第3話 けんけんぱ

 十に満たない少女。無垢という形容がぴったり合いそうな、清潔感ある顔。

 少女は細い腕に金髪の人形を抱えており、薄い上着とスカートの明るい緑がこの寒空に違和感を感じさせた。

「寝てるんだ。分からないか?」神原は少女を追い払おうとした。

「おふとんで寝なきゃ、ダメよ」

「ああ、そうだな。面倒だと思ったんだ」

「どうして?」

 酒のせいと、うずく頭痛のせいだ。そう言おうとしたが、神原にはすぐさま言葉が出てこなかった。

「あっちへ行ってくれないかな」こんな夜明け前の暗がりで、この娘は何をしているのか。親はどこにいる?

「そんなこと言わないで。おじさん、遊ぼう」

「知らない人と遊んじゃいけないと言われたろう?」

 少女は若干悲しそうな顔をした。

「みんな帰っちゃった」

 ずきんとした痛みの針がまた脳に刺さり、神原は思わず舌打ちした。首まわりを押さえながら、静かな商店街を見回した。朝靄はガード下にまで侵入しており、それが少女を運んできたようだった。そう感じるほど、少女の存在には掴みどころのない透明感があった。また、それが改めて異質な雰囲気を感じさせたのだ。

 何かがおかしい。自然と心臓が高鳴る。通りすがりの猫が、神原と少女を見て全身の毛を逆立てた。

「かくれんぼでもしてたのかい? そういえば、友だちがおれを見つけられずそのまま帰ったことがあったな、昔」

「ううん、誰もあたしに気づかないみたい。子どもがきらいなのよ」

「何のことだ?」

 そして、ようやく神原は少女の正体に気づき、途端に心音が乱れるのを感じた。猫が悲鳴を上げた理由が分かった。乱れは不安を呼び、不安が全身に広がる怖気を呼んだ。全身の毛が逆立ち、汗が吹き出す。

「気づいたのはおじさんがはじめてよ」

「はじめて?」

 これは夢か。それともまだ酒のせいであらぬものを見ているのだろうか。

 幻覚にしてはやけに生々しい。

「おじさんだけが、あたしに話しかけてくれたの」

 少女のスカートのフリルに血が混じっていた。その血は、神原の額のかさぶたのように新しいものではなく、油絵の具のように時間をかけて凝り固まっていた。またたくネオンの光が少女の瞳の奥でそれに応えるように反射する。少女の顔には血色がない。路地にある錆びかけた看板が少女の顔の向こうに〝透けていた〟。

「霊かよ!」思わず声を荒げてしまった。

 少女はその言葉にぎょっとし、神原の視線を掴めず辺りを見回した。

「れいって、幽霊のこと? こわい」

 少女が震えて、手元の人形を握りしめた。

 神原は、油をさされてない重機械のように身を起こした。きしみが全身に広がる。胸に冷たいしこりが生まれ、思わず咳き込んだ。

「い、いやいや、違うよ」

 神原は、頭をぶんぶんと振った。あえて自身の頬を張った。思わず逃げ出したくなる本能に近い感覚を落ち着かせた。何かが神原をそこに留まらせた。パニックのさざ波をそれが押さえつけた。

「見間違いだ」

「そうなの?」

 ほっとして少女は、手にしていた人形の髪を撫で始めた。静脈が透けた少女の腕は、手を伸ばせば掴むことも出来そうだ。あまりにも現実感があった。首を鳴らし、眼をごしごしこすっても少女はまだそこにいた。

「お嬢ちゃん、名前は?」

「あたし、よしみ。おいかわよしみ。おじさん、家どこ?」

「すぐ近くだ。好美ちゃんは、ずっとひとりぼっちなのか?」

 少女はこくんと頷いた。

「ルウちゃんしかいないから」人形の名がルウちゃんらしい。

「そうか」

 少女は一向にまっすぐにならない人形の髪を梳かし続けている。ぶつぶつと人形に話しかけていた。「怖くないわよ」わずかにそう聞こえた。その言葉に神原の心がちくりと痛んだ。

「君は……」

 少女は、自分が死んだことに気づいていないらしかった。神原は思わず自身の正体に気づいているか少女に尋ねそうになった。人はそういう相手に遭遇すると真実を伝えたくなるものだ。しかし、こらえた。代わりにこう言った。

「だから、そのルウちゃんとけんけんぱしてたのか?」

 けんけんぱとは、片足でマスを移動する子どもの遊びだ。

 神原は、少女がいつまでも片足で立っているのが気になっていた。視界がまだはっきりしないのと、ちょうどごみ袋の山が邪魔をして腰から下が見えにくかったのだ。

「けんけんぱって?」

 幽霊は足が見えないとは言われているが――

 神原は少女の左足を見てぎょっとした。

 膝から下が無くなっている。思わず、仰け反った。ぶつかったごみ袋から、中身がぶちまけられた。

「おい、その足、どうしたんだ?」

「食べられちゃったの」

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