第28話 株式会社サカガミ
「……まさか本当にお誘いがあるとは思わなかったわ」
女刑事の声が神原浄の携帯に聞こえた。
「ふと思ったのさ……誘拐事件の容疑者が、遺体をどこからか運んできたかってことを。用水路につながる土手は一方通行だが、自動車も通れる」
「犯人が、遠くで殺して川に捨てたってわけ?」
何かを食べているようなぼりぼりという音が聞こえた。まだ、あのクッキーを食べているのだろうか?
「可能性がないわけじゃない。遺体に指紋がなかったのは、川に浸かっているうちに流れたからかも。指紋は湿気にさらされると消えるだろう?」
「なるほど。だけど、ペットフードの会社に乗りこむ意味は分からないわね。そして、どうして刑事を辞めたあなたが探偵ゴッコをしているのかも」
「頼むよ。おれにはもう警察手帳がない。工場に入る権限はないが、おれにはおれの知りたいことがあるんだ」
携帯の向こうでしばらく無言が続いたが、やがて女刑事の折れた声――つまり、ため息が聞こえた。
「いいでしょう。ちょうど本部長に怒鳴られていたところよ。捜査も行き詰まっていたところだし、何をたくらんでいるのか知らないけれど、何かヒントがあればこちらも願ったりだわ」
女刑事・葉月道子の車で巨大な正面ゲートを越えたとき、〝株式会社サカガミ〟という看板が見えた。
犬猫をイメージした巨大看板がゆっくり回転していた。他にも動物を模した前衛芸術の巨大なモニュメントが芝生に並んでいる。
「……突然、お越しいただいても何もお見せすることが出来ません。いきなり来られて、工場内をうろつかれても困ります」
任意という名目でふたりは工場内を訪れた。突然の刑事たちの来襲に、いかにも営業屋然とした禿げた男が応えた。胸のプレートには課長補佐とあった。受付の向こうに見えるオフィスでは、社員たちが何事かと聞き耳を立てているのが分かった。
「この町を震え上がらせている事件のことは知ってるな」
神原は毅然とした風に言った。いかにも刑事といった感じで。
警察手帳は、葉月が最初に見せたので、目の前の禿男は当然ながら神原浄も刑事だと思うはずだった。
「現場は河川に近いが、この工場の敷地内ともいえる。事件との関与は免れないし、聞きこみがおれたちの仕事なんだ」
工場を訪れる際の示し合わせとして、この現場は神原が仕切ることにしておいた。イレギュラーの捜査だが、葉月自身は聞き込みが苦手らしいし、手がかりも容疑者もいない段階で、工場内をあてもなく捜索するわけにはいかない。葉月の腹づもりとしても、神原は女刑事と比べても経歴上は先輩だし、何かトラブルがあった場合は神原をダシに言い逃れが出来る。
葉月と行動をともにしていた若い刑事が、別行動したがっていたのも功を奏した。今はここにいない。
「業務に関わるすべてのファイルを見せろと言ってるわけじゃない。税務署じゃないんだ。行方不明の身元の中には、お宅の社員もいた。身辺調査だけだ。彼が勤めていた部署、訪れた場所、関わったスタッフと会いたい。……それだけだ。すぐ済むから」
「その社員と親しかった人間とは、すでにお会いになったはずです。ですから、事前にお知らせいただければ、こちらも何らかの対応が出来たのですが……」課長補佐の額は大量の脂汗で光っている。
「捜査は、御社のお仕事と違って、スケジュール通りには進まないんだ。分かったよ、あんたの名刺をもらおう」
「め、名刺をどうするんです?」
「あんたの名前を覚えて、上層部に掛けあうよ。公務執行妨害について意見を聞きたい」
「そんな……」
神原の言葉に、禿男はいかにも苦虫を噛み潰したような顔になった。ちらと葉月を見た様子から、この傲慢な物言いをする男を何とかしてくれという助け舟を求めたようだった。
葉月はにっこり笑って、
「そこまでする必要はないはずです、先輩」まるで横暴な先輩をたしなめるように禿男をフォローし始めた。まさに計画どおり。軽く神原の肩を押さえて、まあまあというジェスチャーをした。
「工場内を見学したいだけです。それくらいは構わないでしょう?」
葉月が苦笑いをすると、課長補佐は「……まあ、それくらいなら」と言った。
「しかし、工場内には研究室や気密室などの立入禁止区域もあるんです」
「それならば、どこが行って構わない場所で、どこがダメなのか知りたい。案内してくれ」神原は言った。
「そんな時間は……」
「そんな場所には立ち入らないわ。そこまで言うのはワガママというものよ。課長さん、この工場の地図を貸していただければいいわ。それくらいならいいですよね? いくつか社員に質問したいだけだから」
課長補佐は、葉月の言葉には頷いた。
聞き込みは苦手と言ってなかったか?
神原は、葉月道子の他人に付け入る才能に感心した。彼女には表面的な美しさはないが、それが逆に他人に警戒させない。
「まさか、無精ヒゲのまま来ると思わなかったし、そんな汚れたコート……いったい何を考えてるの。まさか、テレビの安物刑事ドラマを見て警官になりたいと思ったわけじゃないわよね? 頼むから外に出てもサングラスなんかしないでよね」葉月が言った。
「ああ。実は、刑事ドラマは大好きだった……いつか、同じことをしたいと思ったもんだよ。特に派手なやつ……タイトルは忘れたが、バイクに乗りながらショットガンを撃つのがあった。そういう刑事になりたかった。残念ながら、その機会は無かったね」
「あんな脅し同然なやり方で捜査していると思われると、また警察のイメージが悪くなる」
「あんたが警官全員のイメージを背負っているわけじゃないだろう? もっと、ひどいやり方もある」神原は言った。
「あたしは……女刑事として世に出ることは、世間へのイメージアップになると、警察学校で言われたことがあるわ」
「いかにも誰かが言いそうだ」
「そうね。だけど、あたしはあえてそれを受け入れたの。それを利用して、あたしはこの職業を手に入れたことに満足してる。先輩は何が嫌になってやめたか知らないけど、あたしはこの仕事を続けたいの。ここは歌舞伎町じゃないのよ。今後は、あたしのやり方に従ってもらうわ」
神原はわざとらしく肩をすくめた。
工場内の敷地は京都の町のようにそれぞれの区画に分けられており、窓のない工場と倉庫が高い壁となって並んでいた。すれ違う社員たちも似たようなグレーの制服を着ており、神原たちを見ても無愛想だ。おそらく社員が多すぎて、互いを覚えてられないのだろう。
それぞれの建物入口にはセキュリティ・ゲートがあり、特別な社員カードが無ければ屋内に入ることが出来ないようだった。工場内には研究室や社員寮があると聞いたが、どれがそれにあたるのか外からは分からない。
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