霊喰いレヴィ

佐藤陽斗

第1話 プロローグ

 死体と目が合った。

 ただれた肉塊の裂け目が、〝わたし〟を見つめて動かない。よどんだ灰色に遠い夜明けの照り返しがあった。まるで地獄から見つめられているようだった。

 わたしもその瞳と同様に凍りついていた。

 かろうじて目玉だけが回せた。ぴくりとも動かないものたちが、まだ明けぬ空を眺めている。心なしか助けを求めているようだ。寒さに身を寄せ合うようにも、咬みつきあっているようにも見える。乱暴にお互いを積み重ねているのに、誰も吠えない。

 死の獣の群れ。あらゆる種類の犬たち。

 シェパードやレトリーバー、ビーグル犬と……種類も分からぬ動物たちが、ねじれ、折れ、あるものは分断されて横たわっていた。

 生気を失った毛並み。毛を刈り取られ、かさぶただらけのものもいる。傷だらけのものは見ていられない。剥製と見紛うところだがそれにしては生々しく、かれらが少し前までは生きていたのだと分かる。気のせいかキューンと鳴くのが聞こえたが、それがどこから聞こえたのかは分からなかった。

 死を迎えた獣たちで築かれた山の向こうに灰色のワゴン車があった。斜めに傾いでテールライトを光らせている。点滅するその赤い光は竜を思わせた。その怪物に乗ってきたと思われるひとりが、スマホを手にしていた。目立たない制服を着た青年は、丁寧に草むらにテリア犬を寝かせるとフラッシュを焚いた。

「おい、悪趣味なことしてんじゃねえよ」

 青年の向こうから同じ制服を着た男が、〝積荷〟をかき出しながら言った。スマホを構えていた背の高い青年は悲しげな表情をしたが、あえてその男に逆らおうとせず残りを放る作業を手伝った。

 誰もいない霧の土手に、肉が重なる音が響いた。

「さっさとやっちまおうぜ。臭くてやりきれねえや」

 最後の一匹が投げ出されると、それを待っていたかのように山が自重で崩れ始めた。肉の塊が水面に落ちる音が辺りに響く。どぼんどぼんと獣の死体が川に落ちていく。その音が合図だったかのように蝿がたかり始めた。

 男たちはワゴンに乗り込み、もう我関せずといったかたちで土手を登っていった。竜が去った。その間にも犬たちは、非難の声ひとつ上げることなく沈んでいった。

 これがすべて川底に埋まるのだろうか。

 わたしがそう思った矢先、目の隅に動くものが現れた。

 ずるずるっと音がした。

 当初は風に揺れる枝葉か雑草の類と思われたのだが、違った。薔薇のような棘を持ったそれは、まるで蛇のように犬たちの上をのたくり、ひとつの首を掴むと土手を貫く排水トンネルの奥へ引きずっていった。

 その犬が仮に悲鳴を上げられたとしても、それは一瞬だったに違いない。

 見たことのない生き物だった。

 ……いや、生き物なのだろうか。

 まるで燐を浴びているように光る枝。海洋生物の触手のようにも見えるそれは、何度もその白色の姿を現すと、手当たり次第といった感じで触れたものを選り好みせず暗闇に導いていく。

 トンネルが細い舌を伸ばして死体を貪っている様が、まさしく適当に思われた。その異様な光景にどうしていいか分からない。冷や汗をかく為の肉体すら、今の〝わたし〟は持ち合わせておらず、目の前で起こることになす術が無かった。

 視野がぐらぐらと動く。この場所を去りたい。

 あんな不気味なもので触られたくない。どこからか心臓の鼓動が聞こえた。

 〝わたし〟わたしの宿主の音だ。わたしが乗り移っている犬も目の前の事態にパニックを起こしているのだ。もはや、尻尾さえ動かせないのに。

 助けてくれ。

 ワゴンに乗車していた二人は、とっくに霧に溶けていた。救いはない。

 触手がべたっとブルドッグに巻きつき、暗闇へ引きずっていった。次はわたし――いや、わたしの宿主の番だ。

 視界がぐらりと揺れた。目に入らなかった別の枝がわたしの宿主の足を掴んだらしい。ぞっとする感触だ。ぬめっとしていて、氷のように冷たい。犬の死体だって数キロはあるはずだが、触手はあんなに細いのに、信じられない力でトンネルの奥へ引きずっていく。

 耳鳴りのような金属音が響いた。断末魔の悲鳴を上げたのだ。同時にすべてが黒ずみ、激しい動悸が引き金となって宿主の命が燃え尽きたのをわたしは知った。すうっと体が浮かんで、いきなり犬の死体の山を見下ろすことになった。わたしの意識が一時の宿主であった犬から離れた。わたしの隣をすうっと消えていくものがあった。きっと魂だったのだろう。

 正直ほっとした。

 間一髪だったと言っていいのか、結局わたしは宿主の種類さえ見失った。あのまま哀れな肉体が奥へ引きずられて何をされるのか、知りたいとは思わなかった。

 中空から眺めると、ずいぶん大量の犬たちだ。二十や三十はいるだろうか。この数がすべてあのワゴンに積み重なっていたかと思うと信じられない。

 ――わたしはかれらの一瞬の夢。

 わたしは、失われようするものの意識を借りることが出来る。

 命が薄くなったものの心に忍びこめるのだ。

 今晩は、町に流れる川のそばに捨てられた犬たちのひとつに、わたしは乗り移っていたということだ。誰の体を借りるのかはわたしにはコントロールできず、それが歯がゆい。ほぼ日課のように、わたしはこれを繰り返す。

 息を引き取る間際の老人の思い出。重病の中年女の性夢。事故に遭った瀕死の男の走馬灯。虐待を受ける幼女の幻覚。末期の麻薬中毒者の悪夢に登場することもある。

 楽しい体験ではないし、今夜のように人以外にも乗り移ることもある。死に際の夢はだれしも平等ということか。……が、今夜の出来事は久しぶりにわたしを打ちのめした。

 あのトンネルから這い出たものは何だったのか。心なしか、暗闇の奥からは何かを潰す音が聞こえたような気がする。想像したいわけではなかったが、哀れな犬たちを餌食にする何かがいるとしか思えなかった。それはぐちゃぐちゃと噛み砕く音だった。

 ぼきぼきと骨を折り、ずるずると何かを吸い取っていた。

 魂を失った後も、そのぬけがらの受ける悲惨を思うと心が痛んだ。

 わたしはこの町の地下にいるものの正体を見た気がした。トンネルの奥に一瞬赤いふたつの目が光ったのを見逃さなかったのだ。先ほどの竜の目よりも邪悪だった。長年、思い煩ってきた疑問が氷解するようだった。

 ……何かがいる。この町には。

 視野が涙でにじむ。実体を持たないわたしはどうすることも出来ないし、それがどこにいるのか調べることさえ叶わないのだ……あんなに積み重なっていた山が消えた。

 すべてをトンネルが飲み込んだのだ。群がっていた蝿たちが、渡り鳥のように新たな獲物を求めて霧の奥へ消えた。わたしの体もどんどん彼らから遠くなる。

わたしの宿主だった犬が味わった恐怖もしばらく忘れられそうにない。

 こんなことは終わらせなければならない。

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