彼女のお父さん

 秋吉紅葉あきよしこうようは帰宅をためらっていた。紅葉は妻恵美と娘実を愛する自宅大好きなマイホームパパである。

 その紅葉の足取りが重くなっている理由は二つあった。

 一つはこんな日に限って大漁だった事。クーラーボックスの中には、魚が沢山入っている。

釣り自体は好きだが、紅葉は魚をおろす事が出来ない。いつも恵美任せなのである。

(まさか小さい鯵が大量。しかも大型の太刀魚に鯛まで釣れるなんて)

 その恵美も、おろせるのは中型の鯵位だ。他の魚は知り合いの魚屋に有料でおろしてもらっている……勿論、紅葉のお小遣いで。

 近所に配るという手段もあるが、小型の鯵をそのまま渡すのは、有難迷惑に思えてしまう。


「実から返信なしか……いつもなら直ぐに返してくれるのに」

 そして紅葉が帰宅をためらっている一番の理由は愛娘実にあった。

 中学時代、バドミントンを辞めた実は塞込む事が多くなった。表面上は明るく振る舞っていたが、心から笑う事が減ったのだ。

 しかし、実は高校に入学してから昔の様な笑顔を取り戻した。いや、昔より幸せそうに笑う様になったのだ。

 それと同時に増えたのは“信吾君”の三文字。特にアルバイトを始めてからは、その割合が格段に増えた。

 紅葉ちちおやの目から見ても分かる。今の娘を恋する少女。もちろん、娘が明るさを取り戻した事には感謝している。

 しかし、父親にとって娘は、最愛の恋人ともう言う。紅葉の信吾に対する感情は複雑な物であった。


 自宅に前にある見慣れない自転車が成俊の心を重くする。実から聞く恋敵しんごの性格は真面目そのもの。感謝こそすれ憎んではいけない相手だ。

(ここは私の家だ。そして私は大人……相手がちゃらい馬鹿男なら、締め出せるんだけどな)

 溜息を漏らしながら玄関を開ける。実は小さい頃、紅葉が帰宅すると笑顔で駆け寄ってきてくれた……そんな想い出が詰まった玄関である。

 

「ただいま」

 幸いな事に玄関に見知らぬ靴はなかった。紅葉は、胸を撫で下ろしつつ自宅に入る。


「お父さん、お帰り。お母さん、お父さん帰って来たよ」

「おじさん、お邪魔しています」

 出迎えてれくれたのは、娘の実とお隣の優紀。


「優紀ちゃん、いらっしゃい。実、勉強会は終わったのか?」

 信吾がいないと分かった紅葉は“少し早いんじゃないか?”と小言を言おうとしていた。


「信吾君なら包丁を取りに帰っているよ」

 若干……かなり冷たい視線を向けてくる実。彼女からしてみれば、大事な勉強会を邪魔したのは、他ならぬ紅葉ちちなのだから。


「包丁?勉強に包丁は必要ないだろう」

 紅葉の言葉には確実に棘があった。いつもの紅葉ならこんな事は言わない。それだけ実の冷たい視線が効いたのだ。


「良里君が、貴方が釣った魚をおろしてくれるのよ。サンドイッチもが作ってきてくれたし……貴方の分、残してあるから食べる?それとヨシザトのスープとムースを頂いたの」

 恵美は、クーラーボックスを開けると“誰がこれをおろすの”という非難めいた視線で紅葉を見る。


「そ、それは向こうの親御さんに、お礼を言わないとな。実もお世話になっている事だし……サンドイッチも美味いな」

 自宅だと言うのに、サンドイッチの美味しさが、紅葉の肩身の狭さに拍車をかけていた。


 今回ようやく日の目を見る事出来た。貯めておいたアルバイト代で包丁ケースを買いました。

 鍵付きだから、おまわりさんに見つかっても安心。

(高そうな車……ブロッサムに入れる財力だもんな)

 秋吉の家に停まっていたのは、高級ワンボックスカー。うちにも車はあるけど、仕入れに使う名前入りワゴン車だ。


「すいません、良里です。遅くなりました」

 車がいる……つまり、秋吉さんのお父さんがいるって事だ。

(勝手に魚をおろすとか言って生意気だって思われないかな?)

 しかも包丁ケースまで持ってきて……どう考えても料理する気満々じゃん……でも、どこまでするのが正解なんだろう?流石に最後まで完成させるのはアウトだと思う。


「信吾君、お帰り……お父さんは待っていて!」

 秋吉さん、お母さんに対する態度とかなり違う感じがするんですけど。


「あの……今更だけど僕が魚おろしても良いの?」

 少し料理が出来るからって調子に乗っていると思われないかな?


