【ボクの姿が見えるのかい?】
海は、空の色を投影してくすんで見えた。
さっきまで覗いていた太陽は何処へ。沈んだ心とリンクしたかのように、いつの間にか曇っていた空から差し込む光は弱々しい。鼻をつんとくすぐる磯の香りが、心になお湿り気を与えるようだ。
なんとなく、家に帰る気になれず、学校を出てから真っすぐ海に出た。海水浴場を抜け、そのまた先にある防波堤の上に腰掛けて、神無し島特有の入り組んだ海岸線を見つめていた。
「みっともねーなあ」とは、正直思う。
ああして苛立ってみせたが、実際都が手を抜いていたという確証はない。
これまでのタイムから言って、俺に勝ち目はほぼ無かったはずだが、だからといって、二人のタイムに決定的な差があるわけじゃない。
もし、何かひとつでも都がミスを犯していたなら、たちまち勝敗がひっくり返る程度の差なのだ。
とはいえ、この僅かな差がとてつもなく大きいことも知っている。
だからやっぱり、都は手を抜いたのかもしれない。
こんな感じに、思考はさっきから堂々巡りで、何分海を眺めたところで答えなど出そうになかった。
外から見ていたのに、光莉の奴は気づかなかったのかよ、なんて、
落ち着け。
第一、都に手加減をする理由なんてあるのか? アイツだって、間違いなく光莉のことが好きなのに?
「あーあ。全然意味わかんねえ」
それもこれも、真っ向勝負で勝てない自分が悪いのだが。
くだらないことを考えるのは止めにしよう。そう思ったのに、
――増えたのはさあ、なんとなく光莉じゃないかと思うんだよね。
今度は別の
増えた人間はいずれ消えるのか?
そもそも増えたのは誰なんだ?
あの時川にいた八人の名前を順々に思い出していくが、やはり全員のことを俺は知っている。とりあえず、光莉が消えるなんてことは勘弁してほしい。俺はまだ、彼女に告白すらしていないのだから。
どうせ消えるなら――と思ったとき、都の姿が脳裏に浮かんで、慌てて頭を左右に振った。
なに考えてんだ。いくら都のことが気に入らないからって、世界から消えてしまうことを望むなんて。
次第に陽が西に傾いてくる。日中はぽつぽつと海水浴客が見える砂浜も、この時間帯になると本当にひと気がなくなる。遠方からやってくる観光客も、夕方になると多くが帰路に着く。この辺りの海は風が強くて海流の流れもその分速いので、太陽が沈む頃には水温も下がってしまう。
人が少ない海は黄昏れるのに絶好だが、今日はこれ以上考え事をしたい気分でもない。
『そろそろ帰ろうかな』
呟きが、別の声と綺麗に重なって、驚きのあまり横を見る。防波堤の上、ほんの数メートル先に女の子が立っている。歳は俺と同じくらいだろうか。白すぎる肌が、薄暗くなった空をバックにひと際映える。夜空みたいな漆黒の瞳が、じっとこちらに向いていた。
驚いたのは、声が綺麗に重なったことや、いつの間にか彼女がそこにいた、ということにもだが、なによりその異様な格好か。
神無し島で巫女装束って、皮肉が効きすぎだろ。
「驚いた。ボクの姿が見えるのかい?」
そいつが小首を傾げると、濡れ羽色のショートボブがふわりと揺れた。
「冗談は格好だけにしてくれ。見えるに決まってんだろ」
「へえ、どうしてなんだろ? ん? もしかしてそういうこと?」
「お前、なに言ってんの?」
「あ、いや。こっちの話」
「ところでお前、どこの誰だよ? この島に、お前みたいな女の子は――」とそこまで言いかけて、観光客、という単語が頭に浮かぶ。
「残念ながら、観光客じゃないよ」
ぴしゃりと否定された。その女の子が、くすりと笑んで口角を上げた。
「いやいやいや、じゃあ誰だって言うんだよ。そもそも巫女装束なんて妙な格好――」
「花咲神社の巫女くらいしかありえない、と言いたいんだね?」
「――!」
これには絶句してしまう。一度ならず二度までも心を読まれた? まさかそんな。
「なあお前。いったい何者なんだよ」
「なんだと思う?」
花咲神社に巫女さんがいるのは、アルバイトを募集している正月の三が日くらいだ。平時は、
それにだ。こいつが、もし俺の心を本当に読んでいるとしたなら、人間じゃないという可能性すら。
「ご名答」
「なっ……!」
心中で行われた、
「そう。君が思っている通り、ボクはアルバイトの巫女なんかじゃないし、人間ですらない」
「おいおい……。バカも休み休み言ってくれよ。そんなこと、あるわけないだろう」
「ふーん。どうやったら信じてくれる? あ、そうだなあ。じゃあさ、心の中でなんか数字を思い浮かべてみて? それをボクが当てるから」
