第10話 電信柱の老婆

「本日は、大変失礼しました。ご協力感謝します」

 何が協力だと憎々しく呟き、パトカーを見送ると、神原は自宅へ向かった。曇空の向こうにぐずぐずと燃える太陽が見えた。すっかり朝だ。

 出勤しようとするサラリーマン数名とすれ違った。眠そうな小学生たちが、不安そうな保護者に引率されて駅へ向かっている。〝事件〟の後で、親たちが神経質になっているのが分かった。神原は思わず、かれらの目を避けてしまった。

 数年ぶりに見る近所の風景は、すっかり変わってしまったように思えた。酒が切れたせいか、世界がクリアに見える。昔は見られなかった三階建ての住居が増え、木造住宅が消えた。あったはずの商店が無くなり、変わりにコンビニが建っていた。

 ……自宅が見えてきた。鍵は確か、どこか植木鉢の下に隠していたはずだ。

 鍵を探している間に、ちょうど隣家の中年夫婦が見えた。ずいぶん老けたようだ。学生時代はよく挨拶をかわしたのに、険しい目つきを向けられた。顔を忘れられたのか、神原が変わったのか。

 痛む腰を押さえつつ玄関をくぐった。空気が固まっているので、外よりも廊下の方が冷えている気がした。

 閑散としたキッチンの冷蔵庫からビールを取ると、居間のソファにどっかと座りこみ一気にあおった。テレビを適当なチャンネルに合わせ、空腹を満たすために酒のつまみとして買ったあられやスルメを噛み砕いた。

 手元にあった手鏡で額の傷を見た。

 血は止まっているが、指で触るとぱっくりと開いた。意外と深い。その深さにゾッとした。なぜ、気づかなかったのか。救急箱からテープを取り出して、こびりついたかさぶたを削ってふさいだ。

 飲みかけのワインをそのまま干した。

 落ちついた頃、神原は二階に上がった。酔った姿を両親の遺影に見せる気になれず、仏壇前を素通りした。

 母親は三年前に。昨年、父親を亡くした。

 父は脳溢血で亡くなったが、両者ともこの町で天命を全うした。

 神原には、兄が二人いる。兄弟は特に仲が良いわけではなかったが、遺産をちょうど三分割にした。

 家については保留中だ。長男は東京に住んでおり、次男は地方にすでに家族を持っていた。昨年の葬式以来会ってないが、また数年会うこともないだろう。兄はふたりとも今すぐこの家を必要としていない。だから、職を無くした神原にとって屋根がある場所はありがたく、家賃を払わずにすむ実家に戻ってきたのだった。

 どの部屋も散らかっている。兄たちが自分たちに必要なものを根こそぎにしたらしい。

 朝から災難が重なった。泥に浸かるように眠りたい気分だった。布団を乱暴に取り出した途端、押入れの奥からアルバムの幾つかが落ちた。撮ったときはカラーだったのに、年月のせいでセピアに近くなった神原の少年時代の面影が見えた。かつての友人たちが笑顔でピースサインしている。

 思わず手に取った。酒混じりの脳に、懐かしい思いが苦みとないまぜになって蘇る。十に満たないのに、やけに大人びたそれぞれの表情。しかし、どの顔もぼやけておりはっきりとはしない。

 それらが、嫌いな虫を見るような顔の群れに変わる……。


 小学生の頃、神原と友人たちがグラウンドで運動するのをじっと見つめる子どもがいた……。その古びた着物を羽織った子どもは、いつも体育館の隅から神原たちを寂しそうに見つめていた。歴史の教科書に載っている昭和初期といった風景を感じさせた。神原と目が合っても表情が変わらず、来いよと手招きしてもその場を動こうとはしなった。

 帰宅時にすれ違う電信柱を見つめて動かない老婆がいた。

 放課後はいつも友人たちとサッカーをするので、その老婆と会うのは大抵日暮れ時だったが、彼女は朝からずっと立っているようだった。まるで電信柱に恨みがあるかのように、ぶつぶつと独り言を言っていた。

 友人宅の庭で、室内をじっと見つめる鎧兜の男が気になった。

 その友人には病弱な母親がおり、神原たちは気遣っていつも静かにボードゲームをするのだが、その武者は何か言いたそうに屋内を覗き込んでいた。

 ランドセルを背負った神原は、友人たちに言った。

「どうして、あいつはいつも着物なのかな?」

「あの婆さん、いつもあの電信柱にいるよな?」

「おい、おまえの庭に変な鎧のおっさんがいるぜ? けーさつ呼んだ方がいいんじゃないか?」

 友人たちのそれまでの談笑が止まった。昨日のバラエティ番組に出ていたアイドルの、誰が好きか嫌いかといった他愛ないことを話していたのに、その雰囲気が神原の何気ない一言で砕けた。

 おまえ、どいつのことを言ってるんだ?

 そんな婆さんなんか、どこにもいないぞ。

 庭には誰もいない。気持ち悪いこと言うなよ。

 そんな言葉を返された神原は、真逆に驚いたのだった。

「もしかして、見えてないのか?」

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