんてないんだから。もしかして、地上からマンホールを辿ったのか。どんな声だ? 私には聞こえなかった」

「まるで悲鳴のような……」

「悲鳴? 暗闇で怪我をしたのかも知れない。トラブったのか」

「そんな声じゃない……」神原が言った。

「自業自得だが、何とか出来るのは私たちだけだ」

「おれにも聞こえる」ユズルが言った。「……薄気味悪くなってきた。この声、なんか変だぜ。近づくのはやめて戻ろうぜ、神原のおっさん。帰ろう。嫌な予感がするよ」

「放っておけないだろ」神原は小声で言った。

「どうするつもりなんだよ?」

 ヤンキーの少年霊が不安そうな顔をする。

 懐中電灯の光をなるべく先まで照らすが、何も見えない。深く濁った闇があるだけだ。声はいくら近づいても、音量が高くも低くもならないのだった。水面はおだやかだが、その静けさが逆に居心地悪さを感じさせた。

 そこではじめて神原は気づいた。いままでトンネル内に、コウモリはおろか、ドブネズミやゴキブリなどの生き物の姿が見られなかったことを。

 つまり、静かすぎるのだ。祈り以外は。

 内心に不安が形を作りつつあったが、その正体はまだ分からなかった。その不安を打ち消すように、神原はあえて大声を出した。

「おーい、大丈夫か!」

「お巡りさん、返事をしてくれ」佐々木も同感らしく、静けさを打ち消そうとするかのように叫んだ。

 それに気づいたかのように……

「……声が消えた。いや、静かになった」神原はぶるっと震えた。嫌な予感がする。

「くそ。ただでさえ、私には聞こえなかったんだ。声を上げてくれないと、発見できないぞ」

「あんなにでかい声が聞こえなかったのか?」

「ああ、何も聞こえなかった。何て言ったんだ? 誰の、どんな声だった」

「うまく説明できない」

 あれは、人間の声じゃなかったのか。……だとすると――

「このおっさん、耳がおかしいのか?」ユズルが言った。

 仮にあの祈りのような声が、人間のものじゃないとすると……霊の声だとすると、普通の人間には聞こえないんだ。そう神原が言いかけた途端――

「おっと! 何だ、こりゃ」

 神原はぐにゃりとしたものを踏んだ。泥ではなく、まるで海で軟体動物を踏んでしまったような、生理的に薄気味悪い感じがあり、神原は反射的にびくりと退いた。そして、足元に懐中電灯を向けて、思わず息を飲んだ。

 床下一面に、正体の分からない気味の悪いものが這っていた。濁った乳白色で、一本一本が長く、太い。イカの足のようだ。よく見ると、それはまるで血管のように脈動しており、辺りを照らすとそれは蜘蛛の巣のように天井まで広がっていた。木の根のようでもあり、何かの触手のようでもある。神原が踏んだ部分が、びくびくと脈打ちのたくっていた。

 嫌な想像だが、その色は精液を思わせた。

 生き物なのか、何なのか分からない。

「うげっ、何なんだよ! 気色悪いな」少年が神原と同じものを見て叫んだ。

「静かにしろ」

 しばらくおさまっていた祈りがいきなり近くなった。すぐそばから聞こえるようになった。

 神原は恐る恐る電灯を構えると、前方を照らした。

 そこには、その触手にからめ取られた人間の上半身があった。下半身は、誰かに引き千切られたようにばっさりと消えている。まるで壁にそのまま埋めこまれているようだ。向こう側に触手が透けているところを見ると、霊と思われた。

 得体の知れない触手は霊の体内にまで侵入しており、ずるずると何かを吸い取っているようだった。蜘蛛の巣に絡まり、餌になりつつある小虫を思わせる。全身汚れた血にまみれた男は大口を開け、助けてくれと言った。

「カンベンしてくれよ!」少年が叫んだ。

 さらに奥には顔面の崩れた女の半身があった。声が出せず顎がぱくぱくと動くたびに、ポンプのように血を吹き出した。全身を触手まみれにして、泣き叫ぶ素っ裸の老婆がいた。垂れた乳がぶらぶら揺れている。首がないのに、じたばたと狂ったように動く少年の霊があった。

 神原の全身の毛が逆立った。

「助けて」

「痛い痛い痛い」

「ママーっ! ママーっ!」

 トンネル全体に、白くうごめく触手にからまった腕や足の断片が散乱している。神原とユズルにのみ見える哀れな霊たちの姿だった。

「お願いお願いお願い」

「ここから出してここから出して」

「あああ~ッ! かみさま~!」

 全員が恐怖を浮かべ、神原に向かって目を剥いた。助けを求めるように声にならない呻き声がコーラスとなってトンネル内に響いた。祈りだと思っていたのは、かれらの悲鳴と嘆きがミックスされたものだったのだ。

 神原はその風景の異様さに凍りついた。

「冗談じゃねえ! 何がどうなってんだ、おっさん!」少年がパニックに襲われている。

 思わず身を引いた途端に転び、神原は頭を壁に打ち付けた。視野がぐらぐらし、そのまま胃の中の一部を川面に戻した。

「大丈夫か? 何を見たんだ」何度も咳き込む神原を佐々木が支えて言った。

「辺り……一面に霊がいる」

「しっかりしろ。そんなものはない!」

 ……霊が見えないのはまだしも、佐々木には触手も見えないのか。

「いや、いるんだ。信じてくれ。何かに殺された人間たちの霊が、壁一面に埋めこまれている。全員が泣き叫んで助けを求めている」

「何か、って何だ? 神原」

「分からない。だが、ここは異常だ。何かがある。出直すんだ」

「早く逃げようぜ!」

 少年幽霊の頬に涙が伝っている。「こんな処、イヤだ!」

 佐々木は、神原の訴えに動揺を見せた。姿が見えなくても、ただならぬ雰囲気は感じるようだ。だが、引き下がる様子は見せなかった。

「確かに、壁がぼんやり光っている」佐々木が青白く光る壁を指さした。

「……だが、これはただの燐だよ。燐は二酸化炭素に溶けやすいから、地上から染みこんだものが吹き出しているだけだ。これが精神的なストレスで……きみは霊と錯覚したんだ。恐怖の中で現れた幻覚だよ。しっかりしてくれ! いま戻れば警官たちに捕らえられて、二度とここへは来れなくなる。好美の足を探せない。何のためにここまで来たんだ」

「佐々木、信じてくれ。得体の知れない何かがいるんだ!」

「帰りたければ、一人で帰ってくれ。私はひとりでも奥へ行く。きみは恐怖心にかられて、いるはずのない化け物に怯えてるんだ!」佐々木の瞳に狂気が浮かんでいる。狂気が動揺を押さえつけているのだ。

「違う!」

 神原がそう言った声を打ち消すように、今度はトンネル内に先ほどとは違った声が広がった。触手がそれに合わせてびくびくと波打った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る