「んなもん、当たるわけがないだろう。いいよ、やってやる。じゃあ、考えるぞ?」
「どうぞ」
八十六。
「八十六」
「なんでだよ……!」
「ウフフ」
百五十一。
「百五十一」
「……!」
この後同様のことを五回繰り返したが、よもやよもやで全て正解だった。
ここまでくると、さすがに信じないわけにもいかなくなる。
「て言うかさ。今さらだけどお前浮いてるよな」
足が、防波堤のコンクリから五センチほど離れてる。
「浮いてるよ。だから言ったでしょ。人間じゃないって」
「
「吉田眼科なら、本日の十八時で診察を終了しました。あと、眩暈がしたときに行くのは眼科じゃないよ?」
「島の事情に詳し過ぎる……」
ほんと、妙な奴。値踏みするように彼女の姿を見る。巫女装束ってことは、幽霊でもなさそうだし。
「あはは。そんなエッチな下着は履いてないよ」
「そういう思考は読まないで」
ほんとに全部筒抜けなんだな。余計なことは考えられない。
「わかった。お前が普通の人間じゃないことは理解した。では、お前はいったい何者だ? もったいぶらずに教えてくれ」
「神だと言ったら、信じるかい? まあ、信じてくれなくてもいいんだけどね」
島に住んでいる神様ってことか? 神様って言ったら、もっと皴しわのおじいちゃんみたいなのを想定していたんだが。何かを期待するような感情と、忌避する感情とがない交ぜになる。
「おじいちゃんか。酷いなあ。まあ、そういった姿の神も実際多いけどね」
「もはや突っ込む気にもなれない。で? その神様とやらが、こんな場所で何してんのよ」
「いや? 別に何もしてないよ。でも、君と会うことができたんだし、フラっと海まで足をのばした甲斐はあったかもね」
「なあ、お前の姿が見えているのって、もしかして俺だけ?」
目の前を、観光客が通り過ぎて行く。この子、なに独り言呟いてるのかしら? という怪訝な目を向けながら。
「そうだね。ボクの姿を見たこと、あんまり大っぴらにしないでね。言うなってわけでもないけど」
「ああ」
言ったところで、こんな荒唐無稽な話、誰も信じてくれないだろうけどな。
「増えた人間はいずれ消える」と、突然独白するように彼女が言った。
「……増えたのが誰か、気にならないかい?」
「なっ」
そんなことまで知ってんのかよ、と言いかけて、神様だもんな、と即座に腹落ちする。
「気にならないと言ったら嘘になる。が、教えて欲しいと言えば、教えてくれるのかよ?」
「うん。ボクには特殊な力があって、ボクの姿が見える人間の願い事を、ひとつだけ叶えてあげることができるんだ。一生で、一度だけ」
「ひとつだけ?」
「そう、ひとつだけ」
「姿が見える人間だけなのか?」
「そう、ボクの姿が見える人間でなくてはならない。正直理屈はよくわかんないんだけどね」
「神様がわかんないんじゃお手上げだな」
「あはは、まったく」
正直眉唾ものだ。とはいえ、ここ数日の出来事は何から何まで非科学的だし、頭が麻痺しているというか無理やり納得しておいた。それはそうと、一生に一度の願い事を、くだらないことに使うのはもったいない。誰が増えたのであろうと、増えた人間が人知れず消えようと、俺には関係ない話。
たぶん。きっと。
「いや、いい。本当に願い事が叶うなら、もっとデッケぇことに使いたい」
「男の子だねえ」とそいつは笑った。「確かにそうだよね。じゃあさ、代わりにヒントをあげるよ」
「ヒント?」
「そう。増えた人間に繋がるヒントは、悠久の木の周辺にあるよ。詳しい場所は言えないけれど、気になるなら行ってみて」
「そんなこと、俺に教えちゃっていいのか?」
「いいんだよ。どのみち、今年の夏一杯がタイムリミットだろうからさ。いずれ終わりの日は来るんだよ」
瞳を伏せた彼女の顔は、孤独を噛みしめたように寂しげで、それこそ思春期の女の子のそれだ。本当に彼女は、神様なのかよ――としばし言葉を失う。
なに言ってんだコイツ、と言葉の意味を汲み取ろうと思考を巡らしたその時、いくつかの単語が脳内でフラッシュバックした。
『悠久の木』
『タイムリミット』
『増えたのは、光莉だと思うんだ』
この三つ全てに繋がりがある? じゃあ、消えるのは。
「あ、そうそう忘れてた。ボクの名前、夏南だから。以降、お見知りおきを」
陽が沈むさいに放たれた光が、山の稜線を丁寧になぞった。
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