彼女はアストロフォビア

西野ゆう

第1話

 梅雨が明けたばかりの海の日前日の深夜。

 その海から遠く離れた場所では、フクロウたちがやまびこで返る声と遊んでいるようだ。

 俺は標高千メートル弱のダム湖畔にあるキャンプ場に、職場の仲間たちと急遽キャンプに来ている。当初はビアガーデンに行く予定だったが、飲むと動きたくなくなる無精が集まる職場だったし、唯一のハンドルキーパーが不参加とあっては、飲んだ後その場で休める環境が良い。温泉宿という選択肢も上がらなかったわけではないが、ビアガーデンとそれとでは帰りのタクシー代を入れてもコストに差がありすぎる。

 それもあって、杏奈の「キャンプしたい」という一言があっさりと採用された。

 夏は星空が一番美しい季節だ。

 星が綺麗に見えるのは空気が澄んでいる冬の空だ、という人もいるがそれとは違う。

 シリウスを筆頭に、ベテルギウス、リゲル、カペラ、アルデバラン、プロキオン……明るい星たちが多く見られはするが、冬の夜にそれらは寂しげだ。

 一方で夏の夜空でその視線を引き付けるのは天の川だ。

 それは夜空にまたがり、圧倒的なほどの存在感で観る者を吸い寄せる。それと同時に自分が踏みしめている大地もそれらの一員であると感じさせ、人々を宇宙へと浮遊させる。

 今、俺はそんな夜空を見上げながら、レナード・コーエンのハレルヤを口ずさんでいる。夜空を見上げる時、なぜかこの歌が浮かんでくるのは、幼き頃に観た映画かドラマの印象が残っているのか。

 他のメンバーはほとんどテントや車の中で酔いつぶれて眠っている。

「宇宙こえぇよおー」

 俺の近くでマットを敷いて仰向けに寝ていた杏奈がハレルヤを歌い終わるのを待って、何の脈略もなく目をその夜空に向けたまま呟いた。

 そして今度は手足を大の字に広げてバタつかせている。

「宇宙! マジで怖いんですけど!」

 なんか危ないものでも吸ったかのような動きと、空に向かって叫ぶ姿が滑稽に見えて笑い出した俺に、杏奈が憮然の二文字を顔いっぱいに表して食って掛かってきた。

「いや、怖いっしょ? フツーに宇宙って怖いっしょ? カイには分かんない?」

 普通に地上で生活している人間が、宇宙に対して恐怖心を抱く姿を俺は初めて見た。宇宙飛行士が「宇宙は怖い」というのは非常に説得力がある。しかし、ウェブデザイナーという、業務のほとんどがデスクに向かって完結する職にあって、何故か生傷が絶えない杏奈が言うと滑稽でしかない。

「宇宙の何が怖いわけ?」

 興味があったわけではないが、酔っぱらいの話を聞いてあげるくらいの甲斐性はあるつもりだ。

「宇宙ってさ、でっかいの。だってあの星だって本当は何億年も前の光なんでしょ?」

「ああ、そうだね」

 実際は天の川銀河の直径が十万光年程度なので、見えている星たちなんてせいぜい数万年前の姿なのだが、酔っぱらいにそんなこと言っても無駄だ。

「怖いわあ。自分の小ささを痛感してホント怖くなる」

 杏奈は宇宙そのものというよりも、それに対比して感じる自分の無力さや孤独が怖いのだろうか。

「意外と寂しがりやなんだな、杏奈って」

 それが図星だったのか、杏奈は言い当てられた悔しさでまた手足をバタつかせた。

「ああもう! ムカつく! カイ、ムカつくんですけど!」

 暫くもんどりうったり叫んだりしていたが、疲れたのかピタリと動きが止まる。

「居るよね?」

 不意に小さな声で杏奈が言った。

「何?」

「今目を閉じて、次に開いたらひとりぼっちってこと、ないよね?」

「知らね。ひょっとしたらあるかもな」

 また食って掛かってくるかと思ったが、どうやら本当に怖くなったようで、泣かせてしまったようだ。鼻をすする音が聞こえる。

「まあ、あれだ。恐怖心なんて細胞の叫びだ。オキシトシンが減ってカテコールアミンが増える。杏奈の正常に受け継いだDNAがそうさせているだけだよ」

 杏奈が不安を抱えている時は、単純に他のことに気持ちを向けさせてやればその不安は解消される。専門外の言葉をぶつけると、いつも決まってそっちに神経が向き、直前の自分の行動さえ曖昧になるほどの単純さだった。しかしこの時はそれも効果は薄かったらしい。

「酔ってるのかな。怖くて堪らないのに、天の川に吸い込まれそうで怖いのに、なのにずっと見ちゃう」

 俺は頭の奥の方でチリチリと電気信号が激しく往来するのを感じていた。男として正常に受け継いだDNAたちが、俺の細胞を刺激している。

「杏奈もズルいよな」

 酔っているとはいえ、普段はいつでも強気な奴が、星空の下で異常に寂しがるなんて卑怯だ。

「何、ズルいって。訳分かんない」

「とりあえずさ、ちょっと目を閉じている間に誰もいなくなるなんてないっての」

「でも、そんな不安に襲われるんだもん」

「ちょい、試しに閉じてみろよ、目」

 ズルいのは俺の方だ。そう思いつつも、目を閉じた杏奈の顔に近づいた。涙の跡が星空に反射して青白く見える。頬を流れる天の川だ。その流れの上流から下流に向けて右手の親指を滑らし、その跡をぬぐった。

 そのまま手を頭の後ろに回し、抱え込んで軽く持ち上げると、杏奈の白い額に長い前髪が落ちる。それを空いた手で掻き分け、そのまま額にキスをした。

「目、開けてみろよ」

 ゆっくり目を開けた杏奈の瞳は、予想していた色には染まっていなかった。

「ぐっ!」

 俺は突然の苦痛に悶絶した。痛む場所を見ると、綺麗に杏奈の右拳が鳩尾みぞおちへとめり込んでいる。

「カイ! お前ざっけんじゃねーぞ!」

 そう叫ぶと杏奈は熟練の柔道家のような身のこなしで、あっという間に俺のマウントポジションを取った。

「今の場合、普通口じゃね? 口にするもんじゃねえの?」

 上に乗られた杏奈に両肩を揺さぶられながら、そのもっともな苦情を甘んじて受けていたが、この後つい口にした言い訳が杏奈の怒りに油を注いだ。

「だってさ、酒くせぇんだもん」

 次の瞬間、再び鳩尾に激痛が走った。

「そこで寝てろ! んでもって、そのまま天の川に流されろ!」

 杏奈は捨て台詞を吐いてテントに潜り込んでいった。

 俺は吐き気を堪えて身体を起こした。

「やっぱ、一番怖いのは女だろ……」

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彼女はアストロフォビア 西野ゆう @ukizm

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