【第二ノ怪】紫陽花の思い出 その19

 さきさんは何処か自信なさげに答えた。俺の方をチラと見ると、突然下を向いて申し訳なさそうな顔で言葉を付け足した。


『実は、お恥ずかしながら実際にやるのは初めてなのです……頼りなくてすみません……』


 俺は驚いた。

 なんでも出来る幸さんにもやった事がないこともあるんだと。そりゃもちろん幸さんも人間なので出来ないこともあるという事は分かっていた。その筈なのに何故か驚いてしまった。

 俺は気付いた。

 もしかしたら、いや、もしかしなくても、心のどこかで幸さんの事を特別な人間だと思っていたのだろう。


「幸さん、そんなこと気にしないでくださいよ! いつも通りの幸さんでお願いします! 頑張ってください! 俺達は応援することしか出来ないから……兎に角、いつも通り、落ち着いて、ね!」

『は、春翔はるとさん……分かりました! ありがとうございます! じゃあ頑張りますね』


 俺ができる限り明るく、今の心境を伝えると、幸さんはいつもの幸さんに戻った。


 俺達はゆうきくんの母親をなだめながら鏡をゆうきくんがいる方に向ける。


「ゆうき……ゆうき、そこにいるの?」


 母親は譫言うわごとのようにゆうきくんの名を呟く。


 鏡の中で幸さんが経典を取り出した。そして、始まった。


『我が詩を捧げましょう。言葉を糧に捧げましょう。微睡みの中、揺蕩う者を誘いましょう。玉響の時を捧げましょう』


 するとどうだろう。経典がぼうと光ったと思えば、次はその光が鏡に吸い寄せられた。そして俺がゆうきくんに向けている鏡から丸い球のような淡い橙色、黄色の光が降り注いだ。その光の球はとても暖かかった。

 ゆうきくんに光の球が当たると当たった場所から今まで透けていた体がくっきりと見えるようになった。



「ゆうき……!」

 ゆうきくんの母親が目をキラキラと輝かせて、泣きそうな声でゆうきくんを呼ぶ。


「ママ……!」

 ゆうきくんはキラキラとした満面の笑みでそれに応える。


 2人は今まで見た事がないような満面の笑みを超えるような幸せな笑みで抱き合った。まるで、存在を確かめ合うかのように。


 俺はこの場所にいて良かったと感じた。何故ならこんなにも幸せに溢れた空間に出会う事が無いからだ。もしかすると、こんなにも純粋な幸福はなかなか無いかもしれない。世の中の人々は皆、欲望で溢れている。幸福の中にも一抹の欲が混じっている。俺はそう考える。だからこんなにも純粋な幸福の空気に少しでも浸れるのが嬉しいのだ。


「ゆ、ゆうき!」


 ゆうきくんの母親が突然叫んだ。見ると、ゆうきくんの体がキラキラとまるで分解されるかのように崩れていく。


『あれは……もうこの世に未練が無くなったのでしょうね……あの世に行こうとしてるんですよ』


 幸さんが鏡越しにぼそっと声を発した。

 そうか……なるほど……そうなんだな


「ママ……! 僕もう行かなくちゃ……お兄ちゃん達、ありがとう!」


 キラキラと少しずつ消えゆく体には、もう悲しみは感じなかった。あるのは幸せのみ。


「ママ……! 大好きだよ! ずーっと、ずーっと、大好きだよう……」


 消える直前ゆうきくんは満面の笑みで今度こそ最後の言葉を発して、ゆうきくんの体は光の球に変わった。そしてぽうと光って消えていった。


「ゆうき……! ママもゆうきのこと大好きだよ! これからもずーっと……!」


 ゆうきくんの母親は涙をボロボロと零しておばあさんの腕のなかで蹲って泣いた。おばあさんも目に涙を浮かべながらもにこりと笑っていた。


「はるちゃん……ズビ……」

「おう……なんか泣けてきた……おい、俺の服で鼻水をふくな……グス……」


 俺達もつられて涙が出た。幸さんは憂いを帯びた表情をしていた。

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