「むしろお願い。あんなに沢山釣ってきちゃって。信吾君がいなかったら、どうするつもりだったんだろう?」

 沢山か……もしかして秋吉さんのお父さんって釣り名人?大きな事言わなきゃ良かったかも。


「良里君、勉強していたのに、ごめんなさいね。数えたら鯵だけで三十匹もいたの。小さい鯵は捨てても良いから」

 その他、スズキが二匹。太刀魚と鯛が一匹ずつ……これ位ならリアル朝飯前だ。


「大丈夫ですよ。毎朝三十匹はおろしていますので……すいません、透明のビニール袋をもらって良いですか?透明なやつ。それとボールとバットを貸して下さい」

 ……義斗兄ちゃんの家では何回か料理した事があったから良かったけど、他人の家で料理するのは緊張する。目標は出来るだけ汚さない事だ。


「信吾君、小さい鯵はどうやって食べたら美味しいの?」

 秋吉さんが指さしたのはいわゆる小鯵。商店街のおじさんも、これ位の鯵をよく持ってきてくれるんだよな。


「酢締めや南蛮漬けかな。とりあえず鯵は三枚おろしにしておきます」

 不思議なもので包丁を持つと自然にスイッチが入った。朝のルーティンのごとく鯵をおろしていく。


「凄い……あんなにあった鯵を全部おろしたんですか?」

 優紀さんがキラキラして目で見てくれる。お願い、もっと褒めて。爺ちゃん達はチェックばかりで、全く誉めてくれません。


「中型の鯵は刺身やたたきにして下さい……秋吉さん、お父さんを呼んでもらえる?」

 まだ顔合わせをしたくなかったけど、こればかりは仕方がない。


「君が信吾君か……実がお世話になっているみたいだね……それで私に何の用かな?」

 ……お父さんの目が笑っていません。まあ、休みの日の娘が男の子を連れて来たら良い気持ちはしないか。


「スズキ、太刀魚、鯛はどうしたら良いですか?何を作るかは、釣った人の特権ですので」

 流石に全部刺身って訳にはいかないし、フライとかにするなら切り身にした方が良い。それによそ様に配るなら、切り分ける必要もある……優紀さんもいるって事は織田君の家にもいくんだろうな……ちょっとだけ複雑な気分です。


「鯛は刺身とあら汁にして欲しいな。スズキは刺身とフライ。太刀魚は何が良いんだい?それとお隣の織田さんにお裾分け出来る様にして欲しい」

 あら汁か……鯵の骨を取っておいて良かった。


「太刀魚は塩焼きかムニエルがお勧めですね。お刺身も美味しいですけど、鯛もありますし……とりあえず鯛から、おろしていきます」

 ビニール袋に鯛をいれて鱗をとっていく。こうすると、飛び散らないから、後から楽なのです。

 鯛の頭を半分に割り、骨と一緒のボールに入れる。


「凄い。スーパーで売ってる形になった。流石は信吾君」

秋吉さんは誉めてくれたけど、ここで調子に乗ったら駄目だ。それに僕の役目はここま……今日の目的は勉強なんだし。

 秋吉さんのお母さんに頼まれたので、何品かレシピは書きました。


 チキンと笑うなら笑って下さい。実は秘かに十六時半タイマーをセットしていました。


「もうこんな時間だ。今日はありがとう。かなり勉強になったよ」

 お家にお邪魔した時のお約束のアルバムチェックも下着発見ハプニングもないまま、勉強会は終了。会話もかなり少なめでした。


「えっ、もう?晩御飯食べて行かないの?」

 秋吉さん、僕はノミの心臓なんです。そこまで厚かましくなれません。


「今日はお父さんの釣果をねぎらってあげて。優紀さんも付き合ってもらってありがとうございました」

 あまり長引かせると、引き留められてしまう。僕は秋吉さんの誘いを断れる自信なんてないんです。


「良里君、もう帰るの?晩御飯食べて行けば良いのに」

 秋吉さんのお母さんも夕飯に誘ってくれた。

(これは社交辞令だ。一回目で晩ご飯をご馳走になるなんて、厚かまし過ぎる)


「ありがとうございます。でも、明日も仕込みがありますので……今日は魚を捌かせてもらって、良い勉強になりました」

お母さんの後ろにいたお父さんにも頭を下げる。少しは印象が良くなった……筈。


「良里君、今日はありがとう。テストが終わったら、一回遊びに来なさい。君が作った料理を一度食べてみたいしね」

 秋吉さんの家で料理か……よし、決めた。夏空さん達にもきてもらおう。

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