第16話 弱さが嫌になり
警官が本性を露にした。
神原浄は、高倉の目の底にある暗いにごりを見た。
「ただでさえ、面倒ごとが重なってる。マスコミの相手やら、町民の苦情やらな。うさんくさい連中も増えてる。仕事が溜まってやりきれん。あんたを解放した後、おれと田原がどこへ行かされたか知ってるか? 老人ホームでくそジジイ同士が喧嘩するのを止めてきたばかりだ」
「本音が出たな。おおかた、おれのこともまだ疑ってるんだろう」
「東京から舞い戻った刑事というのも引っかかる。コンピュータじゃ調べられない、後ろ暗いことをして追い出されたに決まってる」
「〝同類〟と言ったくせに」
「それは、田原が言ったんだ。刑事なんてただでさえ汚れやすい。ヤクザやら殺人犯やらといった汚れた連中と付き合ううちに、自分についた染みに気づかない……なんてよくあることだ。経歴に傷がついた男がヤケになって、故郷で問題を起こすなんて珍しくない。不正がひどすぎて天下りさえ出来ない役人が、実家で呑んだくれる構図なんて珍しくない。なまじ、知り合いになってしまった以上、あんたが例の殺人事件に何らかのカタチで関わっていたことが分かったら、いちど署まで連れてった手前、怠慢と言われても仕方がない。町から消えてくれ。顔を見せるな。それは町の為でも、あんたの為でもある。親切で言ってるんだ、分かるだろう?」
「あんた自身の都合ってのがプンプンするけどな。ダンボールにくるまっているおれを叩き起こさなければ、こうはならなかったんだ」
「うっとうしい連中を町から叩き出すのが、おれの仕事だ。いつでもやる」
「面白いな。出来るもんならやってみろ」
「ああ、何もためらいはない。止めるやつはいない。田原も口裏を合わせてくれるだろう」
神原と高倉はしばらく睨み合った。
その火花をきっかけに高倉を呼ぶ無線の音がして、ふたりは離れた。
酒屋を見つけたが、昼間っから路傍で飲むのはさすがに控えた。神原は脇道から少し離れた洋風の喫茶店に入り、コーヒーの乗った盆を手にして二階に上がった。ウィスキーをちびちびカップに注ぎ、高倉が口にしたミタカ事件のことをぼんやり思い出していた……。
事件では、誘拐された全員が遺体となって発見され、容疑者の男が自殺するという後味の悪い結果を残した。被害届の受理から三ヶ月半の苦労の末、決定的な証拠を掴んだあげく、逮捕状を抱えた捜査員たちが踏みこんだと同時に終わった。
三〇代の無職の男は、捜査員がマンションへ近づく気配に気づいて、持っていたハサミで喉をかっさばき自らに審判を下したのだった。
その現場を見たひとりが、神原だった。
鋏を首に立てながら、胸を赤く濡らした男がひきつった笑いを浮かべていた様子が蘇る。風呂場では、誘拐した者たちへの虐待写真が燃えていた。踏みこみ直前に、容疑者に対して気配を悟られた捜査員のミスといえばそれまでだが、神原の胸の奥には後味の悪いしこりが残り、責任追及の錘が載せられた。
神原が刑事を辞めたのは、自身に感じた絶望と、浮かばれぬ被害者たちの魂への贖い(あがない)が含まれていた……。
刑事を辞めた後も、神原の不眠は続いた。酒を浴びるようにして、脳を痛めつけないと悪夢にうなされる。地獄へ血まみれで逃げた犯人の笑顔が浮かぶのだ。それまでも東京でいくつかの事件に関わった。誘拐事件や殺人事件があった。必死で捜査し、ほとんどを解決に近いかたちで処理できた。だが、もともと刑事に向かなかったのか、事件の結果すべてに満足できなかった。
殺人事件の犯人を見つけても、被害者が浮かばれるわけではない。
誘拐された被害者を保護しても、心の傷を完全に癒せるわけではない。
事件の結果をファイリングしても、神原にはそういった懊悩がいつまでも残り、振り払えなかった。
神原の同僚たちは、それを心の弱さだと指摘した。刑事が死体の姿に慣れなくてどうする。死の匂いにいつまでも吐き戻すな。悲惨は頭を通過させろ。
忘れろ。殺人は世間から消えない。人ある限り際限はない。
いつまでも悩むな。忘れろ。
神原は反論できなかった。忘れられないのだ。
もともと神経質なタイプが災いして、ひとつのことに思い悩むとなかなか頭を切り替えることが出来ないのだ。
弱さが嫌になり、刑事を続けることに自信が持てなくなった。若くして刑事になれたが、まだ三十代だ。他の人生も考えられると決心し、辞職願いを出したのだった……。
この矢河原町へ戻ったのは、東京の十数年で培ったすべてを捨てる為だった。他に行くべき場所も無かったし、独身で子どももいない神原にとって帰郷は幸いと言えた。何にも煩わされずに、しばらくは故郷で酒びたりになれる――そう考え、故郷に戻ってからは片っ端から飲み屋に通った。居酒屋にスナックと場所はこだわらなかった。学生時代には目に入らなかった場所をあえて選び、高いアルコール純度の酒をあえて選んだ。カウンターでは端に座った。誰とも酌み交わすことはなかった。二日酔いを気にせず飲みまくった。
頭痛はむしろ心地よかったのだ。腹が減ればコンビニの安弁当で満たし、眠くなれば今朝のように人目につかない場所で寝た。刑事時代には車内や会議室のベンチで寝ることが多かったので、どこでも寝られる。
電話が鳴り続けても取らなかった。伝言が残ることもなかった。
携帯は新しいものに代えた。誰も番号は知らないので、もう何者にも呼び出されることはない。
……それが二週間続くとようやく自由を得た気になった。
もう、そろそろ夢も見ないだろう。
そう思えた矢先――。
神原はアルコール混じりのコーヒーをあおった。酔いが戻ると、空の灰色には先ほどの城や古い霊たちも見えなくなった。
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