第2話 心地よい孤独


 野犬の遠吠えが聞こえた。

 身に沁みる寒さから搾り出された慟哭。

 誰かれ構わず救いを求めて空をかきむしる悲鳴に似ていた。

 それに応えるかのように神原浄がうっすら目を開けると、夜明け前の東に機嫌の悪そうな空が見えた。神原は袖口に固まった霜を振り払わず、重ねたダンボールを顔まで引きずり上げた。体を丸めた拍子に、酒瓶を倒してしまった。ウイスキーの残りが膝を濡らしたが、それに構わず目をつぶった。

 閉じたまぶたの裏に藤色の霞が踊る。人の形をしたもやもやしたものが、何処かへ消えていくのが分かる。その誰もが神原を通り過ぎていく。

 誰もひとりの酔っ払いなど気にしない。

 心地よい孤独。

 いつから自分は、こんな商店街の裏道に寝そべっているのか記憶がない。

 ずいぶん飲みすぎたようだ。口腔にアルコールで薄まった胃液の臭いがする。数ヶ月前では考えられない醜態だと、神原は思った。昔は酔いつぶれて駅を追い出された者たちを仕事帰りによく見たものだったが、その頃はかれらを蔑んだはずだった。

 いまや自分がその仲間入りというわけだ。

 ……しかし、案外悪くないものだとも思った。

 地面のコンクリートは固く、ダンボールは湿ってて臭うが、寒さに凍えていたおかげか悪夢を見なかった。

 ……しかし、遠吠えに気づいたのがまずかったのかも知れない。

 金属がきしむのにも似た頭痛に襲われ、汚れた指でこめかみを押さえた。ぽろりと皮膚の一部が崩れる感触があり、ずきっと痛んだ。薄目ごしに錆に似たかさぶたに霜が混じっているのが見えた。額を何かで切ったようだ。

 どこでそうなったのか、全く覚えがない。

 まあいい。このまま眠りたい。

 そう思ってまどろみに戻ろうとしたとき、神原浄は〝気配〟に気づいた。

 ……誰かに見つめられている感覚。

 商店街の客ではないようだ。まだ夜明けは遠く、自分のような酔客の残党でもなかった。

 誰だ?

 神原はそれを無視して、心の片すみで汚い言葉を罵った。夜明け前にゴミを捨てようとしている主婦か、犬猫の類と思った。もしかしたらドブネズミかも知れない。どこかへ消えてくれ。

 しかし、一度気になると、なかなか脳が眠りを取り戻してくれず、意識も夜明けのように少しずつはっきりしていく。額の痛みもなかなか薄まらない。筋肉は冷気を受けてめきめきと音を立て、骨はきしみ、その不快感は地面に寝そべることを難しくした。何者か分からない気配は、まだ続いている……。

 意識すればするほど、それが突き刺さる。心の奥底を覗かれているような……

 ええい、くそ。

 神原は苛立ちながら、体を回転させた。

 透き通った瞳が神原を見つめていた。

「よせ。見つめるな」

 神原はかすれた声を出した。喉がいがらっぽく、詰まる。

 小さな少女だ。

 神原を見つめていた女の子も、はじめて気づいたようにぴくりとし、両目を大きく開いた。そして、覗きこむように顔を傾けた。長いおさげの髪が揺れる。

 こんな時間に、少女がひとりで何をしているのか。

「パパ?」

「違うよ」神原は咳込んだ。

「パパじゃない?」

「……ああ、そうだ」

「おじさん、何してるの?」

 少女は、警戒することなく神原に話しかけてきた。それとは相反するように神原は神経を尖らせた。

 なぜだか分からないが、少女を包む空気に違和感を感じたのだ。

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