第二章「南涼子」
【南家のお嬢様】
自惚れていた、と言われてしまえば、そうなのかもしれない。
私の実家は、優秀な人材を次々と輩出することで有名な名家であったし、自分でいうのも憚られるが、私の容姿が、クラスの女子の中でトップレベルなのも心得ていた。
それだけに――
「ごめん」とただ一言呟き、イチが深々と頭を下げたとき、何が起きているのか理解できていなかった。夢でも見ているのだろうかと、数回瞳を瞬かせた。
ただひとつ、ハッキリと言えること。
この日私は、イチに告白してフラれた。人生で初めての告白にして、初めての失恋を経験したのだ。
冷たい雨が降る、五月中頃のことだった。
◇
「おはようございます。お嬢様」
アイロンの効いたセーラー服に袖を通して自室のドアを開けると、真横にいた執事が声をかけてくる。
「おはよう」と私が返答をするまでが、毎朝行われるルーチンワーク。そこにあるのは愛情なのか、それとも忠誠心か。どちらにしても、感情の動きに起伏はない。
キッチンに入ると、「今日はいつもより少し遅いじゃないか、涼子」と今度は父の声。
「昨日、夜更かしでもしたのか?」
「別に。そんなことないよ。それに、昨日より五分遅いだけでしょ」
相変わらず細かいな、と辟易しながら、トーストとサラダを準備して席に着く。
父は、コーヒーカップを片手に新聞を読んでいる。この人はいつもこんな感じだ。自分の時間を大切にしているというか、家族とのコミュニケーションをあまり重視していない。
でもそれは、きっとしょうがないことだ。市会議員である父は多忙で、母と家の者に育児も家事も任せきりだ。朝食を食べている時くらいしか、顔を合わせることもない。
神無し島に住んでいる子どもは、中学生のうちに自立することをごく自然に促される。この余所余所しい扱いも、親離れをし、巣立っていくための予行演習だと思えば、まあ。
第一この島に、十六歳以上の子どもはほぼいないのだから。
「ごちそうさま」
かき込むように食べ終えて、鞄を片手に玄関を目指した。靴を履いているとき、母とメイド長がしているひそひそ話が耳に届いた。
「殺し、ですか?」とメイド長。
「そう」とこちらは母。「二ヶ月ほど前に、本土で骨董品屋の店長が殺害された事件があったでしょ?」
「そういえば、ありましたねえ」
ニュースで報じられていたから、私もよく知っている。
「そのときの容疑者が姿をくらましているらしくて、島に渡って来ていないか情報提供をしてくれって警察から依頼があったみたいなのよ」
「え、殺人犯が島に来ているの?」
不穏なワードが聞こえたので口を挟むと、驚いた顔で母がこっちを見た。
「ううん、まさか。フェリーの搭乗者リストには、それらしい名前はなかったらしいし」
「名前はわかっているんだ。じゃあ、すぐ見付かるじゃん」
「と、思うんだけどね。あ、この話内緒よ涼子?」
「わかっているよ」
市政に携わるというのは面倒なもので、こういった表沙汰にできない話が時々回ってくる。どうりで、父が朝からピリピリしていたわけだ。
「あ、それから涼子」
「なに?」
「今日は念のため、山田の車で学校まで送ってもらいなさい」
「えー。いいよ」
山田というのは執事の名だ。
恥ずかしいから、とだけ告げて、急いで家を飛び出した。長い物には巻かれろという言葉もあるが、私はそんなに優等生じゃない。子ども扱いは嫌いだが、大人になれ、と言われるのもそれはそれで癪だ。
空は青く澄み渡っていたけれど、風が強くて少しだけ肌寒い。今日はあまり気温が上がらないだろうか、と思いながら学校を目指した。
◇
何歳までを子どもと定義するべきか、難しいことはわからない。線引きの曖昧さはともかくとして、島に高校が存在していない――ということが、十六歳以上の子どもが島にいない理由だ。
そのため中学を出ると、みんな島を出て本土の高校に通うことになる。これが、高校生になると大人扱いをされるという、神無し島特有の文化を生んだのだと思う。
かくいう私も、
イチに告白してしまったのは、それが原因だと言えなくはない。
端的に言って、私は焦っている。
この島を出なくてはならないのであれば、私は大人になんてなりたくない。
「あら、涼子ちゃん、おはよう。今日も可愛いわねえ」と近所のおばさんが笑顔を向けてくる。
「おはようございます。いえいえ、とんでもないです私なんて」
やっぱり、南さん家の涼子ちゃんは礼儀正しいねえ、となお続いたお世辞を笑顔で受け流してすれ違う。
礼儀正しいか、と昨日の情事を思い出して苦笑い。そう見せとかないと父がうるさいから、仮面をかぶっているだけに過ぎない。
「作られたイメージっていうの。めんどくさいんだよね」
「よう、涼子。おはよう」
「うわあ!?」
考え事をしながら歩いていたせいか、背中から聞こえてきた真人の声に、心臓が飛び出るほど驚いた。
「やめてよ、急に声をかけるの。驚いちゃうじゃない」
「悪い悪い。でも、俺普通に声かけたと思うけど?」
言いながら隣に並んだ真人を見て、それもそうかなって思う。
急いで家を出てきたのか、後頭部に寝ぐせが付いている。なんか可愛い。
「で? なに考えてたの?」
「え、なんで?」
「そうやって難しい顔をして涼子が歩いているときは、何か悩み事があるとき」
「どうしてそう思うのよ」
「なんとなく? 俺はほら、涼子との付き合いが結構長いし」
難しい顔、していたかもしれない。というか、何やら会話のペースを握られっぱなしだ。
「真人さ、将来の夢ってある?」
反撃、というつもりはないが、何とはなしにそう聞いた。自由奔放な真人のこと。なにそれ? と笑い飛ばすものだと思っていた。それなのに。
「なんだよ、それ」と酷く真面目な顔で受け答えした。え、なんでそんな顔?
「いや、何ってわけでもないんだけど。私って、将来の夢がこれといってないんだよね。進路希望調査の用紙にも、親に推薦された学校の名前をそのまま進学先として書いてる。先生にはさ、親とよく相談して決めるようにって言われるじゃん? でもさ、全然相談していない。言われるがままっていうか。……かと言って、行きたい学校があるかというと具体的にないし。そういう主体性のなさが、また嫌だというか」
まくし立てるように言ってから、しまったと口を塞いだ。
「ごめん……。一人でベラベラ喋りすぎたね」
「いや、別に。でもまあ、涼子の気持ちわかるかな」
「え、そうなの?」
「うん。俺もさ、将来の夢って全然ないんだよね」
そう言って俯いた真人の顔は、らしくもなく沈んで見えた。
「なんか意外。だって真人ってさ、親の仕事を継いで植木屋になるんじゃないの?」
鮫島造園は、この島で一番大きい植木屋だ。長男である真人が継がなかったら、親父さんが悲しむぞ。
「うん。たぶんそうなると思うんだけどさ、でもそれって、俺の意思と違うじゃん? そういうの、夢とはなんか違うと思うんだよな」
「確かにね」
「ま、贅沢な悩みなのはわかっている。特に、光莉の前ではこんなこと絶対に言えない。彼女の未来は、いつ
「……」
これには押し黙るほかない。光莉に対する後ろめたい気持ちが腹の底からせり上がってきて、じわっと手のひらが汗ばんだ。
「気にならねえか?」
「え、何が?」
突飛な話題の転換に、頭がついていかなくなる。
「増えたのが、誰かっていう話」
「ああ」
光莉かもよ、なんて言いだした手前、受け答えの仕方に悩んでしまう。だが、後から続いた真人の言葉は衝撃的なものだった。
「俺、昨日聞いたんだよ。増えた人間が誰なのか知りたかったら、悠久の木がある場所に行けって」
「悠久の木」
その単語を聞いた瞬間、気温が一、二度下がった気がした。けたたましく鳴いていた蝉の声が、一瞬だけひずんだ。
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